第37話 幽鬼の塔

「ましら」

 だらりと垂れ下がった腕を、誰かが揺すった。「目を覚まして、マシラ・ソソギ」

 ショッキングピンクの瞳が俺を覗き込んだ。

「目を開いたまま眠ってるわ……」

「というより、金縛りに近い。麻酔の類でしょう」しわがれた声が耳に入る。「アテネ殿の催眠器官なら、解けるかもしれない」

「任せて。ボアの時で掴んでるわ……」首に手が伸びる。「お目覚めなさい」

 首元からじわりと温かい気体を流されたようだった。熱気はゆっくりと脳に到達し頭の靄が緩やかに晴れていくような感覚があった。……追憶の底に潜りこんでいた俺の意識は、再び現実へと浮き上がった。

 俺はふらふらと身を起こす。指を開いたり閉じたりして、感触を確かめる。

「ひとまず成功……、ね」

 俺の横でアテネがはにかむ。

「しかし、笑っている場合ではないようです」ボアがスペクトラを助け起こしながら言った。ぐったりとして小刻みに痙攣している。アテネがその首元に手を当ててやると、次第に安らかな寝顔になった。「痛みとショックは麻痺させたわ。……ここで何があったの?」

「アテネ殿は壁伝いに来ましたから、下の階の様子は見ていないでしょう」

 ボアが重たい口調で言う。

「ええ、ボアが入ってくるなって言ったから……」

「外からでも分かりましたからね。すすり泣きと、むせ返るような血の芳香……。戦場の臭いです。実際あの惨状は、先の戦争以来だ……」

 俺は眉をひそめる。「たしかに凄まじい悲鳴だったが……。そんなにも酷かったのか」

「久方ぶりですよ、善意から、殺してやりたいと思ったのは……。まさに生き地獄。察しは付きます。鬼が現れた。階下から誰かれかまわず蹴散らしながら、屋上まで上ってきたのでしょう」

「もっと酷い話だ」

 俺は弱々しく答える。

「鬼の正体は、彼女だった」

「彼女?」

「ドクター・リリパット。俺が必死に助けようとしていた人。まんまと踊らされたってわけさ。ヒトも、野風も」

「……れじゃない、俺のせいじゃない、おれじゃあいあ……」

 モルグの呟きが流れ込んでくる。焦点の定まらない目で彼はぼそぼそと宙にしゃべり続けている。「……彼は?」ボアソナードが尋ねる。

「モルグ亭の亭主だ。ボアソナードと同じ……、野風に改造された元人間。奥方を殺した罪の意識に、苛まれているようだ」

 モルグはぼんやりと宙を眺めてぶつぶつと呟いている。アテネが慈悲深い表情で、彼の瞼をそっと閉ざす。「……お眠りなさい」

 呪詛のように弁明を続けていたモルグの声は、びくりと体を震わせると、安らかな息遣いに変わった。俺はボアソナードを見て言う。

「ボアはモルグと……、スペクトラの様子を見ていてくれ。ここもまだ危険だ」

「ましら殿はどちらに?」

「リリを……、ゴブリンを追う。カミラタを使って何か企んでる……。まだ終わっていない」

「なら私も……」

アテネが名乗りを上げる。

「あの人には会いたくないけど……、隊長さんを連れて逃げるくらいならできるわ」

「良いのか? 助かるが……。カミラタは君を捕えようとしてたんだぞ」

「貴族の責任ノブレス・オブリージュよ。それに、世話焼きはあなたも大概」アテネは小さく笑う。「それに彼、特殊房によく来てくれたから分かるわ。悪い人じゃない。それで……、あては有るの? 彼女の逃げた場所に」

 俺は首肯した。「彼女があの鬼だとすれば……、何となく検討はつく」

 俺は空に向かって指を立てた。

「下の警備隊に何かが起こると言っていた。警備隊は戦闘の真っ最中で数も多すぎるし、まだ何の変化も無い。多分直接接触してどうこうってわけじゃなく、何か大がかりな仕掛けを用意しているはずだ。嗜虐趣味の鬼なら高みの見物をする。一番見晴らしの良い場所で」

