第5話 悲劇と出会い(3)


 春樹は無我夢中で逃げ出した。


 目を覚ますと、いつの間にか自分は駅の出入り口にいる。

「朝か・・・・・・」

 春樹は空を眺め、日差しを浴びた。


 この姿になって、半日。

 ただひたすらに走り回った、そんな記憶しかない。


 人間の頃は転ぶと痛そうと思った粗いアスファルトの地面も、

 この肉球で歩けば不思議と痛くなかった。


 どうやら、感覚が少しずつこの身体に慣れている。

 春樹は複雑な心境だった。


「うーん、どうするかなー」

 空は雲一つない快晴。

 どうやら、この空だと雨は降らないようだ。


 とりあえず、と思い春樹は足を動かす。


「――どこへ行こう?」

 動かした直後、春樹はピタッと足を止めた。


 そうだ――。

 この姿でどこへ行けばいい? どこへ行ける?

 

 すると、近くのバス停から何人か降りてきて、春樹の方へと歩いて行く。


 多くの人間。

 見上げないと彼らの全貌を見ることが出来ない。

 犬から見れば、人間はここまで大きく、威圧的だったのか――。

 春樹はしみじみ思う。


「あ、そうだ。人間だったんだから会話が出来るんじゃないのか?」

 気が付いたように春樹はスーツの男性へと駆け寄った。


(助けてくれ。俺は人間だったんだ)

 心の中で叫ぶ。

 だが、春樹の口からは春樹が思う言葉は出てこない。


 聞こえるのは――ただの犬の鳴き声だった。

 自身にもただの吠えている犬の声にしか聞こえない。

 無論、男性にもこの声が聞こえているのだ。


「ん? どうしたんだ、この犬?」

 意味が分からない、そんな顔で男性は春樹を見つめると、すぐさまこの場から離れていく。

 春樹は呆然とその男性の背中をただ見つめていた。


(どうして、聞こえてないの?)

 隣に歩いていた女子高生にも話しかけてみる。

 今度はうるうるとした感じで。


 不思議と出た声が「くーん」と小さい鳴き声だった。


「あー、可愛いわんちゃん。どしたのー?」

 春樹を見るなり女子高生は甘い声でそう言うと、輝かしい笑顔で春樹の頭を撫でる。

 その仕草で彼女が犬好きだと言うことがよくわかる。

 だって、少し興奮気味なんだもの。


(ああ、良い匂い――って、違う。助けれくれ)

 うっとりしかけたが、そんな場合では無かった。

 春樹は首を左右に振る。


 一瞬、一生女子高生にわさわさされたい願望が生まれてしまった。


「あ、ごめん。もう行かないと電車に間に合わないから――ごめんね」

 ハッと気づいた顔で女子高生は春樹の頭から手を離し、急ぎ足で出入り口へ向かう。


 至福の時から現実へ。

 春樹は取り残されたように呆然と立ち尽くしていた。


「――はっ」

 一瞬、意識が飛んでいたことに気づく。


 今のでわかったこと。

 どうやら、他の人には俺の言葉は聞こえていないようだ。


 そりゃ、『人間』と『犬』だもんな。

 理由は明白だ。通じ合う言語が違う。

 確かに人間の頃も犬の言葉はわからなかった。

 それは逆の立場になっても変わらない。

 春樹は自然と納得した。


「とりあえず、家に行くか・・・・・・」

 大きくため息をつき、春樹は思い付いたように足を動かす。


 仮に俺が死んでいたとしたならば、俺の身体――遺体は実家にあるはずだ。


 ここからだと徒歩ならぬ犬歩なら三時間くらいだろうか。

 人間の頃であれば、タクシーを使うくらいの時間だ。

 それほど、この距離と時間はハードである。


 それも仕方ない――。

 春樹は慣れない足取りで実家へと向かった。


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