第一章・第二話 抜け殻の日々
――武尊とのなれそめは、大学での、とあるサークルの新歓コンパだった。
入学当初は浮かれていたから、どこかのクラブかサークルに入ろうと思っていた。どういう趣旨のサークルだったかなんかは、既にすっかり忘れたのだけれど、勧誘の声に気楽についていったことは覚えている。
それは、入会の意志の有無を問わない、ほぼ無目的の宴会。「宴会のための宴会」であって、よく言えば分け隔てなく、悪く言えば誰彼構わず新入生を誘って、騒ぐ。それだけだった。
私はお酒にはあまり強くなくて、ビールの大瓶を一本空けただけで、もう夢見心地だった。けど、先輩達はとても強引で、無理矢理追加で飲ませた。
結果、気分を悪くしてトイレに駆け込んで、全部をアンインストール、つまり嘔吐してしまった。
青い顔で席に戻ったら、先輩達がなおも酒を勧めてきて、困ってしまっていた。
そんな時、唯一優しくしてくれたのが、武尊だった。彼は毅然とした態度で立ち上がり、バカ騒ぎに明け暮れる一同に言った。
「あなたがたには、もう付き合いきれません。いたわりの心がない人達とは、俺と絶対に相容れません。失礼します」
本当に惚れ惚れする、というのは、あのことだった。そして武尊は、ぐったりした私を背負って宴席を中座し、下宿まで送ってくれた。その時、彼の連絡先を知りたいと思ったのも、自然な流れだったはずだ。
分かりやすく言えば、一目惚れに近かった。
次の日の夜、彼にお礼の電話をした。電話口でも、なによりもまず、彼は気遣ってくれた。嬉しかった。ますます彼に惹かれた。
私は文学部。彼は先進理工学部だった。無理矢理でも違いを挙げろと言うなら、彼は一浪しているから、学年は同じでも、歳が一つ上であることぐらいだ。
一回生の頃の一般教養の授業以外は、キャンパスの場所自体が別だから、普段の接点はほとんどなかったけれど、そんな事は関係ない。それよりも彼に運命を感じたのは、お礼の電話をした翌日、夕食のお弁当を買いにコンビニへ行った時だった。
正確には、最初に向かった店じゃなかった。その日はなぜだか無性にチキン南蛮が食べたかったのだけれども、運の悪いことに売り切れていた。諦めるのはしゃくだったから、すぐ近くにある別の競合店へ向かった、
幸いにも目的のものはあり、安堵と共にそれを手にレジへ向かった。
「温めますか?」
「あ、はい」
そこまではありふれたやりとりだった。けど、明確に聞き覚えのある声だ、と思った。店員の顔を見た。向こうも、こちらを見た。
「「あっ!?」」
見事にハモった。そう、そのバイト店員は彼だったのだ。ただ、後ろに他の客が並んでいる都合もあって、悠長にお見合いはしていられない。彼に、声を潜めて一言だけ聞いた。
「シフトはいつまで?」
「九時までだよ」
それで十分だった。温めてもらったお弁当を受け取り、何食わぬ顔で店を出た。でも、心がはしゃいでいた。
その日、夜の九時が過ぎるのを待って、彼に電話した。明日の予定を聞いた。幸運なことに、休みだと言った。会いたいと思った。少し強引だったけれど、カフェに誘った。そしてそこで、彼に告白した。
「こんな俺でいいの?」
「だからいいんじゃない!」
あの時のやりとり。そして、戸惑ったような彼のはにかんだ笑顔が、今でも鮮明に思い出せる。
それから四年。順調に愛が育まれているはずだった。何度もデートをした。身体の関係も持った。何の不満もなかった。結婚してもいいと思った。と言うか、その気満々だった。
なのに。
この幕切れは何? 私が重たい? なんなの? 笑顔の裏で、そんなことを考えてたの? ひどくない? せめて事前に言ってくれれば、こっちだって検討の余地があったかも知れないのに? しかも、別れ話を切り出したのが、告白したのと同じカフェでなんて、イヤミなの?
それからしばらくは、まったくの抜け殻状態だった。
専攻している日本文学史のゼミに出ても、全てが右から左だった。
時期的に、卒論の題材を決めるぐらいはしないといけないのに、まるっきり手に付かなかった。
未練。確かにそれはあった。
けど。あまりにも強引な幕切れに、次第に、ふつふつと怒りがこみ上げてくるのが分かった。
所詮、宮本武尊も、あの程度のつまらない男だったのね。どうやら、私がバカだったみたい。
人によっては「それって、逆恨みじゃない?」と言うかも知れない。
けど、自分のどこに非があるのか分からない以上、その怒りには一定の正当性があるはず。
その日も、少なからぬわだかまりを抱えたまま、下宿に帰ってきた。
「なーお」
「ただいま、ゴリアテ」
もはや、大切なものは、このペットであるオスのキジトラ猫だけだ。この子は、私の今の心境を分かってくれているのだろうか?
いや、猫にそれを求めるのは、少し酷かも知れない。猫は、可愛いのが仕事なのだし。
その夜。武尊にまつわる品物の一切合切を捨てた。もらったプレゼント、スマホに入っている写真データ、プリントアウトしてフォトフレームに入れていたツーショット、全部処分した。LINEはブロックして、トーク履歴も全て削除した。当然、電話帳と通話履歴からも彼の番号を消した。
そして、努めて冷静に、いつもの夜勤の清掃のバイトに出かけた。
機械になろう。そう思った。もう、デートに関して思い悩む必要はない。日程を調整するために、シフトを都合してもらうこともしなくていい。このバイトは、単純に日々の生活費を稼ぐためだけにやればいいんだ。卒業して、社会に出てからも、それでいいと思った。
ちなみに、卒業後の進路は、三回生の秋の時点で、もう決まっている。
とある商社から、事務職の内定をもらってはいた。
ただ、人並みに就活をする中、つくづく思った。
履歴書や面接などで、なぜ、会社のご機嫌を取るために、心にもない、それこそ歯の浮くようなお世辞を言わなければならないのか?
社会で働くというのは「そういうことだ」と頭で分かってはいても、納得はできなかった。もういっそ内定を辞退して、缶詰工場で「いち歯車」として、パートタイム労働者にでもなろうかとも思った。
ただ、そうなると、実家の両親に迷惑がかかる。それは避けたい。もはや辛抱できないレベルだけれど、無理矢理にでも自己欺瞞をするしかない。
とにかく、明るかったはずの前途が、まったく理不尽に暗転してしまった。
けれど、恨みが骨髄に徹した果ては、冬の湖面のような、かえって清らかな心境だった。
その「機械になろう」という心がけが奏功したのか、忘れることは決してないにせよ、また、心の傷が癒えることは当分ないだろうにせよ、武尊のことについては「とりあえず棚上げ」させることはできるようになった。突然の別れ話から、二週間が経っていた。
この時点ではまだ「ありふれた女」だった。
……それが徐々に、しかも激しく変わっていくなんて、思ってもいなかった。
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