第5話 生霊の正体
悪い霊とやらのせいで会社を休んでしまった翌日、私はいつもより早めに出勤し、急いで仕事に取り掛かった。
パート勤務とはいえ、私しか担当していない仕事が色々とある。昨日休んだ分を取り返せるよう、いつも以上に集中して業務をこなす。
「八木橋さん、私も手伝うのであまり無理しないでください」
若い女性社員がいたわりの声をかけてくれた。
「ありがとうございます」
「こっちの処理済みの伝票、ファイルに閉じておきます」
彼女は私が入力を終えた伝票の山をサッと手に取り、整え始める。
「あっ、そんな、すみません」
思わず作業の手を止めてあやまると、彼女は笑顔で首を横に振った。
「気にしないでください。私、いつも八木橋さんには助けてもらってばっかりですから」
お昼休憩になり、私は財布を入れたトートバッグを手に事務所を出る。いつものパン屋へ、パンを買いに行くために。
すると駐車場に出たあたりで、後ろから声をかけられた。
「八木橋さん、体調大丈夫ですか。昨日休みだったけど」
振り返ると、そこには営業課の男性が立っていた。たまにしか話すことはないけれど、ハキハキ話して笑顔なわりにどこか威圧的で、私は苦手な人だった。
「ええ、もう大丈夫です。昨日はご迷惑をおかけしました」
なにか昨日休んだことで迷惑でもかけたのだろうか、と不安に思いながらそう答えたが、特にそういうわけでもないみたいだった。
「いえいえ全然。みんな昨日は、なにか物足りないねって言ってましたよ。八木橋さんが電話に出るときの穏やかな声が聞こえてこないから」
「私の声がしないと、ものたりないですか? 私なんて存在感が薄いから、いなくても気づかれないんじゃないかと思ってましたけど」
苦笑いしながらそう答えると、彼は「そんなことないですよ」と笑いながら私と一緒に歩き始めた。
「たいして人数もいない小さな会社で働く仲間なんだから、みんな八木橋さんがいなければ気になりますよ」
「そうだったんですね……。あの、お昼ご飯でも買いにいくんですか?」
「そうですよ。俺はこの先にある弁当屋が気に入ってるんです。八木橋さんは、いつものパン屋に行くんでしょ」
「あ、はい。え、私があのパン屋に毎日行ってるの、知ってるんですか?」
「そりゃ、あれだけ毎日行ってるんだから、みんな知ってますよ」
彼は声を上げて笑い始めた。
弁当屋にたどり着いた彼に別れを告げ、一人でいつものパン屋へと歩き始める。
なんだろう、不思議な気持ちだ。
私が思っているよりも職場の人たちは私を気にしているらしいことはわかった。
誰とも打ち解けることはできていないが、彼らにとって私は日常生活の登場人物の一人ではあるのだろう。
それがうれしいのか、嫌なのか。
人から注目されることは嫌なのだけれど、今日は誰かが私のことを考えてくれていることで、少し心が温かくなるように感じられた。
次第にパン屋が見えてきた。
今日は、どのパンにしよう。
とその時、後ろから急にぐいっと腕を引っ張られた。
「えっ……」
振り向くとそこには黒コーデ男が立っていた。私を見ているようでいて、なにか別のものが見えているかのような妙な目つき。
「おい、おい、おい!」
「え、なんですか……」
驚きと恐怖で思わず後ずさったが、黒コーデ男はぐいっと距離を詰め、私の両肩をつかんだ。
「どうして他の男と……楽しそうに話していた……。お前は寂しい人間のはずだろ。俺と同じ寂しい人間のはずだろ……!」
ああ、そう思われていたんだ。
勝手にそんな風に思われてたまったもんじゃない。はずだけど、少しだけ気持ちはわかった。私も黒コーデ男には自分と同じ匂いを感じていた。
ただ、私はそこまで思い込みの激しい人間じゃないし、黒コーデ男ほど狂ってもいないけれど。
「お前は俺の隣で! たまごロールを一人で食ってろ! なあ!」
「あの……ちょっと……」
彼は私を突き飛ばし、私は路上に押し倒される。
助けを求めようかとあたりを見渡すが、こんな時に限って歩道には誰も人がいない。
ああどうしよう。
黒コーデ男が肩にかけた手を、徐々に首元に近づけてくる。
まさかこの人、私のことを……。
とその時、ひらりと小さな白い人型の紙切れみたいなものが目の前を舞って、黒コーデ男の額に張り付いた。
その瞬間から、黒コーデ男は「わあああ」と叫び始め、私を押さえつける腕の力も抜けていく。
これって、きっと……。
幸庵先生だ。
もしかして、助かるかも。
身体を左右に大きく振り、なんとか黒コーデ男の腕を振り払う。彼の様子をよく見れば、いつもに増して暗い顔で、息切れまでしている。体調が悪そうだ。
多分生霊を飛ばしてたの、黒コーデ男だったんだな。
私が観音経を唱えたから、苦しみが跳ね返って体調が悪いのかもしれない。それに幸庵先生によれば、生霊は飛ばすほうもまた憑りつかれるほうと同じくらいの体調不良に陥るらしいし。
……私、絶対に今死にたくない!
大きく息を吸い込み、叫ぶ。
「誰か助けてえぇ!」
するとすぐに、パン屋からいつものあの、製造担当のふくよかで小柄な山田さんが飛び出してきてくれた。そして私の姿を見つけると、大声で叫びながらまっすぐに駆け寄ってきた。
「白ヤギちゃん!」
――え?
びっくりしたけれど、今は何も考えている余裕がない。とにかく力を振り絞って黒コーデ男の腕を振り払う。
すると山田さんが流れるような動作で黒コーデ男のあごに頭突きをし、股間に蹴りを入れ、背中に肘うちをした。そして地面にうつぶせに倒れこんだ黒コーデ男に馬乗りになり、両手を後手にして拘束する。
「なにしてんだよこのやろおおっ!」
山田さんが雄々しく叫ぶ。
「……え?」
とその時、パン屋のもう一人の女性従業員やお客さんが店から飛び出してきた。
「大変だ! 警察に連絡しないと!」
「大丈夫ですか!」
みんなが駆け寄ってくる中、黒コーデ男に馬乗りになったままの山田さんが必死の剣幕で私にたずねる。
「白ヤギちゃん、怪我してない!?」
彼女の顔をまじまじと見つめる。
息を切らして、白い肌で、優しげな顔で……。
そっか、あの頃よりふっくらしたから気づかなかったけど、この人は。
「鞠子、ちゃん?」
たずねると彼女はぶんぶん首を縦に振り、目を赤くしながら叫んだ。
「そうだよっ!」
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