第40話 愛は霧のかなたに

 顎が砕け、鬼の体は床の上を転がった。打たれた箇所は回復するだろうが、脳の揺れはすぐには収まらない。

俺は肩で息をしながら、リリの傍にしゃがみ込んだ。袖を探ると、思った通り赤く錆びついた鎖が出てきた。これなら緑衣の鬼グリーン・ゴブリンの膂力も、抑え込めるだろう。

「……この隙に首を刎ねないなんて……、とんだお人好しですね」

 リリが呻く。

「俺は、誰も殺すつもりないよ。これ以上、誰も失う必要はない」

 俺は窓の外に目をやる。電灯が明滅する。窓ガラスに反射して、肩で息をするアテネと、四片に散った銀盤の名残が浮かんでいた。眼下の土煙が次第に収まっていく。猿の大群がヒトに戻り、眠りについている。連合軍も戦いの手を止めていた。

「誰も失う必要はない、ですか」

 リリが虫の息で呟く。

「残念です……、ご期待には沿えません」

 彼女に素早く視線を戻す。床下から、爆音が炸裂した。

「何だ?」

 激しい倒壊音が反響し、足元の地面が音を立てて崩れ始める。「旧世代の仕込みか!」俺は「運び屋」の仕事でタワーに運び込んだ爆薬を思い出して、叫ぶ。恐らく、悪用防止と証拠隠滅のため、操作盤が不正操作されたり破壊された場合、展望台ごと崩落するよう、仕込まれていたのだ。そのトラップが今、数万年の時を経て、ようやく実を結んでしまったのだ。

 俺はとっさに鎖を飛ばし、鉄骨に絡みついたそれに、ぶら下がった。アテネを見る。アテネは崩落の範囲外にあった階段に滑り込み、難を逃れていた。

 風が吹き込んでくる。振り返る。視線の先で、リリの体が、コマ送りのように宙に浮かぶ。その影が、小さくなっていく。

 気付けば俺の手は、鎖から離れていた。

 自由落下だ。俺は思う。何もしなくていいが、何もすることができない。眩暈がするほど自由だ。……だが俺は既に一度落ちている。どうすればいいかは、もう分かっていた。

 俺は両腕を体に密着させ、空気抵抗を緩和する。落下速度が増して、リリとの距離がぐんぐん縮まっていく。

 リリに向けて手を広げる。その名前を、風の音に掻き消されぬように、叫ぶ。

 地面が近づいてくる。リリはもうすぐ目の前にいた。緑の瞳が驚きと、かすかな喜びに見張られる。

「ましら君、何故……?」

「君が俺を、追いかけたからだ!」

 俺は大声で答える。

「思えば君は、本当に回りくどい人だった。追いかけるのは追いかけられたいから。捕まえるのは、掴まえられたいからだ、そうだろ? だったらもう一度ここで、今、この場所で、手を差し伸べてくれ。今度は俺が、ちゃんと捕まえるから」

 俺は手を伸ばす。鏡写しのように、彼女もまた、手を伸ばした。……二つの手が触れる。

 ……その時ふと、そしてやっと、全てが繋がった気がした。俺たちは、ただの一人で生きているということ。誰かと同じになることはできないし、誰も自分になることはできないということ。それでも、どうしようもなく一人きりだということだけは、みな一緒だということ……。

 リリの手を引き寄せる。恐れることはなかった。共に堕ちていけばいいのだ。

 俺は彼女を抱きしめる。俺たちの体はまっすぐに地面へと吸い込まれていった。




 それはまさに吸い込まれるという感じだった。俺は着地の瞬間死を覚悟した。だがいつまでも無慈悲な終わりの音が訪れてくることはなく、代わりに柔らかな感触が全身を包んだ。

 無論、それでも衝撃はそれなりのもので、ほとんど意識が飛びかけたくらいだった。だがあの高度から落下して豆腐のように潰れなかったというのだから、奇跡としか言いようがないだろう。……いや、奇跡という言葉で片付けるのはよそう。物事には全て原因があるのだ。異常なほど衝撃を吸収する素材……。覚えは一つしかなかった。

 俺は地面を見る。思った通り、一面に緑色の草が繁茂していた。記憶にある。偽鬼の鎧に使われていた、あの植物……。これだけ繁茂させられるのは、彼しかいない。

「生きてる……」

 リリが呟く。全身の打ち身に体をこわばらせながら、俺は答える。「ああ。生きてる」

「これも計算のうち、ですか?」

 リリが俺の腕の中で尋ねる。「まさか」俺はかぶりを振りたかったが、一ミリも動かせなかった。

「モルグがやってくれたことだよ、多分。人生最後は運だな。もしくは日頃の行いだ」

「じゃあ、無策で飛び降りたんですか」

「考える前に、動いていたんだ。多分、同じ後悔を繰り返したくなかったから。それに、君を一人で、死なせたくなかった」

「馬鹿な人ですね、ましら君は」リリがくすくすと笑う。「呆れるほど愚かで、惨めで、おめでたくて、どうしようもなく可哀想な人。――でも、嫌いじゃないですよ。そういうところ」

「変わった趣味だな、君も」

 俺は言い返す。いつかリリが、俺に云った言葉だ。

「でも、良いんですかねぇ、正義の救世主メシアが、悪党の命を助けて」

 リリが俺の背中に手を伸ばして言う。

「それはもう、いいんだ」俺は静かに、どこか晴れがましく感じながら言う。

「結局俺は、特別でもなんでもない、一匹の猿でしかないんだ。それで十分じゃないか」

 どこからか、鳥の囀りが聴こえてきた。リリは答えない。ただ折れた俺の肋骨を、背面からなぞるだけだった。「痛いな」俺は叫ぶ。

「私、人の痛がってるところを見るのが好きでした」

 リリは俺の目をまっすぐに見据えた。彼女の瞳は、夜と朝の境界線上に、綺麗なグラデーションを宿して煌いていた。

「叫んだり、苦しんだり……、痛みを感じているのを見ないと、誰かが生きて私の隣にいるって確かめられなくて、不安になりました。多分、無反応な死体の傍で育ったから」

 彼女に触れる内側から、温かな体温が流れてくる。お互いの傷が、今たしかに塞がりつつあった。

 山間から近づく朝の気配が、薄く残る霧を抜けて、俺たちを包み込んだ。「じゃあ、気の済むまで感じてくれよ。生きてるって実感を」俺はリリをかき抱く。そのささやかで華奢な背中を、強く、強く抱きしめた。

「ふふ……、いたいです」リリが、小さく笑った。

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