第38話 猿猴捉月

「ましら君、こんなに怪しい装置が目の前にあったら、真っ先に破壊するべきですよ」

 リリは先の物々しい機械を操作しながら評した。見る限り手順は簡略……、俺もかつて『運び屋』として携わったから分かる。直感的に操作できるように設計されているのだ。

「と言ってもこれはあくまで操作盤のようなもので、この建物自体が兵器なんですけどね。電波塔を改造した、狂花帯の増幅装置……」

 操作盤から蜂の羽音のような唸りが聞こえてくる。俺の脳はまだ痺れている。

「この塔の使い方を理解するために、大陸を渡り歩いていくつも書物を漁りました」

 彼女は滔々と語りながら、硝子盤に掌を押し付ける。

「ここに針がついていて、私の血を吸っています。血液から遺伝子情報を読みとり、塔と体内の狂花帯とを同期させる仕組みです。塔は私の免疫器官と超細胞器官器官が発する信号を増幅し拡散する伝播装置としての機能を果たします。古代都市全域に私の能力が届くようになるわけです」

「拡散……。兵たちの負傷を治すため、ってわけでは、なさそうだな……」

「もちろん。彼らを戦わせたのは、野風の皆さんに血を流させ、ヒト族の警備隊にそれを浴びさせるためでした」

 リリはこともなげに言う。

「地上を見てください。野風の視力なら、肉眼でも確認できるでしょう?」

 俺はどうにか首を回し、戦場となった古代都市を眺めた。屋内戦を行っている部隊もあるが、増援を含めた多くの野風と警備隊は、地上で激しい乱闘を続けている。ニニギニミリが看守長を撲り伏せ、ユーメルヴィルがメルボルンの鞭を受け止めていた。

「ここまでが第一段階。第二段階はカミラタさんの発電器官を利用して、塔を起動させる電力を共有すること。準備は整いました」

 電力……。カミラタが最強種族と称される所以は、それか。古代兵器を動かすことのできる唯一の手段……。

「そのまま目を離さないでくださいねー。空気も澄んできて視界良好、お楽しみはここからです」

 リリは双眼鏡を覗き込む。

「何をするつもりだ……?」

 俺は彼女を取り押さえようと身をよじらせたが、頭を打った衝撃でまだ十分には動けない。窓の方向を向いたまま床に転げるばかりだった。

「じっとして。ほら……」

 リリが地上を指さす。窓の下では奇妙な現象が始まっていた。

 異様な光景。まず震え出したのは看守長の肉体だった。頬の血を拭ったニミリが、怪訝そうに彼を見る。続いて、若頭の腕の中で、メルボルンが悶えだす。警備隊の肉体が次々と暴れ出し、不気味にのたうつ。毛がよだち、生え代わり、骨格も歪に変形していく。

 彼らはモルグやボアと同じように、今まさにヒトから野風へと変貌を遂げつつあった。屋内も同様。連合軍は攻撃の手を止め、突然の出来事にただうろたえている。

 俺は呆然として阿鼻叫喚の地獄絵図を眺めた。

「何だよ、これ……」

「魔法ですよー」

 リリは悪戯っぽく声を弾ませる。

 突然の異常事態に戦場は一時的な停戦状態にもつれ込んでいる。大将も副将も不在……、指示を出すものはいない。次の一手に踏み出せない奇妙な静寂……。

 しかしそれも、ほんの束の間の均衡だった。

一匹の人猿が周囲の猿に掴みかかり始めた。つい数秒前まで看守長だった男だ。本能が敵を認める。恐怖が伝播したように、他の人猿たちも次々と周囲を襲い出す。辺りは野風ばかり。もはや敵味方の区別もつかない。戦場はますます血みどろになっていく……。

「お前のせいだ」

 頭の中に死んだ子供たちの影がさす。「なぜ生き残ったんだ?」頭を潰されたジンメルが叫ぶ。「なぜ俺ではなく、君が?」亡者たちが俺を苛む。毎晩、毎晩、夢に見る光景。

「あはは、この状況でまだ闘うんですねー。何人生き残るかな」

 リリが愉快そうに言う。俺はかろうじて息を吐きだす。

「……まだだ」

「はい?」

 彼女は不思議そうに問い返す。

「まだ俺には魔法がある……。未来に干渉できるなら……、時間を巻き戻すことだって……!」

「まったく、痛ましくて、目が離せませんね」

 リリが呆れたように言った。

「魔法なんてただの言い回し(レトリック)ですよー。あなたが身を以て知っている通り、狂花帯の能力は全て物理法則の範疇……。あなたの量子器官も例外ではない。そんな都合よく何でもできるわけないじゃないですか」

