第13話 アテネ
計画は動き出してしまった。
俺は看守の制服を掴んで人混みの中に紛れた。連絡通路を看守たちが慌ただしく駆け抜けていく。表に出ると獄卒らは皆出払っていた。俺はまだ湿り気の残る看守服を口に詰め込んだ。そして、喉が千切れるほど叫んだ。
降りしきる雨、横ざまに倒れたバス、鳴動する山並み……、頭蓋に振動が反響して、俺の記憶を揺り起こした。……ジンメルは彼等の列に加わったのだ。
しかし、いや、だからこそ、俺は現世に帰らなければならない。そうでなければ、「彼ら」の魂は救われない。
口内の衣服は俺の呻きを全て吸収してくれた。俺の雄叫びは誰にも届かなかった。頭の血と共に激情が退いていくのが分かる。誰が、何のために彼を殺したのか。今はそれを考える時ではなかった。俺はただ計画を遂行する1個の機械にならなければならない。
身を潜めながら監視塔の裏に回り込むと、染料を落として白髪に戻ったボアソナードが、息を詰めて待機していた。
「来ましたか、ましら殿」
彼は首を伸ばし、辺りを見渡した。
「ジンメル殿は遅れているようですな」
「彼は死んだ」
俺は無感情に宣告した。ボアソナードは口を開けたまま、2、3度まつげを揺らした。
「死んだ……?」
「説明は後だ。彼の役は俺が引き継ぐ。お前は外の見張りを続けろ」
俺は制服を着こみながら淡々と指示を出した。呆気に取られているボアソナードを尻目に、煙のたなびく監視塔に飛び込む。
「あっ、お待ちくださいましら殿……」
ボアソナードの追求は看守たちの叫び声に掻き消された。俺は壁伝いに黒煙に紛れ、最上階まで這い上がった。
獄舎の殺人に獄卒たちが動員されたせいで、監視員は数人しか残っていなかった。特殊房の火の勢いは思ったよりも強く、看守たちが大布で風を送って必死に収めようとしている。「やはり埒が明かん! 水はまだ届かんのか!」
煙の中にぼんやりと、みすぼらしい囚人服に身を包んだ少女が見えた。俺はひっそりと床に着地し制帽を目深にかぶって、彼女をそっと引き寄せた。
額に汗を浮かべた彼女の瞳が、俺の姿を認めた。煙のせいで顔はよく見えない。俺は肯く。彼女も万事理解したという風に無言で肯いた。
俺はしゃがみ込み、針金をとり出して彼女の足枷の穴に差し込んだ。手元が震え、練習どおりいかない。額に汗が噴き出す。看守はすぐ間近だ。煙の中とは言え、いつ気付かれるとも分からない。手際の良さが重要だった。下まで連れ出して開錠すれば安全だが、重い鉄球の音が看守たちの注意を引く恐れがあった。足枷はここで外していかなければならない。
微かな手応えがした。俺は手元に目を近づける。針金が、折れていた。
息が止まりそうになる。……しかし、折れたのは幸い根元の方ではない。まだ残りの芯の部分を使うことは可能だった。俺は額の汗を拭い、音を立てずに息を吐きだす。ジンメルが居れば……。令嬢が不安げな眼でこちらを見ている。俺は安心させるように笑顔を作り、問題ないという風に手で示した。
再度慎重に、針金を回す。再び手応えがあった。引っ張ってみると、足枷がゆっくりと開いた。今度こそ成功のようだ。
令嬢の手を引き、房の前を離れる。
「……おい、ちょっと待て!」
俺はビタリと停止した。心臓が大きく弾む。空いている方の手に爪を立て、ゆっくりと振り返る。
「……火が強まってきた! それ以上近づくな」
看守が他の監視員を制止した言葉だった。彼らの視線は相変わらず房の中に注がれていた。口元を抑えた令嬢が、上目遣いにこちらを見る。「……行こう」 俺たちは再び歩き出した。
階段を駆け下りて外に出ると、俺たちは新鮮な空気を胸一杯に吸い込んだ。想定より危険な賭けだった。
「ご無事でしたか、ましら殿……!」
ボアソナードが駆け寄る。「追っ手は?」「まだです。しかし塀までの道に看守の往来がある。途切れるまで待ちましょう」
ボアソナードは俺の背後に目を向ける。「こちらが、噂のご令嬢ですか」
俺も彼の視線を追って振り返る。「……あ」
まっさらな視界の中で改めて彼女の容姿を認識する。透き通るような紅い髪、歳に見合わぬ凛とした桜色の瞳、煤けた頬の横で高貴さを湛える緑の耳飾り……。
「初めまして。そしてお久しぶりね。私はアテネ=ド・カプリコルノ。どうぞお見知りおきを」
