第7話 信じたい人

 昼休み。


「有佐さん、一緒にご飯食べよう?」

「お誘いありがとうございます。ですが、すみません。今日は予定があるので」

「そっか。それじゃ仕方ないね。ざんねん」

「またの機会によろしくお願いします」


 紬祈はお弁当を持って、教室を後にした。


 向かったのは人けのない校舎裏。

 そこは恋人である海道玲央と逢うための秘密のスポットだ。あまり公に関係を明かしていない2人は、たびたび逢瀬を繰り返していた。


 今日は久しぶりに玲央を昼食に誘っている。

 そこで再婚のこと、兄のこと、全て話すつもりだ。


「あ、玲央くん————」


 恋人の姿を見つけて、心が浮つくのを感じる。思わず紬祈は駆け出した。


「……やめろ、俺に近づくな」


 玲央は右手を押し出してこっちに来るなとジェスチャーする。

 紬祈は慌ててその場に立ち止まった。


 なぜか、恋人の瞳は暗く濁っているように見えた。


「と、どうしたんですか、玲央くん……?」


 尋常じゃない恋人のようすに動揺しながらも問いかける。心臓がバクバクと鳴ってうるさい。


「どうかしたのはおまえだよ、紬祈……」

「え……?」

「……月城拓真。おまえ、あのヤリチン野郎と一緒に歩いてたよな……」


 玲央は片手で自らの顔を押さえながら信重たく呟くと、スマホを見せてくる。

 そこにはたしかに、兄である月城拓真の隣を歩く紬祈の姿が写っていた。


 夕暮れ——これは、昨日の帰り道だ。


 見られていた……?

 

「俺の知らない家に、ふたりで入っていった……」


 再婚のことを知らない玲央は、新しい家のことすらも知らない。


「おまえ、あいつの女になったのか……?」

「ち、違いますっ。親の再婚で、あの人は兄さんで、き、聞いてください。違うんです。彼は心を入れ替えて————」

「言い訳はいらねぇよ」

「————っ!?」


 しどろもどろになった紬祈の言葉を玲央は冷たく一刀両断する。有無を言わさぬ迫力に言葉を失ってしまった。


 あ、あれ……?

 どうして? どうして、こんなことになっているんだろう?


 今日から、ちゃんと話して、わかってもらうはずだったのに。


 昨日の紬祈は拓真を引き止められたことで完全に安心して、気が抜けてしまっていて、周囲への警戒を怠った。


 その数瞬の油断が、運命を狂わせていく。


「あいつに抱かれたんだろ?」

「っ、だ、抱かれてません……!」


 本当だ。

 しかし、身体を触られた事実は消えない。その罪悪感がどうしても語気に表れてしまう。


 そんな調子で、疑いを晴らすことなど不可能だ。


「じゃあなんで、ここ最近連絡してくれなかった……?」

「ぁ、っ……」


 あの辱めを恋人に知られたくなくて、隠していたことが裏目にでる。

 不信感はすでに募っていたのだろう。


「どうせあいつとヤリまくってたんだろ?」

「ち、違います。それだけは、本当に。違うんです…………」


 玲央は言葉の虚偽を見極めるかのように紬祈を見つめていた。

 その瞳が怖くて怖くて仕方がなかった。膝が震えてしまう。


「もしそれが本当だとしても、おまえは変わっちまったよ、紬祈」

「え……?」

「俺の知っている有佐紬祈なら、あんな男の隣をすすんで歩くことなどありえない」

「っ……」

「嫌がっているようには、見えないな」


 写真に収められた紬祈と拓真は穏やかな顔で帰路についていた。

 

「紬祈はあいつに絆されている」

「に、兄さんは心を入れ替えたんです。私に何もしないと言ってくれました。だから……」

「そんなの、信じられるわけねぇだろ」

「わ、私は信じます……!」

「おまえが信じる信じないの問題じゃない。俺が無理だって言ってる。紬祈があいつの隣歩いてるってだけでも狂っちまいそうだったのに……義兄妹? あそこで一緒に住んでんだろ? はは、ふざけてる……」