 俺は力なく呟く。「だが、魔法は狂花帯の力では説明が付かないと……」

 彼女は双眼鏡から目を離すと、緑の瞳に怒りを滲ませた。

「魔法なんてものはこの世に存在しません。神や魔法の正体は、無力な人間が己の常識を超えた現象に対して貼るレッテル、お粗末な解釈、願望、理想像、畏怖……。世界が説明不可能なものであってほしいという儚い虚妄、夢物語です。この世界が不条理なほどに合理的だということ、その事実から目を背けているだけ。残酷ですが……、しかしその無知がこういう結末を招く」

「だが……、なぜ俺と同じ能力の人間はがいない? 君の力はどう説明する?」

「量子器官の民族はほぼ絶滅しているんです。だから現代の人々は予知を見て魔法だと思う。教養さえあればすぐ分かることなのに」

 彼女は憐れむような眼で俺を見つめる。

「私の再生と膂力は……、レオニカ人の力です。レオニカ人は自身の技能を、筋肉を増大させるものと捉えられていますが……、あれは間違った理解です。本来の超細胞器官の力は細胞増殖……。正確に言えば細胞に増殖命令を出す能力です。再生にだって応用できる。でも皆、経験と伝承に頼って本質を見ようとしないから、そんなことができるとは思いもしない」

「なら、ヒトを猿に変えるのは……」

「レオニカ人とアリエスタ人の力の組み合わせです。私は2つの民族の混血ハイブリッド。免疫をコントロールし、あらゆる病気を打ち消すアリエスタの力、レオニカ人の細胞増殖の力。単純化すれば、野風の細胞をヒト族に移植し、拒絶反応を抑えながら増殖・結合させているだけにすぎない……。種を明かせばその程度の芸当ですよ」

 リリは自分の頭に手を触れて続ける。

「ついでに言えば、この小さな体も創意の一つです。最も効果的な変装はなんだか知っていますか?」

 リリの身体は、先刻屋上で感じた違和感の通り……、いつもより一回り小さくなっていた。背伸びしなければ俺の額に届かないほどに。

 俺は牢獄でのボアソナードの言葉を思い出して言った。

「……普段から変装した姿で生活すること」

「その通り。必要に応じて見た目を偽るのではなく、常に偽の姿の方を人に見せておく……。その方が無理が出ない。この小さななりこそが私の本来の身長です。細胞を増殖させて、日頃は身丈を大きくしている。これだけ身長が違えば、誰も鬼とは気づかない」

 リリは俺の傍に歩み寄り、しゃがみ込む。

「いい加減理解しましたか。この世界の森羅万象は全て時計仕掛けなんです。奇跡も魔法も存在しない。起こりうることしか起こらない。あなたたちの敗けです」

 俺は叫ぶ。リリは子供をなだめるように、そっと俺の頭を撫でた。

「あなたは大望を抱きすぎた。『猿猴が月に愛をなす』……旧世代にはそんな言葉があったそうですね。身の程知らずの願望に身を滅ぼすことの喩え……、あなたにぴったりじゃないですか? 凡夫は凡夫らしく、日々を事足れりとして生きていれば良かったんですよ」

「それは強者の論理だ……。理想を抱くことでしか日々を越えられない人間もいる」

 リリの袖が目に止まる。そうだ……。俺の中に希望が蘇る。あれならリリを止められるかもしれない。俺はそろりと腕を動かした。今なら少しくらい、動けるはずだ。

 俺は機を窺いながら慎重に述べる。

「……俺を殺すなら、せめて苦痛の無いうちに終わらせてくれ。あの香水をもう一度かけて……」

「ああ……、これですか」

リリは袂から麻酔液の小瓶をとり出した。俺の右腕が素早く動く。最後のチャンスだ……!

冷たい瓶の感触を、指に感じた。

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