第35話 トリップ

 その瞬間、二番目に行動を起こしたのはカミラタだった。だが最も迅速に動き出していたのはリリだった。

 稲妻が空を掻いた時には、既にリリの半身はそこになく、上体を素早く倒しつつ右手を振り抜いた後だった。遅れて、カミラタの声にならない叫びが続く。

 カミラタは激しく震える手で左目を押さえている。指の間から細長いメスのが覗く。

「さすがに判断早いですねー。でも……」

 次の投擲は既に終わっていた。リリの指から繰り出されたメスはカミラタの最後の光を奪っていた。カミラタの喉から搾り上げたような音が吐き出される。

「……見えなきゃ当たらないでしょう」

 スペクトラはその数瞬を見逃さなかった。リリがカミラタに注意を向けた瞬きの間に、彼は臨戦の構えを取り戻し、急所目掛けて爪撃を打ち出していた。肉を裂く音がして、鮮血が跳ねる。

 スペクトラの顔が驚きに歪む。

「頭を的にしたのは賢明ですね」

 リリはカミラタから視線を外して言う。スペクトラの拳を横顔の前で掴んだまま、彼に振り向いた。

「再生持ちには即死狙い。対応が柔軟ですねぇ。経験の厚みを感じますよ」

「お前のような化け物の相手は、初めてだがな」

 スペクトラは握り込まれた拳を震わせて答える。彼の爪はリリの掌を貫通し朱く染まっていたが、その額の数センチ手前で停止していた。

「気のせいか? いつもより萎縮して見えるぞ」

「縮んでますからねー。身体っ」

 リリは彼の軸足を即座に踏みつけると、同時に掴んでいた手を手前に引き下ろした。流れるように膝蹴りが飛び出す! スペクトラの体が跳ね、フェンスまで吹き飛ばされた。

「大した反射」

 リリが手を叩く。スペクトラは窪んだフェンスからむくりと起き上がった。足蹴を受け止めた右腕が捩れている。「膂力はレオニカ人の族長に引けをとらないな……。だが瞬発力はこちらがやや優る。次の攻撃は左手じゃ済まさん」

「あは、これですか」

 リリは左手をぶらりと振った。既に傷口は塞がっている。「当たってあげたんです」

「負け惜しみも、今……」スペクトラの影が揺らぐ。

「っ……?」

 スペクトラは突然仰向けに倒れると、牙を剝きだして喘いだ。顔面が引き攣り、激しく胸を掻きむしる。「あらあら、可哀想」リリが散歩でもするように歩み寄る。

「さっき手を握った時です。あなたの免疫抵抗を、無理矢理引き上げました。爪から入り込んだ私の血液に、身体が過剰反応してるんです」

 リリはスペクトラの前に屈み、その悶絶を嬉々として眺める。

「苦しいでしょー? 拒絶反応で死の半歩前まで行きます。頑張って耐えてくださいねー」

「……何故ッ、こんぬ……ぁ、ごど……っ!」

 スペクトラは地面にがぶりと血の泡を吐いた。

「わぁ、まだ喋れるんですねー。さすがは苦難の民族だ」

 彼女は緑の目を光らせて、あっけらかんと笑った。

 スペクトラは応じない。虫の息を吐きながら、呪い殺さんとばかりにただじっと鬼の首をめつけている。「痛すぎて聞こえてない?」リリが小首を傾げる。

「——いい加減にしろ!」

 屋上の隅から声が上がる。リリはくるりと振り返る。モルグだ。恐怖に痙攣する膝を叩いて吠える。

「あんた何がしたいんだ! ヒトも野風も弄んで、こんなっ……、全部あんたの仕業なのか?」

「そうですよー」リリは朗らかに両手を広げる。

「誘拐も闇討ちも、手紙のすり替えも、みーんな、私です。グラムシさんの脱獄や偽鬼の出現……、いくらか想定外の事態もありましたが、その辺は直接介入して修正しました。概ね台本通りですねー」

「なら、どうして妻を殺す必要があった……!」

 モルグが唸る。「妻?」リリは人差し指を顎に当て、怪訝そうな表情をする。それから合点がいったというように掌を打ち、冷笑を浮かべた。

「あー、その件ですか……」リリは乾いた声でけらけらと笑った。

「何笑ってんだよ……! あんたのせいで、あいつは……っ!」

「失礼、あまりに痛ましいもので……。ふふ、殺したのはあなたでしょうに」

 リリはぱかりと口を開けて言い放つ。憐憫が口の端から零れ落ちているかのような表情だ。

 モルグの表情が凍りつく。

「は……?」

「いやぁ、あれは傑作でしたー」

 リリはモルグの前を素通りしながら、眩しいものを見たように目を細めた。「あなたを被検体に選んだのはただの気まぐれでしたけど、期待以上のものが見れましたよ。『人猿』の変態直後は意識が混濁するので、私はその隙に窓から逃げて、遠くから観察してたんですけどね。あなたが奥さんに発見されてからの混沌ぶりは、それはもう酷かったですよー」

