第28話 境界人

 ささやかな木漏れ日が、床に溜まりを作っている。本部の中で唯一窓のある部屋に、背中を丸めた一匹の猿が横たわっている。豊かな蒼い毛並みの中に、いくつか白髪が混じり、模様を作っていた。両目は宙の一点をぼんやりと彷徨っていて、そこには何の感情もうかがえない。

 蒲団の傍らに、アテネが膝を抱えて座っている。誰かが持って来たのであろう湯呑が隣においてあるが、口を付けられた形跡はなく、細かな埃さえ浮かんでいる。

「加減は良さそうか?」

 俺は後ろから声をかける。アテネは数秒間をおいて、ゆっくりと振り向いた。目の下に濃い陰が出来て、頬の肉が落ちている。

「元気そうよ。今はぼんやりしてるけど、話しかけると時々反応するわ」

「そうか……」

 隣に座りながら、俺はアテネの様子を横目で窺う。これでも恢復してきた方だ。アテネは直接攻撃を受けたわけではないが、精神的ショックが強く、数日間寝込んでいた。無理もない、華やかな家系で育てられたのなら、ああいう血生臭い場面に遭遇するのは初めてだったろう。加えて、鬼の暴力は陰湿で、残忍だった。カミラタは無力化狙いで殺意を感じなかったし、スペクトラや誘拐集団とは喧嘩や格闘といった類のいざこざだった。だが緑衣の鬼の拳には、倒錯的な悦びが感じられた。アテネが瘴気にあてられて落ち込むのも不思議ではない。

「むしろ貴方がぴんぴんしてるのが不思議なくらいよ。あれから一日も休んでないでしょ」

 彼女は落ちくぼんだ目で素っ気なく言う。

「休んでる暇はない」

 俺は答える。

「今の中央は俺が支えないと駄目なんだ。若頭は東面に戻って指揮を立て直しているし、ドストスペクトラは北面との停戦交渉で忙しい。俺が皆をまとめないと……」

「殊勝な心掛けね。少し意外だわ」

「何が?」

「あれほど会いたがっていた樹海の魔法使いをやっと見つけたのよ。おまけに、手も足も出なかった。躍起になって攻略の手立てを考えていると思ってた」

「そっちも進めているさ……。だが、あれだけはっきりと見た目の特徴が挙がっているのに、目撃情報が一切ない。足取りがつかめないんだ。アテネの情報を頼りに樹海を捜索させてもいるけれど、君が鬼から逃げた時の抜け道は既に警備が強化されていて、見つからずに通行することは不可能だった。だから鬼はスラム内に潜伏しているという噂さえある」

 俺は少し早口に弁明した。あくまでも事実だった。しかしその言葉はどこか言い訳がましく上滑りしていく。アテネは俺の奥底を探るように桜色の瞳を注いだ。俺は視線をそらし慌ただしく腰を上げた。




 緑衣の鬼の暗い噂が影を落とすに従って、モルグやボア、アテネ……、中央が鬼の被害者を保護しているという触れ込みが、じわじわと王都全域へ広がっていた。しばらくは静かだったが、やがて元ヒトを名乗る猿たちが、躊躇いがちに門戸を叩くようになった。

「こんなに集まっては、面倒が見切れないな」

 広間に集まった半野風を眺め、俺は肩をすくめる。

「ましら君も、面倒を見られている側ですよ」

 隣に座ったリリがやれやれという風に指摘する。

 集まった「人猿」の面々はその証として、各々の能力を見せた。ヒトの特殊器官を受け継いでいる証左だ。ある者は植物を生やし、ある者は自在に筋肉を増幅させる。また静電気レベルだが、カミラタのように雷を発生させる者もいた。

「最近元気そうですね、モルグさん」

 リリは後から来た猿たちに先輩面をするモルグシュテットを見て、微笑んだ。子を見る親のような顔だ。

「まあ、彼も似たような境遇の仲間が増えて喜んでるんだろう。アテネも少し落ち着いてきてる。同じ理由かな」

「ええ」

 リリはどこか感慨深そうに呟く。

「きっと寂しかったんですよ、彼女」

 俺はリリの顔を見る。彼女の眼は光苔の下で青紫の水晶のようだった。しかしそれは霞のかかる曇った水晶で、いくら覗き込んでも何かが浮かんでくることはないのだ。その目はいつも届かない何かを求めているようで、俺はそんな彼女の視線を捕まえたいと思った。

 リリの目が不意にこちらを向いた。視線がぶつかる。俺はどきりとして目を逸らし、誤魔化すように咳払いした。

境界人マージナルマンと言ったかな、こういうのを」

「マージナル……?」リリが首を傾げる。

「二つの領域に属していて、そのどちらにもなりきれない人、といった意味だったと思う。あいつらってそんな感じだろ。人と猿の境界にいて、居場所を探してる」

「ああ……」リリは肯いた。「なんだか、わかります」

「まあ、元人間という点では、俺も同じだな」

俺も肯いて同意した。「それだけですか?」リリが質問する。

「え?」

「元人間、というだけではない……、最近のましら君は、自分がどこに居るべきなのか……、迷っているように見えます」

 リリの瞳が、まっすぐこちらを見つめていた。今度は逃げられない。……どうしてこうも俺の周りに居る連中は、勘が鋭いのだろう。

「まいったな……」

 俺は頭を掻いた。それから、つい、ぽろりと呟いた。

「……少し、揺らいでるんだ」

 リリは気遣しげに俺の背に手をあてる。

「……それは、緑衣の鬼のせいで?」

「それもある……。でももっと根本的な問題だ。現世の俺は、何も持っていなかった。だから死地に飛び込むことに躊躇が無かった。でも、今の俺は……、失うものができてしまった。この世界に、少し長く居すぎたみたいだ。俺は今、死ぬのが怖いと思ってる。そして、時々……、本当に時々だけど……、俺にも別の人生があったんじゃないかって、ここでならやり直せるんじゃないかって、……考えてしまうんだ」

「あなたはそれを、いけないことだと考えてる」

「……うん」

 俺は両手を膝の上で組み合わせた。

「俺の人生は……、贖罪のためにあった。俺は孤児だった。だが天災で、孤児園の皆は死に、俺だけが生き残ってしまった。その時から俺の命は、俺一人のものではなくなったんだ。皆が叶えられなかった夢の分まで俺の人生をかけて果たす義務があるんだと……、それが俺の生かされた意味であり、償いだと思って、生きてきた。英雄になって……、何か皆に認められることをして、ちゃんと生き残った価値があるんだって、証明しなくちゃいけない。それなのに……」

「ああ……、可哀想な人」

 リリは俺の頭を両手で包み込み、その肩に抱き寄せた。

「あなたに必要なのは、慈悲と禊。大丈夫……、私がそれを与えてあげます」

「……君は、なぜ俺に優しくしてくれるんだ?」

 俺は、リリの白い柔らかな髪に顔を埋めて問うた。

「それは……、あなたが私を救ってくれるから」

「俺が?」

「ええ。いつか、そう遠くない日に……、きっとその時が来る。私には分かります」

「予言者顔負けだな」

 俺はリリから額を離して、小さく笑った。

 その日の午後、リリは北面の往診のために砦を発った。日が落ちるまでには帰ってくると約束した。俺はまんじりともせず彼女を待ち続けた。太陽が昇り、照り、山間に沈むまんだ。だが日が没しても彼女はやってこなかった。

 二日たち、三日たってもリリは現れなかった。四日目。北面から帰って来た使者たちに話を聞いた。誰も彼女の姿を見た者はいなかった。

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