第22話 春樹と彩香(13)


 若かりし頃の夢を見ていた。

 俺と彩香にあんな時代もあったのだ。


「ただいまー」

 ドアを開ける彩香の声で目が覚める。


 玄関前に行こうとした。

 ふと、犬神の言った言葉を思い出す。

 

 もしも――。

 もしも、今、俺が普通の犬のような反応をしたら、彩香はどうするのか。


 やがて、訪れるであろうその運命。

 それならば、良くも悪くも記憶があるうちに反応を見ておきたい。

 春樹はそう思い、黙ってケージの中にいた。


「あ、ハルちゃん。ただいまー」

 疲れたよー、と明るい声で彩香は言う。


 時計を見ると二十一時頃。

 本当にお疲れ様、彩香。


「わん!」

 おかえりと言うような姿勢で吠えてみる。

「・・・・・・ん? ただいまー」

 彩香は首を傾げてから、やり直すようにもう一度言う。

「わんっ! わんっ!」

 尻尾を振って盛大におかえりなさいと言っている雰囲気を出す。

「・・・・・・春樹? あれ・・・・・・? わんしか聞こえない? あれ、なんで?」

 彩香は突然、不安な顔をして春樹のそばへ駆け寄る。

「わん?」

 春樹はそのまま不思議そうに首を傾げる。

 客観的に見れば、これが飼い主と犬の会話だろう。

「えっ・・・・・・? 春樹、私の言っていることわかる・・・・・・?」

 彩香は両手で春樹の頬をさすりながら、語りかける。

「くぅん・・・・・・?」

 ちょっと小さい声で鳴いてみる。

「・・・・・・そんな・・・・・・? はるきぃ・・・・・・」

 崩れるように彩香はその場に座り込み泣いた。悔しそうに。

 春樹はその姿を申し訳なさそうに見つめていた。


 すると、彩香は独り言のように色々と呟いている。


「まだ一緒にお風呂入ってないのに・・・・・・」

 そんな言葉が確かに春樹の耳に入って来た。


 ――間違いない。


「んんっ!? ほんと!?」

 尻尾をぴんと上に立て、春樹は目を見開いてそう言った。

 呆然と春樹を見つめる泣き顔の彩香と目が合う。

「――あっ」

 春樹はハッと気が付き、小さく「くぅん・・・・・・」と言いながら、目を逸らす。

「ねえ・・・・・・、ハルちゃん・・・・・・?」

 恐る恐る彩香は春樹に言う。

「わん?」

 目を逸らしながら、春樹は首を傾げた。


 いかん、これはまずい。

 俺は今、普通の柴犬なのだ。


「――ちょっと、春樹」

 すると、彩香は春樹の頬を両手で掴み、外側に引き伸ばす。

「・・・・・・ひゃにひゅるの・・・・・・」

 春樹は解せないような顔で言う。

 なんで俺は彩香にほっぺを引き伸ばされているのだろう。

「春樹。何かさ・・・・・・。私に言うこと――ない?」

 彩香はゴゴゴゴッとでも背景に付きそうなな怖い雰囲気を出している。

「・・・・・・ごへんなひゃい・・・・・・」

 そのままの状態で春樹は謝る。

「で、どうしたの?」

 彩香が冷静な口調でそう言って手を離すと、その衝撃で春樹は床に倒れる。

「いや・・・・・・、本当の犬になったら彩香がどんな反応するかなってさ」

 自分でも安易な考えだったと春樹は心の底から思った。

 こんなにも彼女が悲しい顔で泣いてしまうなんて、思ってもいなかった。

「本当の犬? 普通の犬ってこと?」

「うん。人間と会話が出来なかったら、って考えてみた」

「で、あんなことを・・・・・・?」

 目を細めて睨むように彼女は言う。


 確か、ジト目って言うんだっけ。

 なんだろう――悪くない気分。


「ごめんって」

 尻尾をしゅんとさせ、春樹はぺこりと謝る。

「でもまあ、春樹は犬だもんね・・・・・・」

 自分自身を納得させるかのように彩香は言う。


「まあ、そうなんだけどさ。実は――」

 

 春樹は今日、犬神と話したことを話し始めた――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る