第6話 影法師

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 ――いらっしゃい


 そんな言葉が聞こえたか、聞こえないかそれぐらいの感触の声が鼓膜を震わせた気がして、美恵子はカウンター席へ座る。

 座れば薄暗い世界に灯される蝋燭の灯りに浮かんだカウンターの木目と静かに置かれたグラスが一つ。

 そのグラスから目を話してバーテンダーに向けた眼差し。

 それだけでバーテンダーは無言で頷くとグラスを取り、小さく「――いつものを用意します」と言って背を向ける。

 その所作に客人(まろうびと)の時間を揺らすような素振りは無い。

 客人の時間を最高に楽しませる、その空間こそがこの『迷宮』の目的だと言わんばかりに、バーテンダーはやがて静かに向けた背を戻すと静かにカウンターにグラスを置いた。

 グラスの底から湧き上がる小さな炭酸ガスに交じる『迷宮』の時間と黙人の想い。それを恵美子は唇を寄せて、吸い込む様に一口、飲み込んだ。

 飲み込むと溜息を一つ。それからぐるりと迷宮を見渡す。

 壁に掛けられたオレンジ色のランプ。それからテーブルを小さく照らす蝋燭。後は疎らに映る人影。それはまるで影法師のよう。

 美恵子は再びグラスに唇を寄せる。彼女もまた他の客人から見れば一つの影法師に見えるだろう。

 正にその影法師こそ、都会に生きる人間の本当の姿ではないか。生身の温かさを棄て、今日と言う疲れた翳を落とす影法師こそ、自分であり、そして都会に生きる人間だろう。


 ――恵美子(自分)とはいったい何者か。


 そんな問いかけを呑み込んだ酒に交じらせながら深い溜息をついた時、自分と混じろうとする影が現れた。

 現れただけではなく影は確かに人間の声で自分に言った。


「田中美恵子さんですね」


 その声に美恵子はゆっくり振りかえると浮かぶ影の口元が笑っているのが見えた。

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