第31話 開戦の火蓋
日が落ちてまた昇り、もう一度傾きかける頃には、スラムの中央街道にかつてない人混みが出来上がっていた。ゆうに千人は超えている。各勢力の有志の者が集い、ざわめき、静かな熱気をくゆらせている。
空は燃えるように赤い。夕映えに染められた貧困街の住人たちは、いつもより血を騒がせているように見えた。それぞれに支給された馬も荒く息を吹き出している。
「すごい野風の群れね」
路の外れで義勇軍を眺めていると、アテネがやってきた。「お前も参加するのか……」俺は馬から飛び降りた。
「前線には付かないわ。ドクターの捜索隊として加わる。正直、鬼の事は怖いけど……ここで貴方への借りを返す。貴族としてね」
「俺は、後方の包囲部隊として参加します」モルグが近づいてきて、手を挙げる。「俺に鬼を倒す力はありませんが……、何らかの形で奴の討伐に尽力したい」
「仇は俺たちに任せろ」
俺は彼の肩を叩く。前線の一軍を束ねる身として、責任は重い。
「私を忘れてもらっては困りますな」アテネの背後から、蒼い毛の野風が覗く。
「ましら殿とは、戦場で肩を並べることになりましょう」
「ボアソナード、動いて平気なの?」
アテネが彼を気遣って尋ねる。アテネの催眠を手を変え品を変え試し続けた結果、ボアはやっと意識を取り戻すに至っていた。まだほんの数日前のことだ。だがボアは快活に笑い、肩を回す。
「むしろ力が有り余っているくらいですよ。若返った気分だ。野風の体も、存外悪くありませんな」
俺は少し安心する。老体に変わりは無いが、思ったより元気そうだ。
「にしてもよく、こんなに集まりましたね」
モルグは周囲の喧噪を見渡しながら、感心したように独り言ちる。大貧民街のほとんどの戦力が結集しているのだ。
「一連の抗争で、どの勢力も兵は招集されていたからな。鬼もそうだが、警備隊に恨みを持つ者もいる。相手は古代都市周縁部を防衛する一中隊にすぎないけどな」
「それに、古代都市はそれなりの広さと数の遺構だからね。これだけの兵が居れば包囲網を作るのにも都合がいい。この一戦で確実にドクターを助け出し、鬼と対峙できる」
騎乗したニミリとメルヴィルが輪に加わる。馬の数の関係と、目立つことを考慮して、出陣は三段階に分かれて行われる。先発の第一隊。これは既に出発していて、徒歩で先行してひっそり遺跡群の裏に回る。第二隊の騎馬隊は前面の包囲と突撃に別れ、鬼の確保を狙う。戦闘の要だ。遅れて到着する徒歩の後発隊が包囲を完成させつつ、リリの捜索に当たるという算段だ。
訳知り顔で説明するニミリに、メルヴィルが尋ねる。
「随分と詳しいじゃねえか」
「西面も色々と悪企みしててね。旧世代の魔法によって腐食を免れた、色硝子の樹海奥地の遺構群。中でも完全な状態で保存されている大鉄塔は、古代兵器としての力を今も留めているとか……。結局、動力源の問題で、俺たちには動かせなかったがね」
「手つかずの文化財か」俺は腕を組む「アジトにするにはもってこいだ。それに古代兵器……、緑衣の鬼は何を企んでいる……?」
俺の疑問は広場の歓声にかき消され、宙に霧散した。俺たちは群衆の真ん中に視線を寄せる。中央の禿げた木の上に上ったドストスペクトラが、進軍の演説を始めるところだった。
「諸君、お集まりいただき感謝する。貧民街大同盟軍・聯隊長の、ドストスペクトラだ」
ざわついていた辺りの僧兵たちが、口を閉ざして聴き入る。
「突然の招集にこれだけの人数が集まってくれたこと、そして勢力の垣根を超えたこの大連合軍が実現したことを、誇りに思う」
ドストスペクトラの声が紅の空に木霊する。
