第三章・第十三話 蜘蛛の糸

 ――芥川の『蜘蛛の糸』におけるカンダタは、糸を独占しようとしたから、仏様から見放された。

 けれど、「私にしか掴めない蜘蛛の糸」ならば、遠慮せずにすがってもいいはずだ。


 ワンルームの生き地獄そのままの中、切実に「助けて欲しい」と思った。

 このままでは、死ぬ前におかしくなってしまう。

 いや、既におかしくなり始めている実感がある。


 ――武尊。

 真っ先に浮かんだのは、別れたはずの恋人の顔だった。

 彼はもはや、私のことなんかどうでもいいのだと思う。


 ……なんて身勝手な女なんだろう。理不尽にフラれて、憎みさえした前の恋人を、都合のいい時だけ、また頼ろうとするなんて。


 でも、彼しかいないように思われた。震える手で、スマホを手に取り、久しぶりに電源を入れた。


 しかし、すぐに愕然とした。フラれた時の怒りにまかせて、武尊のLINEはブロックして、トーク履歴も全て削除していた。電話番号も、電話帳から削除したんだった。まさか私も、彼のLINEのIDや、電話番号全ケタを正確には覚えていない。


 終わった。もう、誰にも助けを求められない。親がいるけれど、到底真相を話せるはずがない。


 ――それから、何日経ったかは覚えていない。

 一日中が針のむしろで、スマホにも触らず、ただ、骸のように横たわるのみの日々。


 気が付けば陽が暮れていて、また気が付けば夜が明けていた。

 今が何月何日なのかさえ、知る気になれなかった。


 ただ、「その日」は、なぜか、スマホの電源を入れた。

 そうしなければならない、と、「何か」が命じているようだった。


 待ち受け画面には「202X年7月22日」と出ていた。

 ニュースはチェックしない。むしろ辛かったから、ニュースアプリからの通知を全部オフに設定した。


 ――昼を過ぎた頃だろうか? 相変わらず、空腹感はまるで感じないけれど、スマホの画面だけで時間を知った。


 と、突然、スマホに着信があった。電話帳に登録のない番号だ。

 不審感より先に、出なければ、と思った。なぜかは分からなかった。

 とにかく、出た。

『……征美か?』

「……た、武尊……!?」

 ばくん! と心臓が跳ねた。

 けれど、それはまさしくの、蜘蛛の糸だった。


「……たす、けて……! 助けてッ……!」

 彼の用件が何かすら聞かず、また、自分の理由さえも言わず、切に訴えた。なりふりなんて構っていられなかった。気付けば、ぼろぼろと泣きながら、うわごとのように「たす……けて……た、すけ、て……」と繰り返していた。


 その様子を、武尊は敏感に察知してくれた。

『分かった。俺の話は後だ。今からそっちへ行く! 待ってろ!』

 そうして、電話は切れた。張り詰めていた緊張の糸が、少しだけ、緩んだ。


 武尊の下宿とは、言うほど離れてはいない。歩いても十五分とかからない距離だ。でも、十分もしないうちに、玄関のチャイムが鳴った。ドアホンの前に行くことさえ、大変だった。その間、もう一度チャイムが鳴った。やっと応対できて、エントランスのオートロックを開けた。


 やがて、内部の方のチャイムが鳴った。

 震える手で、ドア。

 武尊、いた。

 顔、見た。

 私、泣き崩れた。

 糸、切れた、マリオネット、だった。

 彼、抱きかかえてくれた。

 ベッド、横たえられた。

 彼、側に、いる……。

「う、うあ、うわあああああーーーーーっ!!!」

 錯乱したように泣いた。武尊は、何も言わなかった。ただ、泣き止むまで、待っていてくれた。

「察するに、ギリセーフ、ってところだったらしいな」

 まだ何も話していないのに、彼は、限界まで追い詰められていたことをすぐに理解したようだった。憔悴ぶりからある程度は分かっただろうにせよ、惚れ直すほどの洞察力、頭の切れだった。


「……暑いな。そろそろエアコンを点けないと、かえって身体に悪いぞ?」

 武尊は、勝手知ったる、といった様子で、部屋のエアコンを操作した。

 ひんやりとした風が、頬を撫でる。


 ……それは、ほとんど忘れかけていた、いや、長らく自ら遠ざけていた「現実」の一端のように思われた。

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