戦地の回想と日本国大使館

 真っ白い霧が辺りに濃密に漂っていた。

 軍刀を右手に十四年式拳銃を左手に握りしめて、突然現れた霧の中を警戒を怠らないようにして一歩一歩踏みしめるように進んでゆく。


「高野、阿部、山田、おい、誰かいないか?」


 小さいながら声の通る独特の喋りで呼びかけてみるが、一緒にいた仲間や副官の返事は返ってこない。

 先程まではジャングルの中を死に物狂いで皆で行軍していた。息が詰まるほどの熱気と暑さに手を焼きながら進んでいたと言うのに、一瞬のうちにいつの間にか霧の中を彷徨い歩いていた。


「誰か!誰かいないか!」


 しばらく歩き続けたのち、仕方なしに敵に見つかるのを覚悟して声を上げてみる。だが、敵味方含めて返事はやはり聞こえてはこない。


「ん?花びら…か?」


 ピンク色の花びらが前方から、一枚、また一枚と優しく吹き寄せてくる風に乗り流れてきたので、落ちていたそれを拾うとよく見慣れた花であった。


「桜か」


 花びらが吹き流れてくる方へと足を向けていくことにして、握っていた軍刀を収めると拳銃だけを握りしめて、ゆっくりと歩いてゆく、やがて、どれほど歩いただろうか、徐々に霧が薄らいで晴れてくると満開の桜の木の下へとたどり着いた。

 そこは懐かしい、思い出がたくさん詰まった、幼い頃より見慣れた景色だった。


「馬鹿な…。日本大使館の中庭じゃないか…」


 見誤るはずなどない、生まれてから帰国までの大部分を過ごした大使館の中庭であった。だからこそ見間違うはずはない。ふと、思い出し、確証が得られる桜の木の裏へと回りある物を探してみた。


 それがあればこの場所は間違いない。


「あ、ああ…」


 木の幹に横線の傷があった。

 あるところまでは並び合い、それ以降は太さを変えた線が伸びてゆき、やがて2本の傷は並びあった。


「懐かしいな…」


 その後を指で優しくなぞりながらいると、やがて緊張が漲っていた表情と体から力が抜けていくのがわかった。妙に体が軽くなるのを感じた時、一つの結論へと辿り着いた。


「ああ、私は死んだのだ」


 拍子抜けするくらいに腑に落ちた。

 桜の木に背中を預けるようにして座り込む。

 持っていた拳銃を拳銃嚢にしまった。もはや必要ないだろうにと癖ついた行為に苦笑していると、心地よい日差しが差し込んできて中庭を照らし始めた。花の合間、枝の合間から日差しが溢れてきて、薄汚れたブーツや軍服を照らしていく。

 心地よい風が吹くたびに花びらが軍服の上に舞い降りてくるのを見つめながら懐かしい記憶を思い出して目を細めた。


「ハルは元気だろうか…」


 桜に刻んだ傷の片割れ、懐かしい幼馴染をふと思い出す。彼女が今の自分を見たならどうおもうのだろう…。


 あの本国とは違う、独特の雰囲気を持った日本大使館で過ごしていた頃の自分と、今の自分とは似ても似つかず、かけ離れた存在になってしまっていた。

 推薦書があっても帰国子女ではなお難しいと言われた最難関の陸軍士官学校に次席入学を果たし、卒業後は万難を排して任務に臨んできた。その甲斐あってだろうか、数多くの戦場で先陣の誉を得た。それが、どんなに敗色濃厚な戦場であったとしてもである。

 やがて日本が勝利を掴み平和が訪れたなら、もう一度、彼女に会って話をしてみたいと考えていたのに、どうやら、運命は決してしまった。

 やがて強烈な眠気が襲ってきた。

 日差しの心地よさは増してゆき、意識が薄らいで離れていくのが分かる。

 

 黄泉の国へ旅立つ時が来たのだ。

 

 きっと私のような半端者が靖国へ入ることは叶わないだろう…。


「皆、すまない、先に逝く」


 短く戦友たちに詫びたのち、懐かしい幼馴染の姿を思い浮かべた。


「ハル、あの時はすまなかった。君の幸せを祈っている」


 重たい瞼がゆっくりと下がる。力の抜ける体を奮い立たせ、薄らと衣服に積もった桜の花びらを舞わせながら、絶えず持っている短刀を引き抜きくと、二本並んだ横線の上に右から左へと長い➖を引いた。