「我々はこの半世紀、互いに血を流し続けてきた」
僧兵たちが互いに視線を走らせる。隣の野風は昨日まで敵対していた連中だ。
「だが同胞を傷つけ合う時代は終わった。我々は今、新たな座主のもとに、かつての野風の連帯を取り戻しつつある。この戦いはその礎となるだろう」
スペクトラは二本の指を宙に突き出した。
「今回の作戦の目的は二つ。第一はドクター・リリパットの捜索及び救出、第二は緑衣の鬼の捕縛! 変身を解除する方法を聞き出すため、生け捕りが望ましい」
その後は俺たちの領分だ……。グラムシの取り巻きたちが拳を鳴らす。
「危険を伴う任務だ。しかし、ここに暮らす全ての住人のために、我々は行動を起こさなくてはならない」
太陽が山間に隠れる。逃げ遅れた幾筋かの斜陽を残して、夕闇が広がっていく。
「先の大戦から数世紀、猿たちは人間の圧政に敷かれてきた」
広間の猿たちが肯く気配がした。
「数度にわたる猿人戦争での敗戦……、我々の祖父は、痩せ乾いた大地に押しやられ、資源を奪い合い、いつしか苦難に堪えることが我々の闘いになっていた」
スペクトラは手を握り固める。夕間暮れの中で表情は分からないが、その声はいつになく熱を帯びていた。
「そして今! 新たな外敵が、我々の慎ましやかな生活すら脅かそうとしている! この戦は反撃の狼煙だ。我々がただ一方的になぶられるだけの存在ではないことを、外の連中に知らしめる日が来たのだ。諸君! 我々は神に選ばれた一族! 万物の霊長、旧世代人の真の血統だ! 我々には救世主(メシア)がついている。一人の悪鬼など恐るるに足らぬ!」
彼は天高く拳を突き上げた。
「鬼退治だ!」
群衆から地鳴りのような勝鬨が上がり、辺り一面茜色の空気を揺るがした。スペクトラは木から滑り降りると馬にまたがり、勢いよく駆けだした。「続け!」
騎馬隊が後を追って、スラムの外門に雪崩れ込む。
俺は騎乗して馬に鞭をくれると、彼らの群れに勢いよく飛び込む。戦いの火蓋は切って落とされた。
スラム街から古代都市までの距離は馬なら数時間程度、猿の健脚でも半日程度だが、城下街を迂回して向かう必要があった。警備隊の目が光っているからだ。別にヒトの街を襲撃するわけではないが、これだけの人数が一度に動けば必ず騒動になる。古代都市までは目立たず行動したかった。鬼に気付かれない内に包囲網を築き、夜襲を仕掛ける。ちょうど今は濃霧期で、スラムより東側の王都近郊には深い霧が立ち込めている。隠密行動には適している。リリを捜すには不都合にも思えるが、朝には一時的に晴れるらしいし、幽閉されているなら恐らく屋内だ。支障はない。
「あまり先行し過ぎるなよ」
俺は馬の間を縫って、先頭まで行き着いていた。左手に並ぶ木立が滑らかに流れていく。並走しながらスペクトラが警告する。
「どのみち突入は包囲が整ってからだ。あなたを先発隊に入れなかったのもそのため……。足並みを揃える必要がある」
「……分かってるよ」
俺は奥歯を噛み締めて、その間から声を絞り出した。スペクトラは無言でこちらを一瞥した。
「……先発隊はもう着いた頃かな?」
俺は森の方を見ながら尋ねる。馬を使えない分、徒歩部隊は森のルートを使っている。市街地を突っ切るよりは時間がかかるが、こちらの街道ルートよりも近道だ。
「さすがにまだだろう。心配するな、先行部隊の指揮はあの外道法師だ。ヘマはしない」
先発隊は法師率いる、北面の部隊だった。一足先に到着して背面の包囲を広げつつ、古代都市の概観を確認する役目だ。
「中に入ったら、ドクターと鬼の捜索のため兵を分散する。福音派の半分はあなたに預ける。くれぐれも単騎では行動するな」
