第14話 返信してよ

「兄さん、ここにいたんですね。おはようございます」


 早朝。

 まったく眠れなかった俺は先にベッドを抜け出して、リビングでコーヒーを飲みながら心頭滅却していた。


「おはよう紬祈。よく眠れた?」

「はい、おかげさまで」


 寝ぼけ眼を残しながらにへらと気の抜けた笑みを見せてくれる紬祈。

 少し眠そうだが、昨夜のような空気は微塵もない。


(あくまで、平静に……)


 深夜のことを忘れよう。

 俺は何も聞いていなかった。


 ————兄さんのことを考えると私、エッチな気分になっちゃいます……♡


「……っ!?」


 瞬間、記憶がリフレインしてしまう。


 拓真によって弄ばれた身体。それは彼女にとって忌まわしい過去のはずのに。


 それがどうしてあんな甘い言葉と行動に繋がるのだろう。理解が追いつかなかった。


(いや、考えたって仕方ない。忘れろ忘れろ忘れろ!)

 

 今もっとも重要なのは、俺が起きていたという事実を紬祈に悟られないこと。

 兄が妹の秘め事を暴くなどあってはならないのだ。


「兄さん? どうかしましたか?」

「いや、何でもないよ。紬祈もコーヒー飲む? 入れるよ」

「兄さんが入れてくれるんですか? ぜひぜひお願いします。嬉しいです」

「インスタントだけどね」


 拓真となった俺が紡ぐ紬祈との関係は、あくまで普通の兄妹関係であるはずだった。



「どうぞ、兄さん」


 午後になると、模様替えを終えた紬祈の部屋へと招待された。


「……お邪魔します」

 

 快く迎えてくれる紬祈に付いて、わずかに緊張しながらも部屋の中へ入る。

 

「お、おお……!」


 そこに広がっていた景色は1週間前とはまるで異なるものだった。


 午前のうちに届いた家具やインテリアがいくつか配置されて、生活感が増している。そのどれもが落ち着いたシックな雰囲気にまとめられていて、なんとも紬祈らしい。しかしそこかしこに置かれた小物にはガーリーな可愛らしさもあってほどよいアクセントになっている。


 ここはまさしく女の子の部屋——いや、正真正銘、紬祈の部屋だ。


「どうですか、兄さんっ、上手くできたでしょうか?」

「ああ、すごくいいと思う。見違えたよ」

「えへへ……兄さんに見てもらいたくて頑張ったんですよ?」


 可愛らしく歯に噛んで、褒めてほしそうに擦り寄ってくる。頭を撫でてあげると嬉しそうに瞳を細めた。

 昨日のこともあってか、紬祈は今までよりもずっと心を開いてくれたように見える。

 それ自体は喜ばしいのだが、同時にスキンシップも増えているような……。


「ちょうどいい時間ですし、私のお部屋でティータイムにしましょう? 朝のお返しに準備しますので、兄さんはそこのクッションに座っていてくださいね」


 そう言って紬祈はキッチンの方へと姿を消した。


 言われた通り、ミニテーブルと一緒に置かれたクッションに座り込む。


 ひとりになるとどこへ視線をやっても何か居心地の悪い感じがしてきて、余計に緊張感が増した。

 自分の家の一室でもあるはずなのに、気分は借りてきた猫状態だ。


「お待たせしました」


 数分後、紬祈がトレイにコーヒーやお菓子を載せて帰ってくる。

 

 そしてトレイをテーブルに置くと、なぜか俺の対面ではなく真横に座った。

 何食わぬ顔で俺の腕に自らの細い腕を絡ませて、ホールド体勢。逃げられない。

 

 身長差で自然と上目遣いになる瞳が、爛々とこちらを見つめていた。


「今日は兄さんとたくさんお話をしたいです」

「お、お話……!?」

「平日はなにかと忙しいですから」

「な、なるほど。そうだな。そうしよう」


 話をするだけ、だ。

 それなのにどうしてこんなに密着する必要が……?


 甘い香りやら柔らかい感触やらで上手く思考が回らない。


 そんな俺とは対照的に紬祈はエンジン全開で詰め寄ってきた。綺麗な顔が目の前に。


「では、兄さん。質問です」

「お、おう」


「兄さんの誕生日はいつですか? 血液型は? 好きな食べ物はありますか? 逆に苦手な食べ物は? 趣味はなんですか? 私も一緒にできるものでしょうか? それからそれから、好きな女性のタイプは? あ、特定の女性——恋人はいませんよね? 絶対いないはずです。いないですよね? ね? ね? ね?」


