第38話 近づいていく真実(4)


 午後五時。

 彩香が春樹の職場へ来るのは初めてだった。


 営業先から直帰出来た彩香は、春樹の職場であるグレイス商事の前にいた。


 ここが春樹の働いていた場所。

 春樹が人身事故に遭う原因となった場所。

 まじまじと見つめる中、彩香の心境は複雑になっていく。


 すると、正面入口からスーツの若い男が出てくる。


 彩香にはその男に見覚えがあった。

 確か――春樹の家で会った気がする。


「あれ? あなたは池上の・・・・・・?」

 柏木は彩香をまじまじと見つめながら、思い出した顔で言う。


 そうだ。春樹の先輩の柏木さんだ。

 彩香は思い出す。


「あ、その節はどうも・・・・・・」

 彩香は礼儀正しく一礼し、挨拶をする。

「池上くんはご不幸でしたね・・・・・・。まさか、突き落とされて亡くなるなんて・・・・・・」

 柏木は辛そうに俯きながら、そう言った。

「そうですね・・・・・・。――え?」

 彩香はその言葉に驚いた。


『なぜ、突き落とされたことを知っているのか』


 公では春樹は自殺とされている。

 彩香もそう聞いていた。


 それなのになぜ、柏木は突き落とされたと断言しているのか。


 春樹が持っていた封筒を奪おうとした者がいる。

 いや、奪おうとしたではなく、取り返そうとしたが正しいのではないか――。

 彩香はある仮説を立てる。


 柏木のその発言は、春樹と突き落とした犯人のみ知る真実ではないのか――。


「では、失礼します」

 柏木は何喰わない顔でそう言って、彩香を通り過ぎていく。

「あっ――」

 彩香は声をかけようと手を伸ばすが、躊躇いその手を止める。


 ここで彼に聞かなければ、真実はわからないかもしれない。


 でも、犯人じゃなかったら――?

 まったく無関係だったら――?


 彩香はそんな不安もあったせいか、柏木に聞けずにいた。


「――ちょい待てやっ!」


 すると、柏木の正面に一匹の柴犬が現れる。


 春樹だ――。

 どうしてここに――?

 彩香はそう思ったが、それ以上に彼の雰囲気に驚いた。


 絶対に柏木を逃がさない。

 そんな戦闘態勢の雰囲気が出ていた。


 いくら犬とはいえ、私にはわかる。


 ――春樹は怒っている。


 怒った春樹を見るのは初めてかもしれない。

 それほど彼は温厚な人だ。


「ん? 柴犬? どうしたんだ? こんなのところで」

 柏木は不思議にそう思いながらも、春樹を避けて通ろうとする。

「逃がすかっ!」

 避ける柏木に合わせて春樹は正面に立つ。


 春樹が柏木に逃がさないと言っている。

 つまり、それは柏木が犯人である可能性が高いということだ。

 春樹の声は私以外にわからない。それなら、私が聞くしかない。


「あのー、柏木さん。一つ聞いてもいいですか?」

 彩香は静かな口調で柏木に聞く。

「ん? 何かな?」

 一瞬、動揺した顔になったのを彩香は見逃さなかった。

「春樹は――突き落とされたんですか?」

 柏木の目をじっと見つめて、彩香はそう言った。

「・・・・・・え? そ、そうじゃないの?」

 困惑した顔で柏木は目を逸らそうとする。

「本当に――ですか?」

 彩香は睨むような目つきで柏木の目を見つめる。

「そ、それは・・・・・・」

 柏木は迫る彩香に後ずさり、走ろうと後ろを向いた時だった。


 この場の空気が一転する。


 このタイミングで、彼らが来たのだ。

 春樹は口を開け、驚いていた。 


 タイミングが良すぎる――。


「――逃げても無駄ですよ」

 柏木の正面でそう言ったのは、黒いスーツを着た若い刑事だった。


 その隣には当然、秋田犬――犬神もいた。

 若い刑事はゆっくりと警察手帳を見せ、自分が刑事であることを伝える。


「な、なんで警察が?」

 柏木は慌てた顔で周囲をきょろきょろと見渡す。

「あなたを池上春樹殺人容疑の疑いで署にご同行願いたい」

 若い刑事は冷たい目つきで柏木に言う。

「君があの時現場にいたのは、出入口の防犯カメラでわかった。その時、君が身に着けていた服装と池上春樹を突き落したと思われる男の服装が一致した」

 犬神はそう言って補足する。

 だが、彩香と柏木にはおそらく「わん、わん」としか聞こえていないだろう。

 春樹は気がつく。

 話終えてから春樹と同じことを思ったのか、犬神は困った顔で若い刑事を見つめる。

「あっ、えーと・・・・・・。出入口の防犯カメラにあなたの姿がありました。その映像を基に池上春樹を突き落したと思われる男の服装を照合した結果、出入口でのあなたの服装と一致しました」

 若い刑事は吠える犬神の隣で、言わされているような口調で言う。

「それにあなたは新庄さんとの会話で、普段は混まない駅内がアイドルのコンサートで突然混んだことを知っていた。つまり、あなたがその時、あの駅内にいたという何よりの証拠です」

 春樹は犬神の隣で自分が気づいた事実を述べる。

「・・・・・・あなたはどうしてあの時、普段混まない駅内が混んでいたことを知っていたんですか? 知っていたということは――その場にいたということですよね?」

 彩香は春樹を見つめてから、気づいたように春樹の言葉を自分なりの言葉で復唱する。


 春樹の言葉は私以外には「わん、わん」としか聞こえないだろう。

 ならば、私が春樹の言葉を代弁するしかない。彩香は思った。


 若い刑事と彩香の言葉を聞いた柏木は、諦めたような顔で大きくため息をつき、静かに空を見上げた。


 その態度をするということは、自分たちの仮説が正しい、そう言うことなのだろうか。

 春樹はただじっと柏木を見つめる。


 柏木は何かを堪えるような顔で大きく深呼吸をして、こう言った。



 ――突き落とすつもりはなかったんです。



 その言葉は今まで柏木を見てきた春樹にとって、嘘ではない――と思った。

 こんな打ちひしがれたというか、申し訳なさそうにする柏木は見たことが無い。


「あの時、俺は――」

 柏木は事件当日のことを語りだす――。


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