「大丈夫だ。リリも大切だけど、他の野風たちの安全も守る。巻き込んだのは俺だからな」
「責任は感じなくていい。皆自分の意志でここに居る……。しかし……、それでこそ救世主だ」
スペクトラは薄く笑った。空にはもう星が瞬き始め、東の空には月の一端が現れていた。
月。脳内に霞が勝った景色がちらつく。あの夜もこんな風に月が浮かんでいた。現世で過ごした最後の夜……。
転生前後の記憶は、時間と共に自然に恢復するとリリは言っていた。朧げな印象は、この一年の間に殆ど浮かび上がりつつあった。だが日々の忙しさにかまけ、それを十分に吟味しようとはしてこなかった。……あるいは、思い出したくなかったのかもしれない。今を生きることに必死になっていれば、過去の辛いことを思い返さなくて済む。
俺は頭を振る。いや、それではいけない。俺は過去を清算しなくてはならないのだ。俺を産んで力尽きた母、土砂の中に埋もれた孤児院の皆……、脱獄に命を賭したジンメル。生き残った俺が彼らの魂を救わない限り、俺は自分の人生を始めることはできない。
「……逸る気持ちは分かる」
俺の表情を見て、スペクトラが言う。
「私もかつては故郷を離れ……、異境の地に赴いた。帰りたい気持ちはよく分かる」
「郷愁なんてものじゃないよ」
俺は肩をすくめる。
彼は言葉を切り、空の星々を見上げた。
「俺も若い頃は親父に反発していた。教会の閉鎖的な連帯も嫌で、スラムを飛び出してあちこちを旅してた。山脈を越え東国に赴き、大陸までは行かなかったが……武者修行みたいなものだった。旅から生きて戻ってくる者は大概一皮むけて帰ってくる」
「それであんなに闘い慣れてるのか……」
俺は納得する。
「野風はどこに行っても石を投げられた。狙われることも多かった。その度に返り討ちにしていたが、俺は疲弊した。平安の地などどこを探しても見つからなかった。いつしか俺は聖典を受け入れ、約束の地は自らの心の平穏だと考えるようになった。九〇の正典と九つの外伝からなる全九九章の
辺りに霧が立ち込めてくる。古代都市に近づいてきたのだ。俺たちは頬を濡れた空気に浸した。
「だが組織を持つようになって、そうもいかなくなった。親父が死んで代替わりした時、俺はこの教えを徹底することにした。諍いはもう御免だったし、聖典の教えを徹底したかったからな。だから迫害も弾圧も受け入れた。去る者も追わなかった。だけど問題は解決するどころか山積みになっていった。俺が苦難を受け入れても、住民はそうもいかない……。だから日々の問題は解消せざるを得なかった。いつしか俺は、教会の代表者と生活の指導者との板挟みになっていたんだ」
スペクトラはそこで言葉を区切らせると、俺の方を向いた。
「そこに、あなたが現れた」
「俺?」
「そうだ。あなたはまだ未熟だったが、紛れもなく神の力を持った稀人だった。鬼に敗れ、一度は失望しかけたが、あなたは再び立ち上がった。そしてこの数週間でその力を結実させつつある。今、こうして貧民街の連合まで立ち上げた」
「買いかぶりすぎだな。リリの人望と、あんたの手腕あってのことだよ」
スペクトラが素直に褒めるのは珍しい。俺は頬を掻いて誤魔化した。
「とにかく、俺はあなたという神の一端に触れることでやっと理解した。怒りの手を振るうのは、神でなく我々なのだと。この一戦は始まりにすぎない。スラムの合同作戦と、鬼を始末したという実績はヒト族に我々の脅威を印象付ける良い契機になる。対等な交渉に臨むことができる……」
彼は勢いよく馬を走らせた。遠くにぼんやりと塔の影が浮かび上がる。俺は手綱を握る手に力を込めた。