 これが本当の意味での終わりだと告げるように。


 崩れ落ちるように手入れされた芝生の上に倒れると脳裏に走馬灯のように過去が流れてきた。

 幼馴染との日々、それはかけがえのない日々。

 満足そうに笑みを浮かべながら、瞼はついに閉じられて意識は黄泉の国へと旅立っていった。

 


 明治期に初めて大使館となったのは、イギリスに置かれた公使館だ。ロイヤルファミリーの暮らすバッキンガム宮殿近く、ピカデリーロードの傍にそれはある。日の丸が歴史を刻む建物に今でも馴染むように旗めいているのを目にした方もいるのではないだろうか。

 大使館内は国際法であるウィーン条約により、日本の法律が適用され、日本の領土と言っても過言ではない。諸外国にありながら日本国土の一部であり、日夜、日本国家と国民のため、特に在留邦人と外交のために存在していた。

 日本大使館には少し広めの中庭があり、そこに桜の大木が根を下ろしていた。大使館となった日に植樹された記念樹で、毎年の花見レセプションやその他のイベント毎に文字通り花を添える木として大切にされていた。

 

 大正が終わりを迎え、昭和へと時代が移ろいだ年、大使館近くのセント・マーレ病院で同じ時間に2人の子供が生まれた。

 1人は在英国日本大使館の書記官、西川辰雄の長男、奈津男。もう1人は、イギリスで長い歴史ある貿易商、スタイリー・ディズレーリの長女、ハル。

 西川は表向きは外務省での権力闘争に敗れ左遷された体であったが、その実はヨーロッパの諜報収集を担う存在であった。一方、ディズレーリ家は東インド会社などとの繋がりもあり、またアジア圏に強い貿易商としても名を馳せ、日本とも、また、欧米の各日本大使館とも太いパイプを持っていた。スタイリーと西川は商談で知り合い、スタイリーが敬虔なメソジスト教徒で大変に几帳面な男であったことから、仕事を抜きにして親交を深めている。2人とも産後の容体悪化により、同じタイミングで夫人を失ったことも辛さを分かち合うのに適していたかもしれない。


「ハル!グリーンパークで遊ぼ!」


「いいよ!」


 大使館で大人たちが商談をしている頃、子供達2人は館内の入っては行けない部屋以外で遊ぶことが多かった。それが中庭であったり、与えられた部屋であったりと幼子ながらに場所を選ばす、優しい職員からこっそりとお菓子を貰いながら、建物内を自由気ままに過ごしていた。なにより戦争の足音も雰囲気も国内よりは荒れ狂ってはいなかった。

 ディズレーリ家のメイド、ロイズを伴って大使館前の大きく広い道路を3人で渡ると、宮殿の見えるグリーンパークで仲良く遊ぶ。

 見る人によっては白人が東洋人と遊ぶことを、あからさまな嫌悪感を抱く者もいたが、スコットランドヤードから警備のために派遣された子供好きのスコット巡査が近くで目を光らせてくれるおかげもあり、危害を加えられることはなかった。


 5歳のある日、中庭で遊んでいた奈津男はハルと桜の木の裏へ回った。日本から届いた童話集に、互いの身長を木に刻みつけては、切磋琢磨して成長していく2人の主人公達の姿に純粋な憧れを抱いたのだった。


「一緒に背比べしよ!」


「うん!」


 職員の机から失敬してきたナイフを取り出すと、桜の幹のそばに立ってはナイフで➖の線を刻んでゆく。2人だけの内緒の行為にワクワクして、また傷をつけてしまう桜に謝りながら、1年に数回ほど、思いついたように2人は身長を記録していった。

 成長速度は人種や食生活の違いもあるためだろうか、やはりハルの方が早く伸びた。奈津男が越されてからはそれはそれは悔しがり、いずれ追いつくと頭一つ分小さな彼が言うたびに、それがハルには嬉しくもあり、同じ目線で世界を見れないことが寂しくもあった。

 そして刻む傷か増えて行くと、互いに惹かれあっていることにも気づいていく、だが、世界情勢は崖を転がり落ちていく石のように、急速に悪化の一途を辿る。昭和12年前後を境に日中戦争が始まると英国との関係は急速に冷え込み始めた。それは大使館に出入りする職員の表情や雇われていた家政婦達が解雇されたり仕事を辞めていったりすることからもよく分かるように、12歳を迎えていた2人にも肌身で理解できるほどだ。

