第36話 白い記憶(ホワイトアルバム)
「……くん。
トラックの揺れの中に、俺は目覚める。瞼をぱちぱちと重たく上下させる。先輩の手が肩に触れているのが分かった。俺は車窓から景色を確認する。天に向かって延びる5本の電波塔が見える。その中でひときわ小さく、足場と布幕に覆われた東京タワーが、みすぼらしい赤い灯りを湛えている。
「……すいません、寝てました」
「いいよ。……もう着く頃合いだよ」先輩はハンドルを握りながら答えた。縦横に並んだ高架橋が生み出す陰が、先輩の額を灰色に染めていた。
「いや、でも雪くんが寝てるところ見て安心したよ。ほんといつ寝てんのって感じだったから……。今月何連勤だっけ?」
「……16連勤です」
先輩は嘆かわしそうに軽く呻いた。信号で車を停止させ、移動式歩道を流れる人の群れを見送る。
「先輩はもう上がりですか?」
「うんにゃ、君を送ったら1時間ばかし休憩して……、一件こなしたら上がりかな」
「本社ですか?」
「いや、研究所」
先輩は欠伸をして答えた。時刻はもう22時を回っていた。
「そもそもさ」緑(あお)い光を見て、先輩がアクセルを踏みなおして聞く「君みたいな国立の学生が、どうしてうちみたいな『運び屋』の『インターン』に参加してるわけ?」
「仕方ないですよ。戦争の余波でどこも採用が打ち切り……。時代が悪かった」
俺は窓の外を見て答える。
「まぁ、うちみたいな『ほぼ非合法組織』の見習いさえ黙認されてるんだから、狂ってるよね今の世間は」
先輩はこの世の終わりのような長めの溜息をつき、ハンドルをばしばしと叩く。
「見なさいよこの車、今時手動操縦なんて見たことないでしょ。正規品じゃないのよ。足が付かないように闇で仕入れた車使ってるの」
「じゃあ事故らないでくださいよ。足が付くから」
「はは、まぁ事故起こせる車なんてこいつくらいかもねぇ」
先輩は自嘲気味に笑う。それから荷台に目を走らせて言う。
「——今日の現場見ても分かったでしょ。私らが出入りしてる施設は、どれも
「……ほんとにこんな場所(とこ)で良いの?」
先輩は人気のない公園の前に車を止めて尋ねる。
「もう夜も遅いしさぁ、家まで送ってくよ?」
「いえ。今日は……」
俺は公園の端に手向けられた花束を見て口ごもる。
「ああ……、今日だったか、命日……。ここ、あんたの孤児院だったんだね」
「もう、跡地ですけどね」
俺は伏し目がちに言った。
「まだニュースを覚えてるよ……、痛ましい事故だったね、土砂災害なんてさ……」
先輩は俺に憐みとも慰めともつかない視線を送る。
「悪い事言わない、真っ当な企業に就職しなよ。普通に生きていくのが一番有難いんだ。でないとあんたの家族が浮かばれないよ……」
走り去っていくトラックの赤い光を遠くに見る。「……浮かばれない、か」俺は花束の前にしゃがみ込んだ。「ごめんなぁ」
今日で10年か。俺は手を合わせながら数える。孤児院の仲間や先生が逝ってから、もうそれだけの時間が経つ。歳月は俺の肉体を絶えず大人の世界へと押し流すが、俺の心はまだこの場所に立ち止まったまま彷徨い続けていた。
「皆の分まで『特別』になろうと努力してきたけど……、どれもものになりそうにないよ。俺ももう22だ。自分に大した才能が無いことくらい、分かる。どころか、世の中はどんどん悪くなって、まともな仕事にすらありつけそうにない。……このまま生き続けても、生き残っただけの価値なんて見出せそうもない」俺はぽつりと呟く。「……俺、生きてる資格あるのかな」
公園の横を、銀色のトラックが走り抜けていくのが見えた。俺は自分の乗っていたシートの感触を思い出す。「……唯一事故を起こせる車、か」
山道を抜け、木々に囲まれた研究施設の前に辿り着いた。道はろくに舗装されておらず、喧噪の欠片ひとつ寄り付かない。こんな所に建物があることすら、外目にはわからないだろう。
門の外では、麻酔銃を片手に持った守衛らしき男が、目を光らせている。やはり後ろ暗い所のある施設なのか、警備の物々しさが異様だった。だが、もはや今の俺にとって、そんなことはどちらでも良いことであった。