墓標のような巨大な遺跡群が目の前に迫ってきた。霧に包まれ、その全体は朧気なままである。街全体は息絶えたようにひっそりと静まりかえっている。風雨にさらされ、所々欠けた遺跡たちのシルエットが、月光の下に転々と並んでいる。これを全て探すのは骨が折れそうだ。やはり人手を集めて正解だった。
スペクトラは馬を止めると全体に号令をかけた。前面の包囲の任を振り当てられていた部隊が、二手に別れて遺跡の周囲に散らばっていく。敵に悟られぬよう、火は焚いていない。星と月の明りだけが頼りだ。
「いよいよだな」
俺はぶるりと胴を震わせる。夜露にぬれた毛皮から水滴が飛び散った。
「五班に分かれて隊列を組みなおせ。本部の者は俺と
スペクトラは残りの二百騎あまりに指示を出す。
彼は隊列を確認する。包囲に向かった騎馬たちは既に姿なく、配置についている頃合いだった。手拭いが俺の隊の後ろに並ぶ。スペクトラは片手をすいと挙げ、五つの塊になった各部隊に向かって檄を飛ばした。
「予定より早いが、このまま突入する! 正面の遺構を手前に散開、各部隊捜索に当たれ! ドクターまたは緑衣の鬼を見つけた部隊は警笛を鳴らして知らせろ」
俺は首にかけた短笛を握りしめた。スペクトラの右手が振り下ろされる。
「――突撃!!」
出陣の時とは打って変わって、密やかな進軍だった。地を弾む蹄の音だけが死の街に降りそそぐ。スペクトラ隊が先行し、霧の中に姿を消す。正面の遺構が間近になってきた。俺は片手を上げ、方向転換の合図を……。
けたたましい笛の音が鳴り響いた。部隊がざわつく。まだ遺跡地帯に踏み込んだばかりだ、展開すらしていない。いくらなんでも早すぎる……!
俺は後方にサインを出すと、笛の音の方角に馬を走らせた。他の部隊も同様で、まだそう離れてはいなかった。スペクトラ隊の背中が見える。
「いたのか? どっちだ!」
俺は回り込んで、スペクトラの肩に手を掛ける。
「アクシデントだ、あれを見ろ!」
スペクトラが前方を指さす。俺は目を凝らす。霧を透かして、倒木のようなものが折り重なっているのが見える。いや、どこか様子がおかしい……。
俺はその正体に気付いて目を見張った。猿の群れだ。馬も倒れている。数十人の僧兵と騎馬が地面に伏し転がっていたのだ。一匹が呻き声を上げる。外道法師だ。その隣には例の誘拐組も揃って崩れている。
「先行部隊か! 会敵したのか?」
「分からん! トラップの可能性もある。迂闊に近づくな……!」
宙を縫って警笛の音が響いてきた。北西から。さっき別れた包囲部隊だ。堰を切ったように、四方一帯から笛の叫びが飛び交う。「どうなってる! こうもあちこちから!」「敵は一人じゃなかったのか?」
部隊に動揺が走る。「うおおっ!」兵の焦った声が聞こえてきた。激しいいななきと共に彼の騎馬が、後ろ脚で立ち上がったところだった。異様な空気に猛った彼の馬は、彼を引きずり降ろさんばかりに突進した。
「待て! 出過ぎるな!」
スペクトラの制止を置き去りに、彼と彼の馬は先行隊目掛けて突っ込んでいく。
霧の中を、一筋の閃光が突き抜けた。
馬が悲鳴を上げて転がる。僧兵の体は宙を舞い、煙を上げたまま地面に叩きつけられた。
「これはこれは、お尋ね者が雁首揃えて遠足か?」
入道雲の中を、ごろごろと虎が喉を鳴らすような音が轟く。暗雲をかき分けて、見覚えのある日に焼けたコートが姿を現した。
「生憎の空模様だな。落雷注意だ」
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