第19話 春樹と彩香(10)


 少しずつ彼との距離が近くなる。

 だけども、もう彼は今までの彼じゃない。


「すぐケージに入るようになったね」

 家に戻るなり、春樹はそそくさとケージに入っていった。

 その雰囲気は落ち込んでいるようにも見える。


 ――私があんな質問をしたからなんだろうか。


 気になったら、気持ちが止まらなくなってしまった。

 本当は彼がどう思っていたのが、それが気になってしょうがない。


 けれども、今の彼は人間ではなく犬なのだ。

 柴犬のハルちゃんなのだ。もう、池上春樹ではない。


 わかっている。

 わかっているはずなのに。

 何度も自分に言い聞かせて、大丈夫だと思っていたはずなのに。

 彩香はまだ池上春樹の姿を忘れられずにいた。


「ん、だんだんと慣れてきたよ。この空間にも」

 そう言って春樹はしゃがみ込む。

「そうなの?」

「うん。意外に落ち着くんだよ。最初は狭いしか思ってなかったんだけどさ、住めば都ってよく言うけど、こういうことなんだなーって」

 意外に彼は落ち着いた表情で言う。


 ――なんで、あなたのほうが落ち着いているのよ。


 人間から急に犬になったのにも関わらず、彼はケロッとしているように見える。

 環境に不満を言わず、順応していくその姿は春樹らしい。


 私がこんなにもあなたのことでいっぱいなのに――。


「・・・・・・たまにはベッドで寝たくならないの?」

「んー、できることならそうしたいです」

 少し息を荒くしながら、春樹は尻尾を振るう。

「ふふっ」

 思わず笑ってしまった。

 そう言う素直なところは、本当に――大好き。

「えっ、なんかおかしい? 別にその彩香のその・・・おっぱいに触れられるから、とかそんなんじゃないよ?」

 春樹は右手を上下に振るいながら言っている。


 本当に素直なのだ――この人は。

 昔からだが、嘘をつくなどと言った不誠実な行為はしない。

 というより、できない性格をしている。


 やる気とか向上心はそこまでない。

 しかし、素直で誠実な人だということは間違いない。


「え、そうなの? じゃあ――寝てみる?」

 冗談っぽく言ってみる。

「えっ・・・・・・。――いいんですか?」

 真顔で春樹は彩香を見つめる。

「いいよ」

 彩香はパジャマに着替えるため、部屋に向かう。


 昼間だけど、こうやって二人で昼寝をするのも悪くない。

 同棲していたら、休日はこんな日々だったのだろうか――。

 

 パジャマに着替えた彩香は部屋のドアを開け、春樹を呼ぶ。

「失礼します・・・・・・」

 恐る恐る春樹は私の部屋に入っていく。

「何よ。その挙動不審な動きは」

 その動きはおろおろとしているように見える。

「いや・・・、なんというかいざ、寝ると言われると――緊張しまして」

 ベッドの前で、お座りの状態で春樹は言う。

「そう言えば、春樹さ」

 その動きを見ているうちに彩香にある疑問が浮かぶ。

「ん?」

 春樹は不思議そうに首を傾げる。

「春樹って――童貞なの?」

 彩香にとって、素朴な疑問だった。

 そう言えば、今まで春樹の女性関係を聞いたことがなかった。

「えっ? ええええっ。えっとー、そのー」

 春樹は色々と喋ってはいるが「えっとー」と「そのー」しか言っていない。

 こんな春樹は見たことがない。

 それほど、動揺しているのだろうか。

「はいはい。わかったわよ、ごめんね」

 その動揺から大体察しがついた。

「だって、彩香しか好きになったことないもん・・・・・・」

 春樹は尻尾をしゅんとさせ、落ち込んだように俯く。

 まるで、落ち込む子供のような口調で。


 そうか――。そうなのだ――。

 意外に簡単な話だったのだ。


「・・・・・・私もよ」

 小さく私は呟いた。

 必然的に私も――そうなのだ。


 高校時代も、大学時代も。

 彼氏が欲しいと言いながらも、頻繁に春樹と出かけたり遊んだりしていた。

 彼氏が出来たらしたいことなんて、今思うと春樹としていることだらけだった。

 春樹がいたから、彼氏はいなくても良かった。

 そんな状態だった気がする。


「彩香?」

 呟きを聞き返すように春樹は聞く。

「ああっ! もうっ!」

 私は春樹を抱き上げ、そのままベッドに飛び込む。


 恋人をついつい押し倒してしまう感情はこんな感じなんだろうか。

 なんというか愛おしい衝動に駆られて止められない。そんな感情。


「えっ!? ちょっと彩香・・・・・・?」

 春樹は訳も分からず、口をぽかーんと開けている。

「何よ・・・・・・。押し倒されるのは――嫌なの?」

 ベッドの上で春樹は仰向けで、彩香は四つん這いになっている。


 自分でも驚くほどの行動力だった。

 それほど、感情が抑えられなくなっているのだ。


「その――嫌いじゃないです」

 春樹は無心になった顔から、真面目な顔で言う。

「なら、私に抱かれなさいよ」

 彩香は春樹を抱きしめ、眠りにつく。


 ――どんな姿であれ、私は彼のことが好きなのだ。


 やはり、自分の気持ちに嘘はつけない。

 彩香はこの感情に向き合おうそう決めた。

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