第29話 邪宗門
「待ってくださいましらさん!」
中央の関所にさしかかったところで、後ろから誰かが追いついてきた。俺は足を止めず、横目でちらりとそちらを確認する。モルグだった。
「いきなり砦を飛び出していったと聞いて……、何処へ行くんですか!」
「北面だ」
「北面……!」
モルグはやはりという顔で悲鳴を上げた。
「北面とは停戦交渉中のはずです……。そんな状態でましらさんが乗り込んでいったら……、間違いなく戦争になる! 中央には鬼の被害者だっているんだ、皆を危険には曝せない……!」
「交渉は決裂だ! リリは北面に行ったきり帰ってこない……。診療所にも姿を見せていない。北面の連中が攫ったとしか考えられないだろうが!」
「だからと言って一人は無茶だ! せめてスペクトラさんの判断を仰いでからにしましょう! そうすれば兵を動かせる」
「事態は急を要する。既に四日も無駄にしてしまった……。ドストスペクトラは、西南連合との交渉でいつ帰ってくるか分からない。要は北面の頭を押さえれば良いだけだ。結果さえ出せば誰も文句は言わない」
「しかし……! ドクターはそこまで中央に必要な方なんですか?」
「分からないのか! 君も妻を失う気持ちは知っているだろう!」
俺ははっとして立ち止まった。モルグが横っ面をひっぱたかれたかのような顔で立ち尽くしている。
「すまない……。言い過ぎたな」
「いえ……。知りませんでした、ましらさんにとってドクターが、そこまで大きな存在だったなんて」
「自分でも驚いているよ」
俺は頭を掻いた。「……やっぱり、俺を止めるか?」
「俺は……、中央に守りたい人たちがいる。だから向こう見ずな真似は、やめてほしい。でも、ましらさんの気持ちも、痛いほどよく分かる……」
「皆を危険に巻き込むつもりは無い」
俺は毅然として言った。
「ここで敵の頭をとる。そうすれば、戦争にはならない」
「独りでやるつもりですか?」
「君がいてくれれば心強い」
俺は肩方の眉を吊り上げた。モルグは根負けしたように溜息をついた。
「喧嘩は素人ですよ、俺」
「バックアップしてくれれば良い。覚悟を聞けて安心したよ。……ここはもう、北面の領域だからな」
モルグがはっとしたように周囲を仰ぐ。俺たちは既に北面の沼沢地に足を踏み入れていた。樹々は奇妙にねじ曲がり、濁りきって光を一切反射しない真っ黒な泥濘が、舗装された細道の脇で小川のように流動している。
辺りに建物は少ない。地盤がぬかるんでいるからだろう。遠くに集合住宅のような小高い建物が寄せ集まっている。建築可能な僅かな土地に、できるだけ多くの住民を住まわせるための工夫だろう。北面の首領……、外道法師がどの棟を根城にしているかは、ドストスペクトラから聞いたことがあった。奴はここで最も高い棟——と言ってもせいぜい7,8階だが——の最上階から魔境を睥睨しているのだ。
『風を切る音がする』。右手を素早く挙げ、頬に突き刺さろうとした矢を俺は掴む。
「……気付かれたな」
俺は辺りの捩じれた樹林を睨みつける。
「せっかちな街ですね、ここは」
モルグが自身の首紐を絞めるように引っ張る。一瞬のうちに圧縮された僧衣がぴったりと巻き付き、偽鬼の鎧に早変わりする。
「便利なアイテムだな」
「ニミリさんお手製ですよ。……それで、どうします?」
「決まってるだろ。走れ!」
俺たちは飛び交う矢の中を駆け抜けた。俺は予知で躱しきれる。モルグは、鎧で刺突を無化する。歪んだ茂みが視界の端でたわむ。数人の僧兵が樹々を伝って追いかけてきているのが視認できた。
「……6人か」
「寡兵ですね」
「北面の邪宗門は土地の狭さの割に人口が大きいと聞いている。奴らはただの見張り……、本陣は棟で籠城していると見ていい。……中央の進軍を見越していたようだな」
網の目の路地が繋がって徐々に太くなっていく。集住団地の入り口が近づいてきた証拠だった。脇を行く敵兵たちが舌打ちするのが分かった。
「
樹上から猿たちが飛び込んできた。矢尻を片手に降ってくる猿たちを蹴り飛ばし、泥の沼に沈める。
「!」
