第17話 春樹と彩香(8)


 日曜日の朝八時。


 春樹は朝のテレビのニュースキャスターの声で目が覚めた。


「あ、おはよう。ハルちゃん、起こしちゃった?」

 パジャマ姿の彩香はあくびをしてから、申し訳なさそうに言う。

「んや、ちょうど良かったよ」

 身体もベストタイミングと言っているか、目覚めが良い。

「なら、良かった。ご飯食べたら、散歩に行こうと思うけど?」

「うん。わかったよ」

 春樹はそう言って、ケージから五メートルほど離れた場所に設置しているテレビを見る。

 

 互いにご飯を食べ終わり、彩香は春樹の首輪にリードを付ける。


「じゃ、行こっか」

 玄関前でブラウンのトレンチコートを着てから、彩香は言う。

「うん」

 嬉しそうに尻尾を大きく振るい春樹は頷く。



 あれから、一週間。

 この関係にも慣れてきた。


 

「今日は晴れてよかったねー」

 散歩道、空を見上げながら彩香は春樹に言う。

 ある一定の範囲は除雪がされているので、問題なく歩くことができた。

「そうだね。雨だと、出たくなくなるもんな・・・・・・」

 犬は雨の日の散歩を嫌がると聞く。ならば、俺も嫌になってしまうのだろうか。


 昨日みたいな雨ならば。そう考えるだけで嫌な感情が込み上げた。

 春樹は自然と犬の感性に近づいていく。



 公園に着くと、春樹は芝生があった広い空間を走り回る。



 片栗粉を踏むように雪を踏み、雪原を走る。

 そんな感覚。


 部分的に昨日の雨の影響か、シャーベット状になっている箇所があった。

 幾多の水たまりを飛び越え、春樹は疾走する。


「おおっ! 走るの楽しい!」


 走る走る。

 なんでだろう、走るだけで楽しい気分になってきた。


 ランナーズハイとかよく言うが、もしかしてこれのことなのだろうか。


「良かったね。ハルちゃん」

 ホッとしたような顔で彩香はそばのベンチに座っている。

 彩香はまるで保護者のような気分だった。


 すると、一人の男が彩香に近づいていた。


「あれ? もしかして――相内?」

 男は彩香の背後から声を掛ける。

「えっ? あー、武井さん!」

 驚いた顔で彩香はその男と話し始めた。


 走り回っていた春樹は彩香が誰かと話していることに気づき、その足を止めた。

 その男と話す彩香は次第に笑顔になっていく。


「彩香・・・・・・」

 春樹はただその光景を遠くで見つめていた。


 見る限り良い人そうだ。


 あの人ならきっと彩香を――。


 春樹の中の『幸せにしたい』という思いは、次第に『幸せになって欲しい』に変わっていく。

 

 ――今の自分では彼女を幸せにすることはできない。


 現実が針となって、春樹の心に突き刺さる。


 しばらくして男は彩香に手を振って去って行った。

 彩香もそれに合わすよう手を振る。


「――今のは職場の人?」

 春樹はとぼとぼと歩き、恐る恐る彩香に聞いた。


 何故だろう。

 さっきまで身体が温かかったのに今は寒く感じた。


 もしかしたら、さっき雪原にゴロゴロと身体をこすったからかもしれないけど。


「あ、さっきの人? 今の人は会社の先輩で武井さんっていうの。同じ班の人でいつも助けてもらっているの」

 思い出しているように彩香は言う。

「――そうなのか」

 春樹は静かにそう言って、しばらく散歩する犬たちを見ていた。

「春樹・・・・・・」

 彩香は申し訳なさそうな顔で小さくその名を呼んだ。


 今のを見て、春樹はどう思ったのだろうか。

 別に私は武井さんに対して、何も思っていない。

 好きでもないし、嫌いでもない。

 ただ、仕事を手伝ってくれる先輩。

 春樹以外に恋愛感情を抱いたことは一度も無い。


 逆に言えば、春樹以外に恋愛感情も抱かないほど、春樹のことが好きだったのだろうか――私は。

 彩香は自身の感情に気づく。


「んんっ!」


 すると突然、春樹がそんな奇声のような声を上げる。

 それと同時にその尻尾が垂直に勢いよく伸びた。


 この尻尾は何かのレーダーなのだろうか。

 そんな動きをしている。


「えっ? どうしたの?」

 さっきまで落ち込んでいるように見えたのだがどうしたのだろう。

「いや、あの柴犬になんか身体が反応するんだよ・・・・・・」

 そう言う彼の先にいたのは――。

 

 ――白い雌の柴犬。

 

 数メートル先でその犬は、飼い主と一緒にボールで遊んでいた。


「どんな反応するの・・・・・・?」

「身体が熱くなるというか・・・・・・。もやもやするというか・・・・・・」

 なんだろう、この感覚は。言い表すのが難しい。

「もしかして、ムラムラ・・・・・・?」

 首を傾げて、彩香は一言そう言う。

「そう! そんな感じ――」

 彩香の方に振り向き、目を見開いてから春樹は青ざめる。

 しかし、今の感覚は残念ながらその言葉が正しい。

「へぇ、ムラムラねぇ・・・・・・」

 彩香は蔑むような眼差しで春樹を見つめる。

「いや、違うの! 違うんだよ! そんな訳じゃないの――」

 春樹はそう言うが雌の柴犬のお尻に自然と目がいってしまう。


 なんでだろう。

 これが雄の本能なのだろうか――?

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