 優しかった職員達のハルへと向けられる視線が、どことなく今までとは違うように感じられ、薄い緊張感が大使館内に漂っている雰囲気があった。


 そして遂に互いに仲睦まじく幼馴染として過ごしていた2人の関係にも影を落としてゆく。外交悪化に伴い英国国内世論もかつての同盟国日本に批判的になってゆく。それを意識せざるを得なくなったスクールは奈津男に自主退学を迫ってきた。

 もちろん、子供たちの中には反対する者も少数はいたが、大人たちの理論の前にはその優しさは握りつぶされてゆく。そして退学せざるを得なくり意気消沈していた奈津男を励ます為に訪れていたハルが口にした軽口によって決定的なものとなってしまった。


「日本がいけないんだよ、世界を裏切ってダメなことをするから…」


 皆が、スクールの教師ですら言っている一言を何気ないつもりで口走る、それが奈津男を苦しめていることを誰よりも知っていたはずなのに…。日本が悪いだけで奈津男は悪くないと言う思いを伝えようとしたはずだったのに、何故だろう、口から出た言葉は傷を増やすだけだ。

 

「イギリスもだよ、君たちも、クラスメイトも僕たちの意見をきいてくれないじゃないか!」


 スクールでの弁明は意味をなさなかった。クラスから立ち去るときの、シュプレヒコールが忘れられない。親しい子が目元を潤ませて同調をしているのを見て恐怖すら感じたほどだった。大使館では職員達が口々に漏らす不満を、父親が漏らす不満を聞いており、世論も新聞を見れば理解できる。尚且つスクールを退学する時も校長からは心無い言葉を吐き捨てるように浴びせられていた。だが、第二の故郷でもあり、そして、大切なハルがいるからこそ、この国を憎むことができなかった奈津男にとってハルの一言は最後の牙城を一撃で破壊するに等しい威力であった。


「ち、違うの、そんな意味じゃ…」


 青くなったハルは釈明しようとしたが、奈津男がドアを指差した。


「出て行け!ここは日本だ。ここから出て行け!」


 烈火の如く怒り声が日本語で発せられる。互いの言葉を幼い頃から教えあっていたから、ハルは直ぐに理解できた。そして喧嘩の時は決まって出て行けと互いがなる。幼い頃の大喧嘩の後に互いに落ち着くために追い出すのが取り決めだった。


「うん…わかった…」


 何を言ってもこの状態では理解してくれないだろう。ハルは言いたい気持ちを抑えて、部屋から肩を落として部屋を出ていく。


「ごめん」


「sorry」


 互いに小声で謝りながら、しかし、それは外から聞こえてきた鐘の音にかき消されて、奈津男は閉まる扉を見つめ、ハルは涙を堪えながら扉を閉めて駆け出した。


「ごめんなさい…ハル…」


 ハルの気持ちは痛いほど分かっているのに、我慢が出来なかった。

 外を出歩けば白眼視したような、冷ややかな視線を浴び、スクールでの数人からのいじめにも、嫌がらせにも耐えてきた。ハルの隣に並んでも見劣りせぬよう、日本男児として立派な、英国紳士としても見劣りせぬような立派な紳士になろうと必死に研鑽を積み重ねる。歳を重ねるごとに増す差別に耐えながら、ハルへの想いを、それだけを支えに過ごしてきたのだ。もちろん、ハルも出来うる限り奈津男に寄り添い、互いに手を取り合って助け合ってくれていたから出来たことだ。

 

 だが、関係が崩れるときはあっと言う間で、しかも間が悪い。

 

 喧嘩別れとなって数日後、そろそろいつもなら落ち着いている頃だと思い、ハルは仲直りを決めて父のスタイリーへと大使館に次はいつ行くのか尋ねた。

 