 至近距離で息継ぐ暇もなく繰り出される質問の数々。

 あまりの勢いでどんどん距離を詰めてくる紬祈に面食らってしまう。


「ちょ、ちょっと待った! 待ってくれ紬祈! そんな一気に言われても答えられないって!?」


 慌てて一度静止させる。


「ご、ごめんなさい私ったら……つい夢中になってしまって……」


 反省した様子で居住まいを正す紬祈。


「私、思ったんです」

「思った?」

「はい。私って兄さんのことを全然知らないなって」


 紬祈の質問はふつう初対面でするような基本的なものだった(後半はちょっとおかしなことになっていたが)。

 そんなことすらも、俺たちはお互いに知らない。


 出会いが最悪だったのだからそれも必然だ。

 紬祈からしたら拓真のことなど知りたくもなかったことだろう。


「私、兄さんのことを知りたいんです。教えてください。たくさんたくさん」

「紬祈……」


 しかし今は、こんな嬉しいことを言ってくれる。


「わかった。たくさん教えるよ、俺のこと」


 拓真ではない、俺のこと。


「ただし一つずつな。時間はあるからゆっくり話そう。それから、紬祈のことも俺に教えてくれ。俺も知りたいから」

 

「はい、もちろんです……! 兄さんだいすき……!」


「なっ……!?」


 紬祈は感極まって抱きついてくる。


(家族として、だよな……!?)


 それ以外にないはずだ。


 そう結論付けて、ようやく俺たちは話を始める。交互に一つずつ質問をしていく形式だ。

 まるで本当に初めて会ったかのようなやり取りだったが、お互いを知れることが嬉しくて、楽しかった。


 こうやって少しずつでも本物の兄妹に近づいていくのだろう。


 

 ☆



 ——翌週。

 6月も終わりがけの休日。


 南瀬璃音みなせりおんは季節に合わせた薄めのラフな部屋着を身にまとい、自室のベッドにごろ寝ていた。


 うつ伏せで枕に顔を押し付けて、非常に無気力なようす。


 学校では絶対に見せられない厳格なる風紀委員長の姿だ。

 

 手にはスマホが握られている。そっとその右手を持ち上げて電源を入れると、視線を寄せた。そしてため息をついてすぐに消す。


「う〜〜〜〜〜〜…………!」


 再び枕に顔を埋めて、青みがかった髪を振り乱しながらベッドの上をゴロゴロ。


「なんでよぉ……なんで返信ないのぉ……!? へーんーしーん〜……!!」


 璃音は今、とある人物からのメッセージを待っていた。


 それは彼女にとって、一言ではとても言い表せないほどの因縁がある男。


「月城拓真ぁ……!!」


 先日、その彼からボランティアの予定を聞かれたことがあった。

 本来なら彼の言うことなどまともに聞く必要はない。信じてはいけない。わかっている。

 お人好しな璃音はすでにその甘言に何度も騙されて、辛酸をなめてきた。


 あんなやつ、大嫌い。

 忌々しい顔を思い出すと、身体の奥から燃えあがるように熱くなって仕方がない。


 だけど最近の彼は少し変わった。

 風紀委員の手を煩わせるような悪さも一切しない。あの中村悠斗とも距離を取り始めている。

 隣にいるのは学校1の美少女と謳われる義妹。健全に仲が良いのは傍目でも伝わった。


 人が変わるのは難しい。

 しかし同時に、変わることができるのもまた人だ。


 変わろうと努力する人を一方的に否定することなど、璃音にはできない。

 

 だから、わずかでもチカラになれたらと陰ながら思った。


 だと言うのに……


「返事しなさいよぉ……!!!!」


 金曜日の夜にメッセージを送ってから、すでに丸一日以上が経過していた。


 ただの一度も反応はない。


「いっそのこと電話する……?」


 脳裏に浮かぶひとつのアイデア。


「やっぱりダメ。そんなのダメよ。女性から男性に電話するなんて、なんだか意味深だわ。そもそもお休みにまであいつの声なんて聞きたくないし……!」


 すぐに否定する。


 やはり待つことしかできないらしい。


「メッセージ、変だったかな……」


 不安になってもう一度自分の書いた文章に目を通す。


『来週の日曜日に海開き前の海岸清掃ボランティアがあります。よかったら一緒に参加しませんか?』


『返信お待ちしています』


 何も可笑しなところはないはずだ。


 用件だけを伝えたスマートな文章。

 我ながら可愛げのカケラもないが、璃音に落ち度はないはずなのだ。


「う〜〜〜〜〜〜…………!」


 ゴロゴロゴロゴロ。


 不安は絶えない。


 貴重な休日が無為に過ぎていく。


「もう……!!」


 ついに璃音はスマホを両手で持って、素早く文字を打ち始めた。


 一言文句を言わないと気が済まない……!!


『金曜日にメッセージをした件ですが、まだ返事はいただけないでしょうか。色よい返事をお待ちしています』


『もしかして何かトラブルに巻き込まれていますか? 心配です。このメッセージを見たらすぐに連絡をください』


『また私が何か気に障ることをしてしまったでしょうか。だから返事をくれないのですか? ごめんなさい。謝ります。いつもツンケンしてしまってごめんなさい』


『もうボランティアに参加しろなんて言いません。だから一度でもいいので返事をください。お願いします』


 ひとつ目のメッセージを送ってから、1時間、2時間、3時間……メッセージはどんどん増えていった。


 なおも返事はない。


「何やってるのかしら、私……」


 スマホを放り投げる。


「まったく、あの男は……! バカ……! もぉ、バカぁ……!!」


 最後にはやっぱり、怒りがふつふつと沸いてきた。

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