不意に脚を掴まれ、まろびそうになる。足元の黒沼から、ガスマスクのような呼吸器を付けた野風たちが次々と這い上がって来た。
「伏兵か……。陰湿な潜伏方法をしてやがる」
俺は襲い掛かってくる奴らのマスクを順番に叩き割り、全員まとめて泥の上に投げ飛ばした。
「残りは……」
俺は振り返る。ちょうどモルグが木の枝で残党を絡めとったところだった。
「怪我は無いか?」
「聞くまでもないですよ」
街路を往くにつれ沼が浅くなり、乾いた地肌が露出し始めた。棟はその固い地盤の上に聳えている。
「粘土と若木を練り固めた壁か……。好都合だな」俺は手前の棟の壁に触れて呟いた。
「本棟の窓を塞げるか?」
敵の首領の逃げ道を断ち、他棟からの増援を入れないための策だ。モルグが肯く。
本棟の窓からは、住人たちが顔を覗かせている。西面の群ほどではないが、かなりの数だ。口汚い悪態の雨が降りしきっている。
「
「お前は馬鹿か?」
頂点からひと際よく通る声が降ってくる。この数の部下を指揮するのに十分な声だ。俺は最上階を仰ぎ見る。屈強な野風に囲まれ、老練した女の野風がこちらを見下していた。奴が外道法師だ。俺は確信した。ドストスペクトラと同じ雰囲気を醸し出している。法師が再び口を開く。
「状況を考えてみろ、スペクトラの傀儡さん。ドクターを攫った時点で既に戦争は始まってるんだよ! お前ら福音派に残された道は、人質の命と引き換えに降伏することだけだ」
「それを聞いて安心したよ」
俺は声を張り上げた。
「リリは生きてるってことだ。そして今日ここで彼女が死ぬことは無い」
「私の言葉がただの脅しだと思うか?」
法師がドスの聞いた声で低く叫ぶ。「そうじゃない」俺は叫び返す。「俺の予知がそう告げているんだ。リリの悲鳴や、俺の怒声は、未来からは聞こえてこない。聴こえるのはお前の呻き声だけだ」
「言ってくれるじゃないか」法師が愉快そうに嘲笑う。「お飾りの救世主擬き2人で何が出来るのか……。試してみると良い」
法師が部屋の中に消える。俺はモルグに目線を送る。モルグが肯いて、本棟の壁に手を当てる。木がうねり粘土壁に沿って繁茂しだす。見下ろしていた猿たちがどよめいて、屋内に顔を引き込める。窓枠の隙間を木の蔓が覆い隠していく。俺は入り口の扉が塞がれる前に中に突入した。中央が吹き抜けで、ロの字型に廊下が続いている。階段は各階の奥左右に交互に配されている。造りからして屋上まで辿り着くには、大半の部屋の前を通ることになりそうだ。
1階はエントランスとロビーにいくつかの多目的室らしき大部屋……居住空間は2階より上であるようだった。だが既にこの回に何人かが潜んでいる。猿の五感でそれを感じ取った。
俺は奥の階段に向かって、ゆっくりと大部屋の前を横切った。一呼吸おいて、振り返る。足音を消した敵兵が、ナイフをかざしている所だった。
「勘のいいやつめ」
奴は舌打ちした。両手で刃を振り下ろす手を押さえ、俺は聴覚予知を張り巡らせる。『何かが顔に当たる音がした』。
ナイフを弾き、身をかがめる。重たそうな袋が頭の上を掠めた、背後の壁に当たって鈍く反響する。音からして、石ころか何かが詰まっていたようだ。
「良い反射神経してるなあ」
僧兵の集団が取り囲む。数はそれほど多くないが、皆鍛え抜かれた肉体を紫の法衣で包んでいる。ただの雑兵ではない。
「死に曝せやダボがァ!!!」
「北面のやり方見せてやるァ!!!」
四方から威勢の良い罵り声と共に、敵兵が飛び掛かってくる。後ろから叫び声が聞こえる。俺は身を翻してそのまま蹴打に繋げる。左足は綺麗に相手の鳩尾に入った。僧兵がうっと呻く。狭い通路はこちらに好都合だ。
『また石の音がする』。俺はとっさに敵兵を盾にする。不吉な音がして彼の力が抜ける。味方の投擲が命中したらしい。今度は棒切れか何かが空を切る音。鉄杖のようなものがその肩に食い込む。仲間がいようとおかまいなしというわけだ。
だがその戦い方は連携のとれていない証左だ。俺は正面の猿を突き飛ばすと、後続の猿それに躓いているうちに一撃食らわせる。『左耳の潰れる音がして』、即座に腰をかがめる。拳が通り過ぎる。
