第30話 キスして


「兄さん、お勉強を教えてくれませんか?」


 夕食後、俺の部屋にやってきた紬祈つむぎはそう言った。


「すまん。とてもじゃないが俺の成績は紬祈に教えられるような——」


「いいから、来てください」


 苦笑しながら断ろうとするも、強引に手を引かれてしまう。


「飲み物を淹れてきますね」


 あれよあれよという間に紬祈の部屋へ連れられた。

 この部屋へ入るのは久しぶりだ。

 ルームフレグランスと紬祈の香りが混ざり合っている。


「では、始めましょうか」


 コーヒーを淹れてくれた紬祈と2人で、小さなテーブルを囲む。


 と言ってもやはり指導できるような頭など持ち合わせていないので、俺は俺で自分の教科書や問題集を広げてみる。


 ちらと紬祈の方へ視線を寄せれば、すごく集中したようすで問題と向き合っていた。

 キリッと真面目な表情。思えば勉強しているところを見るのは初めてだった。


 カリカリと澱みなくシャープペンを走らせる音が響く。

 言うまでもなく、紬祈は成績がよい。


 俺が教えることなど何もないのだろう。


「——できました!」


「へ?」


 紬祈はそう言って、パッと笑顔になるとノートを見せてくる。一緒に問題集の答えも差し出された。

 どうやら丸つけをしてくれと言うことらしい。


(まぁ、答えがあるなら俺でもさすがにできるけど……)


 紬祈の答えと照らし合わせる。


 もちろん、正解。


 赤ペンで大きく丸をつけた。


「やりました!」


 紬祈は嬉しそうにバンザイする。


 そんなに喜ぶほど難しい問題だったのだろうか……?


 それから紬祈は俺の方へと擦り寄ってくる。


「で、では……♡」


「ど、どうした……!?」


 頬を染めたそのようすに、俺は思わず上体を逸らす。


「ご褒美です。正解のご褒美をください♡」

「ご褒美?」

「はいっ♪」


 満面の笑みで頷く紬祈。

 尻尾があればぶんぶん揺れているであろう甘えっぷり。


 これが彼女の目的か。


「右ですか? それとも左? それともそれとも、もしかして……うふふ、紬祈はどこでもウェルカムですよ?」


 自らの頬の右左をぷにっと指さして、それから思わせぶりに艶やかな笑み。


 求められていることはすぐにわかった。


 俺からしろということだ。


(ムリムリムリムリムリ!)


 自分からなんて恥ずかしすぎる。


 しかし紬祈はいっそう楽しみにしたようすで今か今かと待ち構えている。


 これを裏切るのは心が痛む。


 妥協案として、俺は亜麻色の髪へと手を伸ばした。


「わっ」


 ぽふっと頭に手を乗せる。


「に、兄さん……そうではなくて……」

「よしよーし。すごいぞ紬祈。よくやった」


 強引に頭を撫でる。


「わ、わ……ふにゃぁ……兄さんのなでなで気持ちいいです……しあわせ……♡」


 最初は少し不満そうにしたものの、すぐに抵抗を失ってされるがままに受け入れる紬祈。


 だらけきった柔らかな表情に俺まで癒される。


「……はっ!? ち、違います兄さん! キスです! 私は兄さんのキスがほしいのです!」


 しかし誤魔化しきれなかった。


「ご褒美のキスぅ……」


 紬祈は物欲しそうに俺を見つめる。


「ご、ご褒美はもう終わり。ちゃんと勉強しろ」


「そんなぁ……」


 悲しそうに瞳を伏せる。


 うっ……やはり心が痛む。


 頬にキスくらいならしてあげるべきなのか……?

 もう紬祈からは散々されてるわけだし……。


 いやしかし、兄として……


「キスぅ……」


 紬祈はなおも諦めきれないようすで呟く。


 それを見て俺もついに折れた。


「つ、紬祈はいつもテストで何位くらいなんだ?」


「なんですかぁ? いきなり……」


「いいから答えてくれ」


「……いつもは10番以内くらいですね。前回は7位でした」


 やはり成績優秀だ。


「そうか……じゃあ、5位」

「5位?」

「ああ、今回のテストで5位以内に入ったら……その、俺からキス……してあげてもいい」


「本当ですか!?!?」


 とたんに瞳を輝かせる。


「あ、ああ……で、でもほっぺだぞ!? それ以上はしないからな!?」


「はい! 大丈夫です! 今は、そこまでで……♪」


 だから今はってどういうことなんだよ……!?


「キス……5位以内で兄さんのキス……〜〜〜〜っ♡」


 紬祈は瞳を閉じて悶えるように身体を震わせる。


「兄さん兄さんっ」


 それから決意のこもった瞳でまっすぐにこちらを見つめた。


「私、がんばりますねっ」


 ああ、これは選択を間違えただろうか。

 こうなった以上、紬祈は絶対にこの目標を達成するだろう。これまでの彼女の性格上それは明らかだ。


 俺も、心の準備をしていた方がよさそうだ。

 



 ☆




「かわいい〜〜〜〜っ♡♡♡」


 風呂上がり。

 火照った身体に薄手のパジャマを羽織った南瀬璃音みなせりおんはベッドにダイブすると遂に我慢ならずに声を張り上げた。


「クマさん、ぎゅ〜〜〜〜っ、ぎゅ〜〜〜〜♡♡♡」


 ぬいぐるみを抱きしめるとどうしても表情がふにゃふにゃになって、笑顔になるのが抑えられなかった。


 それはもちろん、先ほど拓真に取って貰ったもの。


 そして数年前、今日と同じように取って貰ったクマのぬいぐるみも。


 ふたつ一緒に愛おしく抱きしめる。


 璃音はこう見えて、可愛いモノが大好きだ。


 ぬいぐるみだってもちろん大好き。


 だけど両親にすらその本心を明かさない彼女は普段から部屋にぬいぐるみを置くことさえできない。


 この部屋にあるのはクマのぬいぐるみたったひとつだけ。今日追加されて、これでふたつめ。


「う、ううん。べつに好きじゃないけど? あいつがどうしてもって取ってくれたから仕方なくだけど?」


 璃音はある程度ぬいぐるみ欲を発散させると、冷静になって呟く。


「だいじにしてあげるわよ、仕方ないから」


 再び、ぎゅっとぬいぐるみを抱きしめた。


「あいつって、やっぱり私のこと……」


 璃音にとっては堪らないふたつのプレゼントを抱いていると、自然と心が熱くなってくる。


 きゅ〜っと、苦しくなるのだ。


「もしかして、いつか、またあいつと……なーんて、バカね。そんなのこっちから願い下げだわっ」


 許さないんだから。あのときのこと。


「まぁ……あいつが今よりもっともっ〜と、まともになったら……考えてあげなくもないけどねっ」


 そう、あの男が変わるというのならその時は……きっちりと責任を取ってもらおう。

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