第5話 植物図鑑

僕にとっては、いつの頃からか世界には色がなかった。



 なんだろう。


道のど真ん中に植物図鑑が落ちている。そう、落ちているのだ。

その上、その植物図鑑は僕に自分を拾えと主張してくるのだ。無言の圧をかけてきている。本だから声が聞こえるわけではない。どうして判るのかと聞かれても、答えようがないが、そのような状況なのは確かなのだ。


僕は気がつかないふりをして、他の人と同じように通り過ぎようとする。気の所為だと思おうとしたが。

拾えと図鑑が主張する。

いや、僕は要りません。

拾えと図鑑が主張する。

僕は植物になど興味はありません。

拾え、手に取るのだと図鑑が主張する。


僕は、気の毒な植物図鑑を拾うことにした。決して本の圧に負けたからじゃない…。


 その日、僕は休日だったし、天気もよいので近所で散歩をしようと考えたことが間違いだったのかもしれない。


図鑑を片手に歩いていると道ばたの草が気になってくる。持っているのは植物図鑑だし。でも、植物図鑑の見方なんて知らないし、沢山ある種類から同定するなんてできない。

ページを開け、と図鑑が主張する。

仕方が無い。その草の前で図鑑を開くと、ページが白い。えっ、と思っているとその白いページに目の前の草の姿が段々映し出されてきて、図が完成し草の名前とその草についての記述が色々と書かれている。

この草は『セイヨウタンポポ 学名Taraxacum officinale』という名前らしい。花から根っこまで食べられる。キクの仲間だそうだ。

そういえば、タンポポコーヒーって聞いたことがあるな。

ちょっと面白くなった僕は、近くの植物に図鑑にある他の白いページを向けてみる。

『オッタチカタバミ 学名Oxalis dillenii Jacq.』

道すがら、目に付くと次々と草に図鑑をかざした。

『オオイヌノフグリ 学名Veronica persica』、

『キュウリグサ 学名Trigonotis peduncularis』、

『ヒメオドリコソウ 学名Lamium purpureum』、

『コバノタツナミソウ 学名Scutellaria indica L. var. parvifolia』

あ、これはさっき見たセイヨウタンポポだよなと思ったら、

『ブタナ 学名Hypochaeris radicata』だ、と図鑑に怒られた。

ここが違うだろう!と図版で明示された。

そんなに怒らないでくれよ。似てるじゃないか。

似てても別の種類だし、属レベルで違うぞ ! と図鑑が主張する。

さすが図鑑、細かいことを気にすると思ったら、細かくない ! と主張された。


はいはい。


それでも段々面白くなって、色々と調べていった。なんだろう、凄く楽しい。


「ねえ、お母さん、あのおじさん、ずっと草を見てるよ」

「し、近寄っちゃだめよ。あんまり見ても駄目よ。あんな雑草とか食べてるかわいそうな人とかもいるから」


公園で植物図鑑を片手に植物を見ているとそんな親子の会話が耳に入ってきた。


そうだ、思い出した。子供の頃、色々と咲く花が面白くて植物が好きだった。でも、誰だったろう、母か幼稚園の先生だったかが、

「そんな雑草になんて興味を持たなくて良い」

そんなふうな事を言われたんだった。ああ、そうか。僕はこんなに色とりどりで、様々な形を作り出す凄いものだと思ったのに、価値のないものなのかと、その時そう思ったんだ。悲しかったんだ。それで、植物にあまり興味を持たないようにしてたんだ。


植物図鑑が、気にしなくて良い、と主張する。今からでも自分が十分植物を教示してやろう、なぜならば我は植物図鑑だからな、と主張してきた。

おかしな本だ。

僕は思わず笑ってしまった。



うちの近所の電信柱に奇妙な迷子探しのポスターがある。

『迷子の植物図鑑を探しています』

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