第3話

「ううう……」


 私と熊は睨み合いをしていた。どちらが望んだというわけではなく、出会い頭に目が合ってしまい、そのまま離せなくなったというのが真相だ。


 ……怖い。


 怖くてたまらない。


 ちっぽけな私など、熊のひと噛みで、あるいは、爪の一撃であっけなく死んでしまうだろう。

 私には、どうすることもできない。

 何の力も持たない無力な私には。


 ……無力なまま生き、無力なまま死んでいくしかないのだ。


 とその時、私の頭上を影がよぎった。はっとして、頭上を見てしまう。


 ……鳥? 黒い大きな、


 カラス……?


「あっ!?」


 気づいた時にはもう遅い。私が視線を戻すと、熊が二本の足で立ち上がっていた!


「グオオオオオォォォ!」


 うなり声と共に、熊は片腕を振り上げる!


「きゃあああああああ!」


 私は、思わず目を閉じ盛大な悲鳴を上げた。






『見つけた! って、こいつはまずいぜ、瑠架!』


 ヤタさんと視覚を共有しているボクも当然その光景は目にしている。


『ヤタさん! 力を貸して!』

『おう!』


 ボクは精神を集中した。今、ボクが必要としている『力』は、……


「ふっ……!」


 現出した『カード』を右手に構えると、ボクは『力』を行使する!


『我、汝に安らかなる眠りをもたらさん! 

 母なる大地の懐に抱かれ、

 月と星に見守られ、

 静かなる眠りに落ちよ!

 我は汝に命ずる! 

 《スリープ》!』


 ヤタさんを通して、ボクの『力』が発揮される!


「グオオオォォォ………」


 片手を振り上げ、今まさに振り下ろそうとしていた熊は、ボクの『力』を受けて意識を失うと、仰向けに倒れこんだ。


「やった!」『やったぜ!』


 ボクらは快哉を叫ぶ。でも、安心してはいけない。《スリープ》は、自然の深い眠りを対象にもたらす効果しかない。目覚めるのは時間の問題だ。


『ヤタさん! 彼女を安全な場所に誘導して! ボクもそっちに向かう!』

『分かった! まかせろ!』


 ボクは山道を駆け出した。






「え……?」


 ドォーンという間近で何かが倒れた音に驚いて、私は目を開いた。


「あ、あれ?」


 熊が倒れている!? 何で? どうして?


「おい! 嬢ちゃん!」

「はぃぃ?」


 “嬢ちゃん”などという呼ばれ方をされたのは初めてなので驚きだったが、もっと初めてで驚きだったのは、


「そいつは単に寝てるだけだ! 今のうちに逃げるぞ! 俺が案内してやるからついてきな!」


 喋るカラスと遭遇したことだった。


「は、はぃぃぃぃぃ!?」

「つべこべ言わずに、さっさとこっちに来い!」


 私は戸惑いながらも、この喋るカラスについていくことにしたのだった。






「大丈夫だった?」


 街で着るようなお洒落な服を身にまとい、頭がすっぽりと隠れるような大きな帽子を被ったその男の子は開口一番、心配そうに私に聞いてきた。こんなところで着る服ではなくかなりの違和感を受けるが、服が彼に似合っていないというわけではない。


「え、ええ……」


 私は、私はぎくしゃくと頷いた。


 ……初めて見る子だった。この村にはそんなに人はいないから、だいたいの村人とは会っていたつもりだったのだが……。


「どこにも怪我はない? 『力』は間に合ったみたいにヤタさんの目を通しては見えたんだけど、熊の倒れる方向まではコントロールできなかったから、」

「おい、瑠架!」


 近くの枝に止まった喋るカラスさんが――よく見ると、足が三本ある!――男の子のことを呼ぶ。


 ……この子、ルカくんっていうんだ。


「この嬢ちゃん、戸惑ってるぜ。ただでさえ死ぬような目に遭ったばっかりだってぇのに、助けてくれた相手が俺たちみたいな“よく分からないやつら”じゃ、しょうがねぇけどな」

「そ、そうだね、ヤタさん」


 ルカくんは帽子を被りなおして咳払いをした。帽子を触るのが癖なのかな?