前照灯が路地をほのかに照らす。門が開けられる。『運び屋』のトラックが、勢いよく走り込んでくる。ぼんやりと先輩の顔が浮かんだ気がした。
膝に付いた土粒を払い、立ち上がる。擦り切れた街灯の明りに、夜光虫が群がっていた。俺は眩しい光を求めて、ふらふらとヘッドライトの中に飛び出していった……。
——激しい衝撃。草いきれのする石道の上に、俺の肉体は投げ出された。遠ざかる意識の中で、夜空にはただ黒々とした穴がぽっかりと開いているばかりだった。無数に散らばっているはずの星の光を、一つ残らず街のネオンが掻き消していた。唯一浮かんだ小さな月だけが、そこに確かに存在し、眩しかった。
俺はゆっくりと瞬きする。意識が切れ切れになって行くのが分かった。「——運び込め」守衛の舌打ちが朧気に聞こえる。「ここに救急車など呼べると思うか。……孤児? 好都合だ。誰もこいつを探さない」
もう一度、瞬きする。景色が変わっていた。麻酔を浴びたような朦朧とした感じだった。身体の自由が利かず、感覚もなく精神だけがふと浮上してきたような気分だった。厳めしいライトの下で、術衣を来た連中が動き回っている。執刀医のような年老いた男が、俺を覗き込んだ。
「おめでとう
術衣の老人が狂気じみた光を目に宿らせ、にたにたと笑う。
「今から君に埋め込んだ『量子器官』の出来栄えを確かめさせてもらう。快適な未来への旅を、楽しんでくれ給え。戻ってきた時……、君は我が国に勝利をもたらす、英雄になるだろう」
俺の肉体と精神は七色の四次元空間の中を彷徨った。視界が千切れ、音は五線譜の上をめちゃくちゃに飛び回った。球体の鏡の中に閉じ込められたような、中毒者の白昼夢のような夢幻の世界を狂奔し……、何万年もの歳月を飛び越え、いつしか俺は、古びた廃虚の街に立ち尽くしていた。
俺は掌を見つめる。肉体も、衣服も、見た目には変化なかった。それからぼんやりとあたりを見回す。……実験は、失敗したのだろうか。そこは東京の街並みによく似ていた。だが……、全てが荒廃していた。俺は理解した。実験は成功した。俺だけではない、12人全員。戦争は次のステージに進んだ。そして世界は……、滅びたのだ。
「あら?」
廃虚から、緑の人影が見えた。緑衣に身を包み、長い銀髪を乾いた風にさらした緑の瞳の女が……、俺の目の前に現れた。
「こんな禁則地に光が……と思って来てみれば……、どちら様かしら。どこから入ってきたの?」
彼女は俺に近づき、興味深そうな表情で覗き込んでくる。「俺は……」口ごもる。なんと説明すればよいのだろう?
「ああ、その目……」彼女は俺の瞳の中に自分を写した。「素敵。あなた、迷子なんですね」
俺はその時初めて、彼女の手が紅く湿り、何か……、湿った肉塊のようなものを握っていることに、気付いた。だがそれに目を止めた時には、既に彼女の指先は、俺の体を貫いていた。
「……ちょうど、被検体を探していたんですよー。先日、やっと試作品が上手く仕上がったところで……。あなたは、きっと第一号の完成品になってくれます」
俺は遅れて沸き上がって来た激痛に、叫びを上げた。肉体が内側から灼熱で覆われていくような、細胞が沸騰して塗り替わって行くような感覚があった。筋肉が隆起し、固い毛が伸び出し、脳が衝撃に震盪し前後の脈絡を失っていくのが分かった。
俺は訳も分からず彼女を突き飛ばすと、本能のままに街を飛び出した。彼女が追いかけてくる気配を背後に感じていた。生き延びなければ。生きて還らねば。ただその一念だけが俺を駆り立てた。
やがて透明な硝子のような樹々にあたりが覆われた。既にそこがどこなのか、どうしてそこにいるのか、誰に追われているのか、俺には分からなくなっていた。
俺は木の根に躓き、地面を転がった。その上を、緑の拳が通り抜けた。
勢いよく樹の胴が弾け、木片が水晶のように霧散した。
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