第16話 春樹と彩香(7)
その日の午後九時。
春樹がベッドで寝ていると、玄関の鍵が開く音がして急いで玄関へ向かった。
「ただいまー」
そう言って、大きな荷物を持った彩香が帰ってくる。
「おかえりー」
尻尾を振りながら、春樹は笑顔で迎える。
「・・・・・・」
まじまじと春樹を見つめる。
「え? なに? どしたの?」
「いやー、久しぶりに、ただいま、って言ったなって・・・・・・」
彩香は自分でも驚いているように言う。
「あ、なるほど・・・・・・」
――そうか。
俺もだけど一人暮らしをしてたら、ただいまなんて言わない。
玄関を開けても暗いし、その明かりをつけて一人リビングへ行くだけ。
春樹もそんな日々を送っていた。
「うん。おかえり!」
春樹はもう一度、笑顔で彩香に言う。
「うん。ただいま――ハルちゃん」
おっとりとした表情で彩香は春樹の頭を撫でる。
「ん? ハルちゃん?」
聞きなれない呼び名に春樹は聞き返す。
そう言えば、昨日もそう呼んでいたような。
「そうよ。外に出た時、春樹って呼ぶと、まるで私が『死んだ幼馴染を忘れられず、犬にその幼馴染の名前を付けた女』みないになるでしょ? そんなの嫌だもん」
大きな荷物をリビングへ持っていき、ソファーに座る。
『死んだ幼馴染を忘れられない』
その言葉が春樹の心にぐさりと刺さる。
そうだ、池上春樹という人間は死んでもう――いないのだ。
「んー、それは客観的に見ると、ちょっと病んでいるように見えるね・・・・・・」
もう恋人関係だったのでは、と疑惑を抱いてしまうレベルだ。
「そうよ。それに――私もあなたが犬だということを自覚しないといけないしね」
彩香は自分自身に言い聞かせるようにそう言って、大きな荷物の中にあるビニール袋を取り出す。
姿を現したのは、中型犬用の折り畳み式のケージだった。
それと一緒にドッグフードやトイレグッズ、首輪などといった犬の飼育に必要な道具もある。
「彩香?」
ケージを出すその姿はなんだか悲しそうに見える。
「なに? まだ入れないわよ?」
「いや、そうじゃなくてさ・・・・・・。いいの? こんなにしてもらって」
泊めてもらった上にこんなケージやトイレグッズまで。
春樹としては、頑張って人間用のトイレとかで済まそうと考えていたのに。
下手に汚したら逆に迷惑か。
考えてみれば、あの構造は犬にとっては難しそうだ。
「そりゃ、私が飼うと誓ったからね。ハルちゃんを」
彩香は春樹を見ることなく、ケージを組み立てていく。
彼女にとって、もう俺は犬なのだろう。
そりゃ、犬だもんな――俺。
春樹は自身の立場を理解し、ケージが組み立て終わるとすぐさま入っていった。
「・・・・・・どう? 狭くない?」
不安そうな顔で彩香は春樹に聞く。
その表情は何かを堪えているようにも見える。
「うん。大丈夫だよ。・・・・・・彩香」
寝返りも打てそうだし、申し分ない広さだ。
――だけど。
「ん? 何?」
彩香は、不満でもあるの、とでも言いそうな顔をしている。
春樹は彩香をじっと見つめてこう言った。
――ごめん。
死んでしまって、ごめん。
助けてもらって、ごめん。
春樹が言ったその『ごめん』には、数々の思いがあった。
「・・・・・・なによ・・・・・・っ。なんで、あなたが謝るのよ・・・・・・っ」
静かにそう言った春樹を見つめて、彩香は涙を流してそう言った。
ケージの上から春樹を抱きかかえる。
「なんで春樹が謝るのよ・・・・・・? 私が人間だったあなたを犬扱いしようとしているのに、どうしてあなたが謝るのよ・・・・・・?」
「助けてもらってるしさ・・・・・・。その・・・ごめん」
ただただ春樹は謝る。
「私だってごめんなさい・・・・・・。もう、あなたを犬としてみないと、もう心が壊れそうで・・・・・・っ。あなたが春樹だと思うと、この気持ちが抑えられない・・・・・・っ。でも、もう春樹はいない・・・・・・。なら、私はどう生きていけばいいの・・・・・・? そう思ったの・・・・・・。だから、私はハルちゃんっていう柴犬と二人で生きるって決めたの・・・・・・。――この先も」
泣きじゃくり、彩香は本心を春樹に話す。
「彩香・・・・・・」
辛そうな顔でそう話す彩香は、帰ってくるまでどれほど悩んでいたのだろうか。
いったい、どんな気持ちでこのケージ類を買ったのか。
春樹はそれを考えるだけで、申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ね・・・? もう、あなたはハルちゃんなの・・・・・・。お願い・・・・・・。そうして・・・・・・」
座り込み、土下座をするように彩香は春樹に言う。
そうなのだ。
もう、犬として生きることを覚悟しなければならない。
もう、彼女と手を繋いで歩くことはできない。
そう思うだけで、不思議と涙が止まらなくなった。
目の前に彼女がいるというのに、俺は何一つ力になれない。
春樹は今の自分の無力さを思い知らされた。
「わかった・・・・・・わんっ」
春樹は頷き、お手をするように右手を彩香に向ける。
そうだ。
これからは柴犬として生きよう。
春樹は自身に言い聞かせるように誓った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます