第36話 近づいていく真実(2)


 午後十時。

 予定通りの時間に家と戻った春樹はケージで眠りについていた。


 玄関のドアが開き、ゆっくりとした足音が聞こえる。

 リビングの電気が点くと、そこにいたのは疲れ果てた顔の彩香だった。


「おかえりー」

 むくっと顔を上げ、春樹は笑顔で言う。

 寝起きのせいか、玄関に行く余裕は無かったのを許して欲しい。

「ただいま・・・・・・」

 げっそりとした顔で彩香は小さな声で言う。

「――えっ? どうしたの? 大丈夫?」

 顔を見るなり、春樹は二度見をして彩香に駆け寄る。

 いったい、この半日で何があったのだろうか。

「まさか、定時で帰ろうするタイミングで自分のミスに気づくとは・・・・・・」

 引きつった顔で彩香はそう言ってため息をつく。

 その様子だと定時で帰ろうとしたけど、帰れなくなって今に至るわけか。

「そんなに酷いミスだったの?」

 彩香の性格からして、大きなミスはしないように見えるけど。

「広告する商品のプレゼン資料を全然違う商品で資料作って部長に出そうとしていた・・・・・・」

 何やってんだろ私、そう言ってため息をついて右手で顔を覆う。

「ええええっ。それはもはや違うプレゼンでは・・・・・・?」

 想像するだけで胸が苦しくなった。

「そうなのよ・・・・・・。その商品なら何ら問題ないけど、広告する商品じゃないのよ・・・・・・。同じメーカーの商品なんだけどね。私、事前に宣伝する商品確認したよね? なんで、あっちの資料作っちゃったの? 関係ないじゃん? なんで気づかなかったの?」

 自分に問いかけるように言う彩香の姿は非常に弱弱しく見える。


 仕事の愚痴を言う彩香は何度も見たことあった。

 だけど、こんなにも打ちひしがれているような姿は今まで見たことが無い。


「何か別のことを―――」


 考えていたんじゃない――。

 そう言おうとしたが春樹は咄嗟に止める。


 その問いの答えはわかっていた。

 きっとそれは自分のことだろう。


 彩香はここ数日、仕事中でも自分のことを考えていたのだろう。


 様々な思いと可能性――。

 今後の生活――。

 それらに対し、彼女が悩んでいたのは間違いない。


 でも、そのミスを上司に提出する前に気づくとは。

 さすが彩香だと春樹は思った。


「別のこと?」

 春樹の問いに彩香は不思議そうに首を傾げている。

「うん。その――ごめんね」

 こんな形で迷惑をかけるとは春樹は思ってもいなかった。

「なんであなたが謝るの?」

 唖然としたような顔で彩香は言葉を返す。


「いや、突然こんな姿になって彩香に迷惑かけてさ・・・・・・」


 迷惑しかかけていない。

 突然、転がり込んだわけだし。


 すると、彩香は真顔になってこう言った。


「は? なんで私に迷惑かかっているわけ? 大好きなあなたが隣にいて、幸せなのにどうして? なに? あなたは迷惑なの――?」


 まるで春樹を攻めるような口調だった。

 怒っているようにも見える。


「――迷惑なわけないじゃないか。俺も幸せだよ」

 彩香の言葉を否定するように春樹は首を大きく横に振るう。

「なら、いいじゃない。たまにはこういう日もあるわよ。だから――」

 そう言って彩香は春樹を抱きしめてから、自分の顔を春樹のお腹に埋める。

 ダイブしたような姿勢で彩香は床に俯せになっていた。

「ん? えっ? ちょっと・・・・・・彩香?」

 首をお腹の方に向けて春樹は慌てる。

 お腹に何か重みがある不思議な感覚。

「なんだろ、なんかホッとするわ・・・・・・。これが癒しってやつなの・・・・・・?」

 埋めながら彩香は明るい声で言う。


「んー、そう・・・・・・? なら、嬉しいよ」


 彩香が俺のお腹で癒されている。

 不思議な気分。


 人間だったら――。

 そう想像するだけで不自然な光景が目に浮かぶ。


 なんとなく犬で良かった。

 そう思えた瞬間だった。


「まさか、春樹に癒される日が来るとはね・・・・・・」

 顔をくるりと回し、春樹の目を見て意外そうな顔で彩香は言った。


 まさに、春樹のお腹を枕にして寝転がっている、そんな光景。


「んー、嬉しいはずなんだけど、なんか複雑」

 どうしてか素直に喜べない。

「でも、本当は私で癒されて欲しかったんだけどなー」

 彩香は両手を前に振り、その反動で起き上がる。

「ん? んんんっ!? 彩香さん、それはいったいどう―――」

 春樹が驚いて顔を上げると、春樹の頭は勢いよく彩香の胸に埋まる。

「あわわわわ」

 彩香の突然の行動に春樹は慌てた声で後ろ足をジタバタさせている。


 これはいったいどういうことだろう。

 春樹は状況についていけていなかった。


「何よ? これじゃあ、癒されないの・・・?」

 不満げな顔で頬を膨らませて、彩香は首を傾げる。

「――たっぷり、癒されましたー」

 枯渇していた何かが突然潤ったような感覚。

「なら、良し!」

 活気のある声でそう言って、彩香は台所へと向かって行った。


 ――こんな生活なら、犬生も悪くない。

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