第12話 狼煙
「それじゃあ計画をおさらいしよう」
俺は水道管に口を近づけて暗号で喋った。
「脱出は今日の正午。ボアソナードが出獄し、ちょうど俺とジンメルが場内作業で檻を出ているタイミングだ」
「カミラタが獄舎を発ったことは既に確認済み。今獄内はもっとも警戒が緩い」
俺は肯く。十字傷の彼……ジンメルも水道管を叩いて同意の合図を送った。
「まずは監獄の連絡通路に通されたボアソナードが、適当な理由をつけて看守の目から逃れる。釈放のタイミングで警戒も緩いし、ボアソナードの話術があれば簡単だ」
ボアソナードが肯く。
「そのまま監視塔まで移動して、特別房に火を放つ。といっても火自体はごく小規模なものだ。煙幕と騒ぎさえ起こせばいい。糸電話の椀を使って火種とやすりを深窓の令嬢に届ける。髪を切り、それを火種にすることは彼女が提案してくれた」
「まさに脱獄の狼煙というわけだ」
ジンメルが合いの手を入れる。
「それを合図に、場内清掃班の俺が水道管を破裂させる。ここ何日かの間にこつこつ進めてきたから、実行に移すだけだ。各箇所に穴を開け、接着塗料で蓋をしておいた。清掃作業にかこつけてポンプに細工をし、一気に各所から放水させる。これで監視塔の人員をこちらに割かせることができる。放水騒ぎを止めるのもそうだが、鎮火のためにも水は必要だからな」
「このタイミングで洗濯班の俺が看守服を盗み出し、煙と混乱に乗じて監視塔に潜入する。特別房で火事が起れば、監視塔の獄卒たちは特別房の鍵を開けざるを得ない。その隙に令嬢を連れ出し、用意の爪針金で足枷を開錠する……」
「あの異様な長髪はここでも一役買うというわけですな。煙幕の視界不良下なら、髪の毛を残すだけでも、令嬢がそこに居るように錯覚させられる」
「その通り」
俺は相槌を打つ。
「火災と水害に看守たちが気をとられている隙に、監視塔に生じた死角を通って塀まで移動する。猿の俺が壁を三往復してお前たちを運べば脱出は完了だ」
「山道ルートで貧民街まで逃げ伸びられれば、私の案内で教會の保護を受けることができます。そこまでは警備隊も追ってはこれない。幸い山道ルートは馬が走りつけられないから、彼らも徒歩(かち)で追走せざるを得ません。気づかれるまでに時を稼ぐことが出来れば、追いつかれることもありますまい」
この短期間で、よくここまで持ってきたものだ。俺とボアソナードは笑みをかわし、手を握り合った。
「あとは実行を待つのみだ。最後に確認したいことはあるか? ジンメル」
「……」
水道管はピクリとも反応しない。「ジンメル?」俺は呼びかけてみる。「……すまない。斜向かいの塀に人影が見えてな」
「人影?」
俺は眉をひそめる。
「ああ。最近そこに新入りが収監されたばかりでね。昨日から、こちらを窺う素振りを見せている。気のせいかと思っていたんだが……。でも大丈夫、こちらが何をやっているかまでは分からないだろうし、仮に水道管を盗聴されていたとしても、内容が漏れることはないさ。暗号化しているからな」
「……そうだな。今は作戦に集中しよう」
俺は胸騒ぎを覚えた。神経を集中して、何か予知の音を拾えないか試してみる。……駄目だった。やはりまだ自分の意志で発動させることは出来ない。恐らくこれを使いこなすには、何か精神的に重要な要素が欠けているのだろう。
不安は残るが、ここに来て計画を中止するわけにはいかなかった。大丈夫、ジンメルの言うとおり、情報が漏洩する心配は無いのだ。誰かが漏らさぬ限りは……。
風が吠えるように獄窓を通り過ぎた。
俺はポンプの前にしゃがみ込んで合図を待った。後はこのレバーを目いっぱい退くだけだ。
扉の向こうで細い木の枝が頼りなく揺れる。清掃のため、この配管室の戸は開け放たれている。入口は監視塔の視覚内だが裏を返せばこちらからも向こうの状況が分かるということ。狼煙はすぐに確認できるようにしてあった。
俺は息を詰めて時を窺った。埃っぽい部屋の臭いに、じっとりと汗ばんだ囚人服の内側が不快感を催させる。ポンプの先には水道管が繋がっている。俺はそれをじっと見つめた……。
不意に、パイプからくぐもった音が聴こえた。俺ははっとした。何か重いもので管を叩いている音だ。「ジンメル?」俺はパイプに駆け寄った。不測の事態の合図かと思ったのだ。
管からは叫び声のようなものが聞こえた。反響で誰の声かは分からない。何かを伝えようとしているようでもあるし、ただ喚いているようにも聞こえる。
最後にひときわ鈍い振動が伝わってきて、それぎり無音になった。焦燥感がじりじりと肌を焼く。持ち場を離れるか、思い過ごしと判断して留るか。作業中の大きな音が、たまたま聞こえてきただけという可能性もある。それに今、ここを動くのはリスクがあった。
しかし俺は、配管室を飛び出していた。監視は幸い別の方角を見ていたようで、俺が抜け出したことに気付かなかったようだった。ジンメルの持ち場は近い。まだ作戦は開始していないのだ、急げば対処できるかもしれない……。
俺は人目を躱しつつ走り抜き、最後の角を曲がった。洗濯場が見えた……。
黒い人だかりが出来つつあった。
俺は唾を飲んだ。ざわめく囚人と看守を押しのけ、躊躇う気持ちを引き付けて前に抜け出る。足に生温かい感触があった。
俺は愕然として体を固めた。小汚い洗い場の片隅で、荒々しくひしゃげたパイプから水が噴き出ている。床にしみ出してピンクの染みを広げていく。そこには頭を割られ排水管にめり込んだ肉塊があった。
ジンメルは絶命していた。
周囲でまたどよめきが起こる。視界の端の獄窓に、立ち上る黒煙の姿がぼんやりと浮かんだ。
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