第39話 月光に叫ぶ

 玻璃の砕ける音がした。俺の伸ばした手の先で、麻酔液の小瓶が粉々に煌く。

 リリは瓶を握りつぶした右手をぞんざいに振るって溶液を振り落とすと、ハンカチで手を拭った。掌の傷が塞がっていく。

「あなたの考えることくらいお見通しです」

 鬼は俺の鳩尾をきつく蹴り上げる。俺はむせ返り、うずくまった。

「まだ分からないんですか! あなた一人っ、頑張ってみても! 無駄っ、なんですよ! あなたはただ、不都合な未来から逃げまわることしかできない! 真の強者は! 自分の抱く未来ヴィジョンを実現させる!」

 俺は地面に頭を垂れる。幾度も踏みつけられ、痛覚は擦りきれ、いつしか抵抗する気力すら失われていた。

「……もういい」

 俺は呟いた。「……はい?」リリが肩で息を付きながら、訝し気に聞き返す。

「……もう嫌なんだ。痛いのも、苦しいのも……」

 俺は膝を丸め、顔を掌に埋める。

「夢を見るんだ。毎晩、同じ夢を……。土砂の中から聞こえるんだ、お前は生きていてはいけない、何故まだを息している、なんのために生き続けているのだ、どうしてお前だけが死ななかったのか……。

 だから毎日、生きる言い訳を探して、そのためだけに生きてきた。なんで俺なんだ? なんで他の奴じゃだめだったんだ? なんで俺一人生き残ってんだ? ……そうだ。本当は分かってる。死ねばよかったんだ。死にたかった。皆と一緒に死ねたら良かった。誰もが、俺を置いていく。俺を通り過ぎていく。父さんも母さんもみんな、消えてしまった。僕を産んで、土砂に埋もれて、塀の中で、戦場で……。次は、誰が死ぬんだ? どうして僕だけが生きてる? 独りにしないでくれ! 殺して……、お願いだ、ぼくを………」

 リリは俺の額をそっと撫で、優しく囁く。

「よく考えてくださいましら君……、苦しんでいるということ……、それはあなたが生きていることの証明です。あなたが苦しむのは……、あなたが生きたいと願っていることの証拠です。生きたいという衝動と、生きていてはいけないという罪の意識……、その葛藤があなたを、苦しめている。これからは何も考えず、ただのうのうと生きていればいい。あなたは、私の傍でただ息をし、温かな眠りを共にし、時に泣き声をあげ、生きている証拠を、私に示しさえすればいいんです。お友達もたくさんいます……、皆私と一緒に、死ぬまで生きるんです」

「……みんな、いっしょに?」

「ええ。私があなたの傍にいます」

「ぼくは……、生きていてもいいのか?」

「私が赦します。前にも言ったでしょう? あなたに必要なのは、慈悲と禊。あなたを憐み、あなたを罰する絶対的な存在。あなたに信仰が必要というのなら……、私があなたの神様になってあげます」

 リリが優しく、俺の耳を塞ぐ。そうだ、もう何も聴かなくていい。どうせ悪くなる未来など、知らなくい方が、ずっと……。




『――まったく、笑わせるわね』


 見慣れた声が脳を刺した。


 なんだろう。俺は思う。耳をふさいでも、通り越してくる。いや、これは……、未来の音だ。脳に直接、響いているのだ。

 俺は目の焦点を合わせる。リリが手を離すのを感じた。ショッキングピンクの瞳が、射貫くように俺を、見つめていた。

「やっとこっちを、向いたわね。良い大人が子供の前で、駄々をこねるものじゃないわ」

「現実を受け入れことには苦痛を伴うものですよ、アテネさん」

「口が達者なのね、ドクター。でも貴方は現実を見せているんじゃない。諦めさせようとしているのよ」

 リリが毅然と答える。

「ただ息をしてそこに居るだけの人生なんて、夢の中に生きるのと変わらないわ。それはドクター、貴方が否定した生き方そのものじゃないかしら。結局のところ貴方がしているのは、歪んだ願望の押し付けにすぎないわ」

「どうでしょうね」

 リリが妖しく笑う。

「まあ……、自分の望みに素直なのは、咎める事じゃないわ。真白雪ましらそそぎ、あなたもそんな風に生きて良いんじゃないかしら。誰の許可も請わず、勝手に生き延びて、勝手に死ぬ……。貴方が私を、身勝手に救い出したようにね」

 アテネは鬼に向かって一歩踏み出す。

「私も好きにさせてもらうわ。たとえあなたが望んでいなくとも……、あなたを救い出す」

 鬼がアテネに向かってゆらりと近づく。「とどのつまり、エゴとエゴのぶつかりあい……。そういうのは嫌いじゃありませんが……、失敗作が、造り主に勝てるでしょうか?」

 アテネがぴくりと肩を震わせる。俺は、リリの背中に手を伸ばし、ゆらゆらと身を起こした。

「細胞の肥大化や意識障害を調整するのが難しく……、いくつも出来損ないの人猿を造りました。アテネさんもまたその一人……。身体能力と、一部の細胞増加だけが異常に促進されてしまった。髪の毛がやたらと伸びませんか? 不完全な獣化実験の結果ですよ」