 玲央は苛立ちを表すかのようにガシガシと頭を掻き乱すと、諦めに満ちた大きなため息を吐いて紬祈に背を向けた。


「今のおまえとはもう、付き合えない」

「そんな、玲央くん待って……」

「俺と関係を続けたいなら、今すぐあいつと縁を切れ。2度と話すな、近寄るな」

「そ、それは……」


 できない。


「…………じゃあな。もう、声かけて来ないでくれ、有佐」

「れ、玲央くん————!!」


 必死の呼びかけも虚しく、玲央は校舎裏を去った。


「なん、で……?」


 チカラを失って、紬祈はその場に崩れ落ちる。涙がポロポロと溢れて、地面を濡らした。


「話を、ちゃんと聞いて……玲央くん……」


 喉の奥から絞り出す小さな声。

 言葉はもう届かない。


「どうして、私を信じてくれないの……?」

 

 恋人だったのに。

 玲央なら拓真のことも受け入れてくれると信じていたのに。


 そう、紬祈は信じて——

 

「…………っ」


 裏切られた。


「…………もういい。玲央くんなんて、もういらない」


 今まで心の中心にあったもの。

 恋人への想いを投げ捨ててゆく。

 紬祈の恋は終わった。


 そして、ぽっかり空いた心の穴。

 埋めてくれるものは、すぐそこにある。

 

「さようなら、玲央くん」


 紬祈は拓真を、兄こそを信じている。


 信じなければならない。


 もう2度と、兄を失わないために。



 ☆



 放課後になると、悠斗や南瀬に捕まる前にそさくさと教室を抜け出した。


 本日の営業は終了しました。

 風紀委員長との対話も試みたし、初日にしては頑張った方だろう。


 足早に下駄箱へ向かい、靴を履き替える。


「兄さん♪」

「つ、紬祈……!?」


 校門前ではなぜか紬祈が待ち構えていた。


 微笑んで、小さく手を振ってくる。


「な、なんでここに!? 学校で会うのはまずいって……!?」


 今朝そう話したばかりで、紬祈も納得してくれたはずなのに。


「もういいんです」

「へ?」

「えいっ」

「————なっ!?」


 突然、紬祈が腕に抱きついてきた。

 ふわりと鼻腔をくすぐる甘やな香り。身体は女の子らしく柔らかい。胸の膨らみも十分以上で、むにっと腕に押し付けられているのがわかった。


「ちょ、何してるんだ!?」

「兄さんに抱きついています」

「それはわかってるよ!?」

「私は、私の兄さんに抱きついているのです」

「うん……!?」


 だから、どういうこと!?


 紬祈は亜麻色の髪を揺らして、甘えるように上目遣いを寄せる。


「誰に憚ることもありません。兄さんとの関係を隠すなんて、やっぱり嫌です」

「紬祈……」

「一緒に帰りましょう? 私と兄さんが仲良くすることが、兄さんのイメージ払拭にも繋がるはずですから」


 ヤリチン野郎と学園1の美少女に関わりなどあってはならない。

 それは校内全体への混乱に繋がるし、どんな揶揄が飛び交うかもわからない。


 たしかに紬祈が俺を受け入れているという事実は長期的に見ればいい影響を及ぼす可能性があるかもしれないが、それは目に見えるリスクを排除してから実践すべきことだ。


「紬祈、彼氏にはちゃんと説明したのか?」


 俺がもし紬祈の彼氏だったらこんな状況、卒倒する自信があった。


「はい、しましたよ。いえ、正確にはしようとしました」


 紬祈はたんたんと語る。


「でも、聞いてもらえませんでした」

「は?」

「なので別れました」

「っ!?」


 一瞬、紬祈が何を言っているかわからなかった。


「わ、別れた……? は? 彼氏と?」

「はい。そうです」


 せっかく拓真の手から逃れたのに、どうしてこんなことに……?

 まさか、俺の行動による影響なのか!?

 

「兄さんが心配することは何もありませんよ」


 紬祈はどこか感情の読めない瞳で微笑む。


「私は、恋人なんかより兄さんの方が大切なので♡」


 それ以降、紬祈が彼氏との別れについて話してくれることはなかった。まるで本当に未練がないかのように、さっぱりとしている。


 そしてどうしてか、俺との物理的な距離が縮まっている気が……。


「お、おい……どうなってんだよ、あれ……有佐紬祈だよな……!? どうしてあのヤリチンクソ野郎と……!?」


「な、なんだよこれ。夢か? 悪夢か? あり得ないあり得ないあり得ないあり得ない……」


「あの清楚な有佐さんが、あんなふうに抱きついて……」


「ウソでしょ……?」


 遠巻きにこちらを見つめる生徒たちから、そんな会話が聞こえてきた。


 もう紬祈との関係を誤魔化すことはできそうにない。


 想定の外側へと、物語は転がってゆく。

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