 俺の指さす先には、雲をつく巨大な鉄塔が聳え立っていた。

 タワーの概観はかつての姿と殆ど変わらない。中ほどには展望台があってガラス張りの広大なスペースが広がっている。リリが居るとしたらそこだった。

「階段があるわね」

 外観を確認していたアテネが駆け寄ってくる。「外階段が上の広間まで続いてる。あそこから入れそうよ」

「階段なんていらない」

 俺はひらりと鉄骨に飛び乗った。

「裏手に入口がある。アテネは下のフロアからカミラタを捜してくれ。俺は直接展望台まで登って行く。リリを見かけたらすぐに隠れるんだ」

 鉄塔を駆け上り、霞の中を突き抜けていく。俺は地上を見下ろす。かなりの高さだ。落ちたらひとたまりもないだろう。

 連絡扉を開け、塔内に侵入する。辺りは夜の闇にすっぽりと包まれている。斜めに差した月明かりがぼんやりとした溜まりを作っていて、そこだけが明るかった。緑のローブを身にまとったリリが。地上を見下ろし佇んでいる。

「人が、蟻のように見えますね」

 硝子越しに都市を見下ろして、リリが呟く。

「霧が晴れてきました。朝が近づいてる証拠です」

「ここから兵を一望するつもりかと思ったが、読みが外れたな」

 俺は街を覗いて言う。

「この場所は高すぎる。ヒトの目ではかえって様子が分からない」

「そんなことはありません、便利な道具があります」

 リリは床から生えている妙な装置を叩いた。展望台に付き物の双眼鏡だ。だが、その下に大がかりな機械のようなものが繋がっている。明らかにオーバーテクノロジーな代物だ。

「旧世代人……、俺の時代の人間が作ったものか」

「……! 驚きましたね……。どういうことです?」

 リリは双眼鏡から目を離して尋ねる。

「俺は数万年前のこの街から、時間を超えてやってきたんだ。肉体に改造をほどこされてな。俺を含め改造人間は十二人……。多分だが……」

「……十二民族の始祖、ですか」

「察しが良いな」

 リリが興味深そうに目を光らせる。「私がどれだけの人体を解剖してきたと思ってるんですか。それぞれの民族と野風の遺伝子配列は見た目ほどに違わない……。そして教會に伝わる神話……、これらを加味すれば自ずと一つの仮説が立ちます。野風と十二の民族は本来一つの種族……、同じ人間だった」

「おそらくはな。野風はいわば第十三種族……、13番目の蛮族フライデー・ザ・サーティーンス。改造を施されなかった通常の人類が、数万年の時を経て退化……、否、進化した姿なんだろう。皮肉なことに、俺たち改造人間を『モンキーズ』と名付けた人間たちの方が……、猿になってしまったというわけだ」

「ふふ……、やはりあなたは期待以上です。まさかその旧世代人だったとは……。大量の野風を束ね、ここまで連れてくるという所までが、私の思惑でしたが……、それを越えてくれましたね」

「全ては仕組まれたこと、か」

 俺は眉根を寄せる。

「目的は何だ? ただヒトや野風を傷つけるだけならいつでも出来たはずだ。なぜわざわざこんな辺鄙な場所で戦争させる必要があった」

「家族をつくるためです」

 リリは淡々と告げた。

「家族……?」

「ええ。皆さんには私の家族になってもらいます。そしてこの街で死ぬまで私の傍にいてもらう。すぐに分かりますよー」

 俺は両腕を開いて、腰を落とした。

「分かった時には手遅れんなんだろ」

 リリがこちらに向き直る。緑の眼差しが突き刺さる。俺は獣のように両手を床につき、毛を逆立てた。

「君とは戦いたくない」

「捕食者を恐れるのが本能ですから」

「違う。君を傷つけたくないんだ」

 リリはひらひらと手を振る。「傷つきませんよー、治りますから」

「君は勘違いしている。傷口は塞げても擦り減った心は戻らないんだ」

「面白いことを言いますね」

 窓の外を指さす。

「彼らを見ても同じことが言えますか? 神だの魔法だの……、信仰、夢、理想、そうした魔酔で現実に蓋をし続ける。いくら心を救っても、現実を変革しないかぎりどこかで破滅が訪れる」