しゃがんだ反動を利用してタックル。敵兵を壁に激突させる。『背後から杖がしなる』。右に転がってそれを回避。鉄杖は壁にぶつかり、地面に取り落とされる。すかさず殴打の連続。『向こうも負けじと回し蹴りを放ってくる』。だが腰が入っていない。その隙に踏み込んで右ストレートを叩きこむ。顎に入り、敵兵は膝から崩れた。
『再び背後から唸り声』。脇に避けるが、追い縋ってくる。背面の猿だ。俺の肩に歯を突き立てる。俺は相手の毛皮をむんずと掴み、前方に転かりながら背負い投げた。敵は背中をつき、大の字になる。俺はすかさず馬乗りになり右手を振り降ろす。
さらに数人を撲り合いで制し、最後に遠巻きに石を投擲していた猿を捕まえ、窓の外へ硝子ごと叩き出した。
1階は居住区域で部屋数も疎ら。潜んでいる兵も上階の方が圧倒的に多いはずだ。「ここからが本番か……」俺は窓から顔を出し、棟内全体に聞こえるように、大声で宣言する。
「これより部屋から一歩でも出てきた者は全員敵と見なす! 非戦闘員は部屋に隠れていろ! 手出しはしない!」
「甘ぇぞ福音派ァ!!!」怒号と共に、木戸が蹴倒される。わらわらと、扉という扉から、鉄杖を持った僧兵たちが溢れ出して来る。「こちとら一人残らず戦闘要員じゃァ!!!!」
「だったら手加減は要らないな」
俺は汗を拭って不敵に笑い、2階へと続く階段に飛び込んだ。
数十分の激しい攻防の末、本棟の内部は水を打ったような静寂が支配していた。夥しい数の猿が廊下に山積みになっている。俺は腕から流れる血を、ぼろぼろになった衣服の切れ端できつくしばり、壁にもたれて深く息を吸った。階下を見下ろす。後に付いてくる敵はいない。
俺は奥の部屋の扉を開き、息を整えて宣言した。「お前で最後だ」
外道法師は椅子に深く腰掛け、鷹揚な態度でこちらを見返した。
「思ったよりやるじゃないか」
「大した余裕だな。あんたも出来る口か?」
俺は拳を構えて尋ねた。法師は詰まらなそうに笑って首を横に振った。
「生憎と私も歳でね。撲り合いに付き合うつもりはないよ」
「なら降参か?」
「まあお待ち。取引をさせてあげよう」
「取引?」
俺は眉を顰めた。
「そうだ。彼女の情報を渡す代わりに、中央の土地の半分を譲り渡してもらう」
「言うに及ばないな」俺は周囲に倒れている猿たちを示した。「交渉が出来る立場だと思うか? 力づくで吐かせてもいいんだぜ」
「あんたはそんなことはしない」
彼女はくつくつと笑う。「
「どうかな」
俺は強いて口角を上げてみせる。
「俺はもとより話し合いのつもりでここに来た。殺し合いを買って出たのはあんたの方だ。……そしてこちらが勝った」
「分かってないねェ」
彼女は鼻を鳴らす。
「お前の目的はなんだ? ドクターを取り戻すことだろう。あたしの部下を
「……」
俺は彼女の挑むような眼を見据える。やおら拳を放つ。拳固は彼女の頬を掠め、椅子の背もたれに穴を開けた。法師は眉ひとつ動かさず、にこりと微笑んだ。「ほら、向いてない」
「……リリの居場所を教えろ。手荒な真似はしたくない」
「よく言うよ。これだけ暴れておいてさ」
彼女は肩をすくめる。「彼女にも見習ってほしいかったね。あまり抵抗が非力だと、興ざめしてしまう」
俺は歯をむき出しにして威嚇する。彼女は退屈そうに脚を組む。「さあ、乗るか反るかさっさと決めろ。それだけ彼女の苦痛も短くなる」
俺は唸り声を上げて彼女の顔面を殴りつけた。
「腰が入ってないねぇ!」
彼女は鼻から血を流しながらせせら笑った。廊下にのびている自身の部下たちを顎で示す。
「そいつらのことは躊躇せず撲ってたろ。脅しは初めてで気が退けるか? 向かってこない相手には本気を出せないか?」
「吐け! 彼女はどこだ!」
「指の二、三本なら返してもいいけどねぇ。どうせ治るんだから関係ないだろう?」
俺は雄叫びと共に法師の顔を打ち抜いた。椅子が跳ね上がり、薄ら笑いを浮かべた法師が壁にぶつかって気絶した。頭から血が流れている。
俺は肩で息をする。この建物をくまなく捜して……。いや、この棟に居るとは限らない。こいつを連れ帰って口を割らせる? ……ともかくも止血だ、法師が死ねばリリの居場所は分からない。