 モルグの顔が、何かを思い出したようにみるみる色褪せていく。「……ちがう」

「なんですか?」

 ぶるぶると唇がわななく。彼は頭を掻きむしった。「違う……、ちがう俺じゃない! 俺はやってない! 殺してなんかいない!!!! そんなつもりなかったんだ!!!!」

「あはは、見事なものでしたよ。頸の骨を一握り。部屋に見知らぬ猿を見つけた奥さんが怒鳴る、その瞳に映った自分を見て、今度はあなたが半狂乱になって……、譫言を叫ぶ。気づいたら首を絞めてるんですもんね! あれには身震いしましたよー」

 モルグの顔面が蒼白になる。体を折り曲げると、床に向かって激しくえずいた。

「ロマンチックですよねぇ。きつく握りしめた掌の中で、愛する人の鼓動を感じる……。まぁ激しすぎて、数秒でへし折っていましたけど。あれは一寸ちょっといただけないなぁ。命を奪うのはナンセンスですよ。生きていてこそ意味があるのに……」

「もう、良いだろ! リリ……!」

 俺の喉はやっと声を吐くことに成功した。彼女は興を削がれたというように唇を尖らせる。

「邪魔しないでくださいー。ましら君にも無関係じゃないんですよ?」

「なに……?」

「お友達のジンメルさん、でしたっけ? 彼が死ぬ原因を作ったのは、誰だと思います? この人ですよ。獄舎で耳にはさんだあなたたちの脱獄計画をグラムシさんに流し、結果的に彼を拷問へ、死へと追いやったんです。そんなことをすればジンメルさんがどうなるか、分かってましたよね?」

「ち、ちがう……、殺されるなんて思ってなかった……! 俺は関係ない、俺の所為せいじゃない……! 俺は、っ……」

 モルグは苦悶の表情で両目から涙を流しながら、哀願でもするように地べたに頭をこすり付けた。リリは満足げに彼を眺め、それから俺に視線を戻した。

「試作品にしては、彼はよく踊ってくれました。でもやはり私のお気に入りは……、ましら君、あなたです。どうですか? 死にかけと発狂寸前のお仲間を指を咥えて眺める気分は? 無力なあなたにぴったりの役割でしょう?」

 スペクトラは目玉が飛び出るほど眼を見開き、床に爪を立てている。俺は身をよじろうとするが、身体が言うことを聞かない。

「こんなのは本当の君じゃない。君は平然とこんなことを出来る人間じゃ、ないはずだろ」

「あら、さっきも言ったじゃないですか、私は平気です。それに……」リリは冷たい流し目を送る。「あなたが私の何を知ってるんですか。妙な力に目覚め、救世主だなんだと崇められて、神様にでもなったつもりでしたか?」

「違う、神になんて用は無い。ただ俺は……、何でも良かった。救世主でも、英雄でも、『特別』に成れるなら。俺には生き残った意味があったと、証明したかっただけなんだ!」

 リリは何かを期待するように俺の言葉を待つ。が、俺は二の句が継げない。

 彼女は溜息をついて踵を返した。

「じゃ、私次の段取りがあるので行きますねー。カミラタさんはまだ役目があるので、連れていきます」

 手探りで出口まで這っていたカミラタの顔に先ほどの麻酔液を吹きかけると、リリは脱力した彼を軽々と担ぎ上げた。

「発電器官も体の一部ですからねー。これをかがせると放電できなくなるんですよ。逆に原液を飲ませて、強めの幻覚で暴発させるって使い方もできるんですけど……。……そうそう、この麻酔、うちの庭の花を調合したものなんですよ。見覚えあるかもしれませんね?」

 庭先の痺れる花……。覚えがある。俺はせめて目で訴える。

「待ってくれ、リリ、話を……!」

「ましら君はそこにただ這いつくばっていればいいんです。寝返りがうてるようになったら……、下の警備隊が見物みものですよ」鬼は振り向き、口角を上げた。「では、また会いましょう。次はあなたの本音が聞けたら、嬉しいですよ」

 リリは踵を返し、霧の中に消えていく。

 視線の先、塔の先端が見えた。夜が更け、上空の靄が消えつつある。塔の全貌が、次第にはっきりと見えていく。

 ……赤い塔だ。鉄骨が連なって、先端に行くほど先細る。中部は白く、どこか懐かしい……。俺は目を見開く。

「嘘だ……、そんな馬鹿な……!!」

 だがそれは見間違いではなかった。俺は束の間、辺り一面の惨劇すら忘れ、愕然とした。

 目の前には、空を突き上げるようなあの東京タワーが、聳えていた。

「……『猿の惑星』」

 俺はぽつりと呟き、理解する。これは異世界転生ではない。時間旅行タイムスリップなのだ。

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