第20話 春樹と彩香(11)


 翌日。

 春樹は近所を歩いていた。


 彩香から外出を許可されたのは良かったが、三つ条件があった。 


『必ず通った道を覚えていること』

『道路付近では走らないこと』

『雌犬を追いかけないこと』


 最後の条件を聞いた時、春樹は冷や汗をかいた。


「この辺りは何度か通ったことあるから、道は大丈夫だな」

 歩道の左端を歩き、春樹は辺りを見渡す。

 人間の頃も、よく彩香の家に行くために通っていた道だ。

 春樹がふらふらと散歩していた、そんな時だった。


「お、生きていたか。元人間」


 そう言って、春樹の目の前に現れたのは、白い秋田犬――犬神だった。


「あっー!」

 犬神を見た瞬間、今まで犬神の存在を忘れていた自分に気づく。

「なんだ、その摩訶不思議なものを見る目は」

「いや、すみません。その――存在を忘れていまして」

 正直に春樹は答える。

「えええっ! 嘘やん! 犬神さん、ショック・・・・・・」

 びっくりマークが付くような驚き方をして、犬神はしゅんとする。

「すみません。本当に忘れていました・・・・・・」

 こんなに印象に残るはずなのに春樹の記憶からすっぽり抜けていた。


 これも彩香との日々が幸せだからなのかな。

 なんて春樹は思った。


「それほどワンダフルライフは充実している、っていうことかい?」

「うん・・・。まあ・・・・・・」

 確かにそう言われればそうかもしれない。

「んん? んー。どうやら、君はだいぶ『犬』になりかけているみたいだね?」

 観察するような眼差しで犬神は言う。

「そうなんですか?」

「犬度でいうと七割くらいかな?」

 犬神は集中するように目を細める。


 犬度と言う意味がよくわからなかったが、きっと存在の割合とかなんだろう。


「七割・・・・・・、百パーセントになったらどうなるんですか?」

「どうなるもなにも、それはもうただの――犬だよ」

「――そうですよね」

 まさに純度百パーセントの柴犬だ。

「――が、そうなると一つ問題がある」

 気が付いたように犬神は言う。

「問題?」

 本当に一つだけなのだろうか。

「百パーセントになった時、君は今までとは異なり、人の言葉を理解出来なくなるかもしれないということだ」

 犬神は真面目な顔で話す。

 それを聞いた春樹はまるで時が止まったような感覚に襲われる。


 人の言葉を理解出来なくなる。

 つまり、彩香の言葉がわからなくなるということだ。

 それは必然的に今のような会話が出来なくなるということ。


「今のままじゃ、ダメなんですか?」

「ダメではないけど、その事象はもう自然の摂理に近い。だって、君はもう――犬なのだから」

「そうか・・・・・・。そうなのか・・・・・・」

 俯き自分の両足を見て、春樹は納得する。

「その進み具合は私でもわからない。あと十年後かもしれないし、明日かも知れない」

「明日・・・・・・」

 明日起きたら、彩香の言葉がわからなくなる、話せなくなるかもしれない。

 そう思うだけで春樹は明日を迎えるのが怖くなった。

「それにしても、本当にどうして君は犬になったのだろうな」

 ふと思い出したように言う。

 その思い出し方がわざとらしく見えたのは、きっと気のせいだろう。

「それと犬化は関係しているんですかね?」

「うーん、関係しているかもしれないが、何とも言えない・・・・・・わんっ」

 犬神はわんっと言う時だけ、無邪気に言う。

「・・・・・・」

「なんだ、その解せない顔は」

「信憑性が感じられなくて・・・・・・」

「まあ、どうして君が犬になったのか、それは私でさえもわからない。だが、何かの理があって君は犬になったのだろう、私はそう思うぞ」

「何かの理・・・・・・?」

 俺が犬になったのにも何か理由があるということだ。


 人身事故で本来は死ぬはずだった。

 それなのに犬としての犬生を歩んでいる。

 これは一種の転生なのかな――?

 春樹は色々考察してみる。


「そうだ。何かの繋がりでなるべくしてなった、かもしれない・・・わんっ」

「・・・・・・なるほど」

「それと原因がわかったら、君はどうなってしまうんだろうな」

「――と言いますと?」

「仮にだよ。もしも、その原因が解消されてしまったら、君が犬になった理由はなくなるかもしれない。となると、君は人間に戻るのか? それとも、君と言う存在は消滅するのか? 実に――わからない」

 眉間にしわを寄せて、犬神はゆっくりと首を左右に振るう。

「人間に戻れるのか、消滅するのか・・・・・・?」

「それか、ただ理由がわかっただけで、そのまま、ってのもあるな」

「んー、それはそれでセカンドライフ感はありますね」

「まあ、それも良いじゃないか。ただし―――今の記憶があればな」

 犬神は最後の言葉を強調する。

「そうですよね・・・・・・。記憶なかったら、ただの犬ですもんね」

「そりゃそうだ。――――おっと、もう餌の時間だ。では、失礼するよ」

 ハッと何かに気づいたような顔で、犬神は春樹に背中を向け、走り去っていく。

「ちょっと! まだ話が―――って、もういない」

 呼び止める頃には犬神の姿は見えなかった。


 前回もこんな流れで、逃げられた気がする。

 本当に何者なんだろう――あの犬は。

 春樹は自分なりに整理する。


 原因が分かった場合、三パターンある。

『人の姿に戻れる』

『存在自体が消滅する』

『犬の姿のまま』 

 原因が分からなかった場合は無論、この姿のままだろう。


 犬の姿だったら月日が経つにつれ、人の言葉を理解出来なくなる可能性は非常に高い。

 そうなると、俺はただの彩香の愛犬になるのだろうか。


 春樹は空を見上げから、ため息をついた。 


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