 緑衣の鬼が拳を振りかざす。俺は背後から、その腕に武者ぶりついた。

「――操作盤だ! 操作盤を壊せ! アテネ!」

 俺はみっともなくリリにしがみつきながら、驚きに目を開いたアテネに向かって、根限り叫んだ。

「あの、銀色の函だ! リリの能力が外れれば……、地上の獣化も解除できるかもしれない! まだ間に合う!」

「あぁ見苦しいですよ! マシラ君!」

 リリが俺を振りほどこうともがく。俺は足をかけ、彼女を掴んだまま床に転がった。

「……無様でかまわないさ。君のお陰で、やっと気づいた。俺は、自分だけ生き残ったことを悔やんでいたんじゃない……。ただ、誰も失いたくなかった……、それだけだったんだ。だからこれ以上、何も奪わせはしない……!」

 決死の覚悟で作った隙を、アテネの駆けだした足音が埋めていく。鬼がその背を追いかけようとする。俺はリリの関節を満身の力で締め上げる。初めて会った時、リリが俺にかけた技だ。

「締め技……、考えましたね。再生されようが、動きを止められる……。でも良いんですか? この至近距離では、予知の恩恵に与れませんよ」

 リリは折れた腕でメスを突き刺した。予期していても、回避が間に合わない。そのまま俺の指の健を、刃が走る。腕の力が緩み、体勢が逆転する。寝技の動きは、やはり向こうが上手だ。

 リリはものの数秒で関節をはめ直し、『俺の顔面を潰す勢いで、拳を叩きつけた』。

 俺は無理矢理首を捩じって打撃を回避する。殴打は床を打ち抜いて皹を広げた。俺は情けなくもがき、暴れ、鬼を振り落とそうとする。

 鬼は俺の腕を外しにかかるが、俺は遮二無二振り払う。掻き立てた爪が鬼の肌を裂くが、それはあっという間に塞がってしまう。リリは息を弾ませ、俺の喉輪に両手を掛けた。

「良いですよましら君! 今までなんかより、ずっと死に物狂いです! やっぱり、自分の欲望に正直な人間は強い……! 先に、あなたから片付けてあげます……っ」

 リリは俺の首を全力で締め上げる。急速に酸素が欠乏していく。

 俺は全開の握力でリリの腕を折る。……が、砕いた傍から回復していく。

「生きようという抵抗を感じます……! 死に近づくほどに他者の生を実感する……。 あぁ……、今までで一番強く感じる。うっかり殺してしまいそうです……」

「殺ってみろ……。君はまた一人きりだ……!」

 俺は空気を絞り出す。緑の瞳が微かに揺れる。リリが一拍置いて、不器用に口角を上げる。

「ひとり? 独りじゃないですよ? 計画は成功したんですから。あなたも見たでしょう? 野風に変わっていく人々の姿を。私の家族……、私を温めてくれる家族……!」

「……君はずっと、境界にいたんだな。どちらにも属していて、どちらにも成りきれない。だから同じ境遇の人間を作りたいんだ! だが、この先に……、君の渇きを満たすものはない。誰も君と同じには、なれないからだ」

 振り絞った言葉に、鬼が怒りの拳を振り上げる。気道が開き、肺に空気が送られる。俺は力任せに鬼を殴り飛ばした。リリが床にもんどりうって転がる。

 俺は四つん這いになり、咳き込みながらも、思い切り酸素を吸い込む。死の瀬戸際だった。だが、何とか間に合った。

 リリは両手を床について、ゆらりと立ち上がる。

「あなたに、何が分かるんですか……?」

 いつもよりも小さくて頼りない影が、ひび割れたタイルの上に揺らめく。

「あなたは知っているんですか? 帰る場所も迎えに来る人もいない、墓地の片隅に置き去りにされ、誰からも見捨てられた子供の気持ちが……。私は、っ、私はただ、これ以上、冷たい骸の傍で目覚めたくなかった……! 自分と同じ体温を感じたかっただけだった……! それの何がいけないと云うんですか!」

 リリの拳に俺はよろめき、倒れる。

「そうか……。君も俺も結局は、孤独と寂しさを埋める方法を、探していただけなんだな」

 俺は膝を叩き、よろめきながら身を起こす。

「どうやら俺も君も、遠回りし過ぎたみたいだ。もっとシンプルで良かったんだ。……互いの望みが衝突したのなら――」

 俺は拳を構える。

「――勝った方の意見が通る。魔境スラム流だ」

 俺と鬼は向かい合い、同時に走り出す。『俺の心臓に、致命的な一打が迫っている』。俺には分かる。だが敢えて踏み込む! 相打ち覚悟、最短の一撃……! 先に届いたのは……、俺の拳だった。


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