まず止血をしなければ……。
脇から水の塊が飛んできて、法師の顔に浴びせられる。法師が呻いて目をしばたたかせる。
「慣れないことをするからだ」
「どうしてここに?」俺は驚いて尋ねる。
「あなたが邪宗門の根城に向かったと聞いて、追いかけてきた。長旅から帰ったと思えばこれだ」
スペクトラは法師の脚を片手で掴んだ。
「あなたには荷が重い。こういう手合いと渡り合うにはそれなりの年季がいる」
彼はそのまま立ち上がり、法師を宙づりに持ち上げた。血が滴り落ちる。法師は二三度目物憂げに瞬きして、まつ毛に止まった雫を払い落とした。
「ドクターの居場所を教えろ。お前が干からびる前にな」
「おぉー……、話の分かる男が来たか」
法師は低く呟いた。それから俺に挑発的な目線をくれる。部屋の空気がずしりと重たい。
「思ったよりは感情的だったねえ。私情を挟んだかい? ドクターを選んだのは正解だったわけだ」
俺は牙を立てる。目の前に毛深い腕が伸びる。スペクトラが俺を制止する。
「つまらん見栄を張るな、法師。もうだいぶ血が抜けてるのが分かるだろ?」
法師の頭の下には、水で嵩の増した赤い海ができていた。
「殺せば女の居場所も分からないよ」
「だろうな。お前が部下に重要な秘密を教えるとは思えない。だからお前の意識が飛んだところで中断してやる。死にはしないが、生きたまま苦しみ続けることになる」
「あたしに拷問は通じないよ。苦痛如きで口を割る私でないことは、知っているだろう。」
法師は皮肉っぽく笑う。「だが、お前の部下はそう思っているかな」スペクトラは表情を崩さなかった。
「お前が生死の淵を彷徨う重傷を負えば、信者はお前をドクターのもとに連れていこうとするだろう。居所は知らなくとも、北面で監禁のできそうな場所……、邪宗門と繋がりのある外部の機関……、あんたの行動……、候補は限られてくるはずだ。彼らを1人ずつ尋問してまわるより、よっぽど手が早い。俺たちは彼らの跡を付け、そのままドクターを解放する。それで一件落着だ。お前は俺たちの手間をほんの少し増やすだけ。五体の自由と引き換えにな。まったく賢い選択だ」
法師はスペクトラを睨みつける。スペクトラは意にも介さず、退屈な様子で足元の血だまりを眺めた。
法師が溜息をつく。
「分かった、降参だ。降ろしてくれ」
「ドクターの居場所は?」
スペクトラが繰り返す。法師は舌打ちする。「色硝子の樹海……、古代都市の建物だ」
「あそこは警備隊の管轄区だろう。証拠はあるのか?」
法師は床の一隅を顎でしゃくった。「床板を外してみろ。手紙が隠してある」
「確かだ」
俺は床板の下を調べてスペクトラに肯きかけた。中からは数字の羅列された幾通かの手紙が出てきた。「暗号か?」
「外典の章番号と、章頭から数えた順の単語に対応している。ドクターの幽閉先に関するやりとりは一番上の手紙だ」
スペクトラは法師の脚を離した。頭から地面に倒れた法師は、舌打ちして身を起こした。
「止血しろ」スペクトラは上着を脱ぐと、彼女にぞんざいに投げ渡した。「協力者がいるようだな。手紙の相手は誰だ?」
「ヒト攫い……、古代都市と言えば察しは付くだろ……。緑衣の
緑衣の鬼。俺はその単語に拳を固めた。「奴のことを知っているのか?」
「直接会ったことは無い。だが書面を通して密かに通じていてね。数回のやりとりで本物だと分かった……。鬼しか知り得ない被害者の詳細な情報が書かれていたんだ」
「ドクターを誘拐したのも鬼の指示か?」
「そうだ。というか、手を下したのは緑衣の鬼本人さ。私達に任された仕事は彼女をおびき出し……、護衛を引きはがすことだけ。むしろ私たちの方こそが協力者だったというわけだ」
「だが、お前は彼女の身柄を交渉材料にしていた。いつでも危害を加えられるという口ぶりでもあったぞ」
「
「まったく無茶をする」
ドストスペクトラが腕を組み小さく嘆息する。
「それで、あんたたちは
「会談だ」ドストスペクトラは言う。「五地域の長を集める」
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