「もう、会うことは許さない」


 不機嫌そうな顔でスタイリーはそう言った。


「え…」


 戸惑いが隠せないハルは一歩引くほどに驚いてしまった。


「大使館はもちろん、奈津男にももう会うな、ハル、スクールで勉強をして立派な大人になりなさい」


「パパ?なにをいって…」


「いいか!日本はな…」


 スタイリーは書斎で厳しい目をするとハルに向けて矢継ぎ早に日本の罵詈雑言を言い放ってゆく。そこに優しい父親の姿はなく、あまつさえ父の口から一度も聞いたことがなかった日本人を侮蔑するような単語の羅列に只々戸惑うばかりだった。


「スクールも変えることにした。明後日には寄宿舎に入ってもらう」


「パパ!?」


「反論は聞かない、日本かぶれのお前のためでもあるんだ」


 そう言ったスタイリーは執事が来客を告げたるとハルを置いて出て行った。泣き崩れたハルに見向きもせずに…。

 言われた通り、別のスクールの寄宿舎に入る手続きがなされていて、ハルは年配のスタイリーの信頼厚いメイドに連れられて、強制的にロンドンから遠く離れたエディンバラの学校へ転校となったのだった。


「親父、最近ハルが来ないけど、大丈夫なのかな?」


 食卓で夕食を共にした辰雄に奈津男は話しかけた。普段なら喧嘩のたびに1週間くらいで仲直りをしていたのだが、スクールの接点がなくなり、ハルが来ない限り話もできない状況となっていた。手紙も書いては見たが、尋ね当たらずで差し戻しとなってしまっていた。

 

「奈津男、ハルはもうこない。スタンリーもこない、3年後にお前には陸軍士官学校を受験してもらう。武官で来ている菊池大佐が推薦書を書いてくださるそうだから、しっかりとお国のために学んで立派な軍人になれ」


 仏頂面をした辰雄がそう言ってスプーンを皿へ音を立てて置く。


「な、なにをいきなり…」


 驚いて固まってしまった奈津男の目を、辰雄がしっかりと睨みつけた。


「反抗は許さん。いいな。」


 これ以上、話すことはないと食事途中であるにも関わらず辰雄は席を立つち、「大使館へ行ってくる」と言い残して家から出ていった。

 

 数日後、菊池大佐より勉強や軍事教練を受けるようになると祖国との考え方の隔たりに奈津男は悩み苦しむようになっていった。


「大使館の日本と、祖国の日本は違うのだ…」


 祖国の空気と、大使館の空気は違う。

 大使館があろうとも外で大使館員は暮らしている。人々と触れ合い、そして文化を交えてきたからこそ、日本文化と西洋がうまく混ざり合っていたが、菊池大佐との会話で違いを肌身で感じた。それを正さなければ軍人にはなれない。隔たりに悩みながら、時より息を抜くように桜の後ろに周り、自分で背丈の線を菊池大佐から渡された短刀でつける。刀の手入れを学ぶ為であったが、握るたびに祖国を強く意識する。そして自分を押し込む為に、懐かしさで癒しを得る為に、幾度となく桜の元へと通った。

 だが、線が近づいてゆくほどに、過去は消えてゆき、祖国へと染まっていった。


 やがて、2年と半年が過ぎた頃、奈津男は日本に帰国することになった。荷物をまとめ終わり、大使館の職員に挨拶回りを済ませると、桜の木へと向かった。


「これで最後だ」


 背丈の前をつける。

 線がが横並びに − ➖ と揃いを見せた。


「ハル、ようやく追いついたよ」


 笑った顔が思い浮かんで思わず頬が緩んだ。

 風がひと吹きして桜の葉を揺らして祝ってくれている気さえするほどで、そして、懐かしい思いが、万感の感情が、溢れ出してきて、奈津男は人知れず涙した。

 この大使館の中の日本に別れを告げたくはない。彼の育った日本はこの日本だ。帰国ではない。別の国に行くようなものだ。消し去ったはずの感情が溢れてきて、悔し涙が頬を伝う。

 どうしてこうなったのだと、どうしてと自問しては答えを見つけることはできない。

 そして、生きていかねばならないのだ、いつまでも過去に縛られて生きるわけにはいかない。


「さようなら、私を育ててくれた日本」


 そう口ずさみ、両手を桜に当てる。思い出の全てを桜に押し込むように力を込めて送り込み、そして、記憶を捨てる。


 大使館を出る時の奈津男にはまるで能面のように表情がなかった。


 穏やかな春の日々は終わりを告げた。


 酷暑のような荒々しい夏へと奈津男の季節は移ろいだのだった。

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