 って……!


「助けて、くれた、の?」

「ま、一応な」


 ヤタさんと呼ばれたカラスが右の羽をバサッと広げた。


「え、ええと、うん。そうだよ」

「お前が、俺を召還して嬢ちゃんを探し出させて、ついでに《スリープ》で熊の野郎を眠らせたんだろうが。何で、そんなに自信なさげなんだ、お前は?」

「え、ええと、だって、『力』を使った時の記憶って、曖昧なんだもん」


 召還? 《スリープ》? 『力』?


 何のことだか、私にはさっぱりだったが、しかし、これだけは分かった。


 どういう手段を使ったのであれ、彼らは、私のことを助けてくれたのだ、と。


「あ、ありがとう……!」


 私はそう言って頭を下げた。


「え?」


 ヤタさんと言い合っていたルカくんが、私の方を向いて、本気で不思議そうな顔をする。


「……え、えと、ありがとうって、何が……?」

「え? え~と、ええと?」


 かなり意外な反応を返されてしまい、私は困惑した。


「……ああ、そうか。そうだったな」


 ヤタさんが右足で真ん中の足の爪をコツコツと叩く。


「こいつって、今まで、『力』を使って助けたやつから感謝されたことってほとんどねぇんだよ。まぁ、他人からは皆無って所だな」


 ヤタさんが何でもないことのように告げるが、私には驚きだった。感謝されたことがない? 人を助けたのに?


「だから、戸惑ってるんだろうよ。許してやってくれや。嬢ちゃん」

「……私の名前は、葦乃端詩音です。嬢ちゃんではなく、名前で呼んでください」


 どうも、嬢ちゃんと呼ばれるのは恥ずかしくて、――目の端に浮かんでしまった涙を誤魔化したくて、目元を拭いながら私はついそんなことを言ってしまう。


「いいじゃねぇか、別に。嬢ちゃんには違いあるまい?」


 私の気持ちを知ってか知らずか、ヤタさんはそんな軽口を返してくる。


「よくないです。直してくれないなら、私も“ヤタちゃん”って呼びますよ?」

「むむ。そいつは」

「でしょ? ですから、」

「是非、呼んでくれ」

「え?」


 そこまでして、私を嬢ちゃんと呼びたいのか? それとも実は、“ヤタちゃん”と呼ばれたいのか……? 


「冗談だ。ふむ。……“ヨシノハ”よりは、“シオン”の方が響きががいいな。詩音、でいいか?」


 ヤタさんは肩をすくめると(何て器用な!というか、どうやったのだ?!)、私に確認を求めてくる。


「……ええ、そう呼んでください」


 にこりと笑う私に、にやりと笑い返してから、「そうそう」とヤタさんは言葉を続ける。


「俺はヤタガラスだから、瑠架のやつが勝手に“ヤタさん”って呼んでるだけだ。本当の名前は別にあるが、まぁ、あんたらには発音しにくいだろうから、ヤタでいいぜ」

「分かりました。ヤタさん」

「ほれ、瑠架。お前も自己紹介しな」

「あ、うん」


 私たちのやり取りを興味深そうに見ていたルカくんが、少し緊張したように口を開く。


「ボ、ボクの名前は、皇瑠架です。おじいちゃんと神社に住んでいます。よろしくね、詩音お姉ちゃん」


 瑠架くんは、おずおずとその華奢な手を私の方に差し出す。


 ……お姉ちゃん、か。


 兄弟のいない私にとって“お姉ちゃん”という呼称は、憧れのようなくすぐったいような、何とも言えない感じのする呼び名だ。


「詩音、でもいいよ? 瑠架くん?」


 手を伸ばしながら、からかうように言うと、瑠架くんは予想通り顔を真っ赤にする。


「え、で、でも、詩音お姉ちゃんは、詩音お姉ちゃんだから、やっぱり、詩音お姉ちゃん、だよ……?」

「お前なら、そう言うと思ったぜ……」


 呆れたように恥ずかしいように、ヤタさんがバサッと両翼を広げた。


「よろしく」「よろしくね」


 私たちはお互いにちょっとだけはにかみながら、握手を交わしたのだった。

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