「違う。彼らは現実に抗っている。現に彼らは貧民街を統一してみせた。幻想はそのための原動力にすぎないんだ」

「見解の相違ですねー」

 リリは肩をすくめた。

「それで、どうします? 闘いたくないなら……、無抵抗で吊るされますか」

「そうもいかない。君を止めてこの戦を終わらせる。そうすれば現世に帰るまでもない。俺は英雄の人生を手に入れることができる。やっとこの重荷を下ろすことが出来るんだ」

「あは、笑えますねー」

 リリは憐れっぽい眼で俺を見る。「空っぽの言葉ほどよく響きますね。欺瞞だらけの願望では、私を止められませんよ」

「俺は本気だよ」

「どうでしょう」

 リリはくすくすと笑う。

「……どうやら分かり合えないようだな」

 俺は牙を剥きだして唸る。リリは目を細める。

「力づくではそのジレンマは消えませんよ? もっと素直に生きればいいんですよ。つまらない価値観に縛られて、身の丈に合わない期待に振り回されて、右往左往してばかり。浅はかで、惨めで、愚にもつかない。まあ、そこがいじらしい所でもあるんですけど……」

 リリはうっとりと片頬を撫でる。

「飼い殺しにしてあげますね」

 リリの腕が敏捷に動く。広がった袖口から鎖が飛び出す。

『金属音は聴こえていた』。俺は鎖の上を跳躍し間合いを詰める。至近距離なら長物は扱いづらい。メスの投擲も防げる。

 着地の隙を狙って、右の裏拳が胴を襲う。俺の右脚がそれを跳ね上げる。そのまま逆脚の回し蹴りに繋げる。爪牙は使えない。スペクトラの例がある。

 リリは鎖を広げて蹴りを受け止める。そのまま鉄縄で足を縛ろうと動く……が、俺もそれは読んでいる。素早く足を引き抜き、体勢を立て直す。

「腕、上げましたねー」

 リリは鎖を袖に仕舞いながら言う。「音を立てる武器は予測されますね。素手で相手してあげます」

 即座に拳が飛んでくる。鳩尾を狙った精妙な一撃。いなす。すかさず鬼の連撃。『頸部、右腕うわん、眼球、膝頭』、全て分かる! 風を切る音だけで、どの部位への攻撃か正確に推測できる。俺の予知は修行を経て、かつてないほど研ぎ澄まされていた。

 初動を潰し、攻撃の経路を反らす。隙の出来た彼女の額を狙う。『空を撫でる音』、つまりは躱される予感……。俺は咄嗟に胴への攻撃へと切り替える。

リリは素早く左腕でガード。硬い! 鋼のような肉体だ。

「いたずらに筋骨を増やしても限界があります」

 リリは蹴打を打ち抜きながら言った。

「レオニカ人は無暗と筋肉を盛りたがる傾向にありますが……。彼らは力の出し方を履き違えてます。増強した筋組織は、凝縮し、超高密度の筋繊維に依り集めるのが一番良い。一撃の『重み』が段違いです」

 俺は大きく身をひねる。リリの拳が壁を砕いた。

「打擲の衝撃を高めるためには、腕の筋肉だけでは不十分です。身体の動きは連動している。どの部位を強化するべきか正しく把握すれば、しなやかで力強い動きが可能になります。膂力も飛躍的に向上する……!」

 右ストレート、肘撃ち、逆蹴り。俺が躱した彼女の攻撃は全て壁や床のコンクリを打ち抜いた。彼女の骨も砕けているはずだが、瞬時に再生している。攻撃に遠慮が無い……!

 だがそのぶん大振りだ。俺はジャブのフェイントを入れる。同時に聴覚予知。当たるなら打ち抜く、外れるなら足技に切り替え……。

 ぱっと辺りが明るくなった。……朝日か? 不意を突かれ、俺の攻撃がわずかに緩む。鬼はそれを見逃さない。腿に一撃もらう。

 ぐらつく姿勢でカウンターを放つ。よろめきが功を奏し、鬼の死角に入る。……だが、リリの髪に触れた途端、俺の攻撃には迷いと隙が生じた。

 顎を砕く強烈な一打! 俺は窓枠の鉄骨に叩きつけられた。

「甘いですよー、私を殴る覚悟も出来てないなんて」

 脳が揺れ、身動きが取れない。リリは俺を見下ろす。

 ……追撃は無い。決着がついたのだ。

「運にも見放されましたねー。この灯り……。そろそろ稼働する頃合いだと思ってました」

 俺は不規則に息をつきながら、目を上げる。眩しい。陽光ではなかった。タワーの内部灯に光が灯されたのだ。

「時間ですね……。古代兵器が動き出します」

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