第10話 春樹と彩香(1)


 彩香は就職と同時に一人暮らしを始めた。


 相変わらず、手入れがきちんとされている綺麗な部屋を見て春樹は感心する。


 玄関に入ると、彩香は濡れたタオルで春樹の身体と肉球を拭いていく。

 肉球を拭かれる感覚は意外と気持ち良い。

 拭き終えると春樹はリビングに案内された。


「――で?」

 彩香はリビングに着くなり、コートをハンガーにかけてソファーに座る。

 そのソファーが彼女のいつもの定位置だと春樹は覚えていた。

「で・・・とは?」

 ソファーの前でお座りをしながら、春樹は瞬きをしながらそう言った。

 彩香を少し見上げるように見る感覚は、なんというか――違和感がある。


 ここからだと不思議と彼女のスタイルの良さが目立つ。

 相変わらず、健康的な身体をしていた。

 痩せすぎてもいない、太りすぎてもいない。そんな良きスタイル。


「本当に――春樹なの?」

 信じられない、とでも言うような顔で彩香は言う。

「うーん、そうだよ?」

 自然と春樹は首を傾げた。

 正真正銘、中身は池上春樹なんだけど。

 確かにこの姿では説得力がないのは間違いない。

 自分でもそう思う……わん。

「んー」

 腕を組み、彩香は悩んだ顔で首を傾げながら春樹を見つめる。

「どうしたの・・・・・・? そんなまじまじと見て」

 そんな顔で見つめられるとドキドキするのはなぜだろう。

 悩んだその顔は不思議と愛らしく思えた。

「犬にしか見えない。その・・・・・・可愛い柴犬にしか」

 ため息交じりに彩香は言う。

「そんなっ! 可愛いなんて・・・・・・。照れるワンっ」

 嬉しさのあまり春樹は挙手のように右手を上げた。


 意外に可愛いと言われるのも――嫌じゃない。


「んー、それに――」

「ん?」

「そのー、本当に春樹なら春樹っていう証拠を見せてよ」

 信じようにも現実、信じる根拠が無い。思いつめたような顔で彩香は言った。


 今の彩香にとってこの柴犬は、ただの人の言葉がわかる柴犬だ。

 イコール春樹では無い。


「んー? 俺っていう証拠?」

 見てわからない? と言おうとしたが、今は柴犬なんだ俺。

「うん。それがあれば、私は信じるよ」

 落ち着いた顔で彩香はうんと頷いた。

 俺と彩香しかわからないこと。――そう言えば。

「うーん。小学四年生の頃、彩香と一緒にお風呂に入った時に間違って彩香のおっぱいを触っちゃって、もう二度とお風呂に入ってもらえなくなったこと・・・・・・とか?」

 春樹はふいに蘇ったその記憶を言ってみる。


 そう言えば、そんなこともあった――。

 今では懐かしい思い出だ。


「うっ。い、いや、あの時はさ・・・・・・? その触られて恥ずかしくて、それに小さかったから・・・・・・。――って、何言わせんのよ!」

 彩香の右手チョップが春樹の頭に直撃する。

「いだっ」

 頭上から足の裏まで衝撃が走った。

「――あっ! ごめんねー」

 ハッと我に返ったように彩香は春樹の頭を撫でる。

「うーん、この姿だと痛いな・・・・・・。今までは叩かれても、叩く時の顔が真っ赤で可愛かったから、痛みは気にしてなかったけども・・・・・・。今は痛いね・・・・・・」

 春樹はしみじみとした顔で言った。

 痛さのあまり本音が零れる。本当に可愛い顔をしていた。

「へっ? そんなこと思っていたの?」

 真っ赤な顔で彩香は驚く。

「うん。その・・・彩香のむきになる顔が好きだったからさ」

 何気ない顔で春樹は彩香を見つめる。

「そう・・・だったんだ・・・・・・。――って、そんな話じゃない」

「あっ、そうだった! なっ! 俺だってわかっただろ? こんな話、犬でも人間でも本人しかわからないだろ?」

「それは・・・そうだね・・・・・・」

 そんな恥ずかしい話、春樹が他人に言うとも思えない。

「それに彩香だけなんだよ・・・・・・。――人と話せるのは」

「え、私だけなの?」

「ああ。なんかよくわからない犬神って名乗る秋田犬にも、犬と喋れても人間とは喋れないって言われたし、道端の人にも何度も話しかけたけど、聞いてもらえなかったし」

「確かに・・・、最初はただ吠えている柴犬だったもんね」

「と言うことは、何かがきっかけで会話が出来るようになった――ってことかな?」

「そうなるよね」

「なるほど・・・・・・」

「で、その・・・・・・?」

 不思議そうな顔で彩香は何か言うのを躊躇っている。

「ん? どうしたの彩香」

「春樹今、犬じゃん・・・・・・? その・・・・・・、なんというかさ・・・・・・。お風呂とかどうするの? 結構、汚れているみたいだけど」

 四方から春樹の身体を眺めて、彩香は恐る恐る言う。

 濡れタオルで拭いたは拭いたが、落ちない汚れが多々あった。

「うーん・・・・・・、正直――――お風呂に入りたいです」

「・・・・・・じゃあ、入る?」

「えっ? もしかして――」


 春樹は呆然とした顔で口を半開きにする。


 もしかして、もしかするのか――?

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