彼女はすらりと背筋を伸ばして挨拶した。やすりで切ったざんばらな髪すらもどこか上品に見える佇まいだった。そしてその気品と容貌には見覚えがあった。
「君は、市場の……」
「その節はお世話になったわね。マシラ=ソソギ。貴方のお陰で1週間は拿捕が遅れたわ」
アテネと名乗った少女はにこりと微笑む。
「お知り合いだったのですか?」
「以前、軍警に追われていた所を俺が庇った。まさか君が特殊房の令嬢だったなんて……」
「縁とは不思議なものね。こうして貴方にまた逢えたんですもの。……ところで、聞いていた人数には、足りないようだけれど」
アテネが指さし確認して尋ねる。ボアソナードが促すように俺を見つめる。
「ああ、実は……」
荒々しく木戸を開ける音がした。「くそッ、消火班はまだ来ねぇのか?」
監視塔から飛び出して来た監視員は、傍らの俺たちと鉢合わせてぱちくりと目をしばたたかせた。
ボアソナードが警棒を構える。
「……! 抜かった……! お二方、ここは任せて先へ!」
「……? なんだお前ら……。消火の……」
監視員が目を剥く。
「——違う! 脱獄囚か!」
獄卒が腰に提げた警笛に手を伸ばす。俺はアテネを抱えて走り出そうと手を伸ばす。その腕を素早く掻い潜って、アテネが看守の顎を掴んだ。
「——!? ……なんだ、貴様……っ」
抵抗する看守の頭を易々と引き寄せると、アテネはその耳に囁きかけた。
「お眠りなさい」
看守の動きがぴたりと止まる。手首が弛緩してしなりと垂れ下がり、アテネの足元に倒れ込んだ。見ると安らかな表情で泥のように眠りこけている。
「驚きましたな、その歳で誘眠術の使い手でしたか……!」
ボアソナードが目を見張る。
「これもヒト族の異能とやらか?」
「カプリコルノ人の催眠器官です。しかしこの大の大人を眠らせるとなると、相当な鍛錬が必要なはず……」
俺たちは感心してアテネを見つめた。アテネは俺たちの視線に気づくと、少し悪戯っぽい表情で片目を閉じた。それからまた元の凛々しい顔つきに戻ると、きびきびした動作で塀を指さした。
「人波が途切れたわ。早く逃げましょう」
「……しかし、計算では上階の監視員が降りてくるまではもう少しかかるはずでは……」
塀までの裏道を駆け抜けながら、ボアソナードが言う。
「俺が足枷を外すのに手間取ったせいだ。……ジンメルならもっと手早く引揚げてた」
「……そのジンメル殿に何があったのです?」
俺は唇を噛む。
「詳しいことは俺にも分からない。見つけた時には洗濯場で息絶えていた。……誰かに死ぬまで撲られたみたいだった」
「やはり、斜向かいの新入りが関わっているのでしょうか?」
ジンメルが言っていた人影の話をボアソナードは持ち出す。
「かもしれない。だが実行犯は不明だ。監獄側の人間か、囚人の誰かか……」
「最近入った囚人のことなら、私、知ってるわ」
アテネが口を挟む。
「本当か?」
「ええ。3日前にカミラタが聴取に来た時、その話をしていたわ。モルグ亭の犯人を捕らえたって……」
モルグ亭……。たしかリリの診療所に運ばれてきた検死遺体の事件だ。であれば、そいつが直接手を下したという可能性もあった。
しかし限られた情報しかないこの場では、真相に辿り着くことは望めなかった。
塀はビルの4階ほどはあるのっぺりした石壁で、獄舎と同じ紫の石に何か金属の混ぜ物を入れて強度をましたような外観だった。時代を重ねてきた塀のようで、あちこちに蔦が這い、風雨にさらされた壁面には細かな傷がついていた。
「蔦が伸びてるなんて好都合ね」
アテネは玄色の蔓を引っ張った。
「気を緩めなさるな。囚人たちの情報によると、それは脱走犯を足止めするための罠です。サジタリア人手製の蔓で、ある高さでぷっつりと切れるよう細工されている」
「この高さから落ちれば、野風でもどこかは折れるだろうからな。そうなったらもう登れない。巡察が来るのを待つばかりだ」
「地味な割に効率的な罠ね」
アテネは蔦から手を離した。
「ここは計画通り、俺がお前たちを負ぶっていく。前情報通り壁の傷はとっかかりには十分そうだ」
俺は屈みこむ。
「アテネ、まずは君からだ」
「あら、このくらいどうってことないわ」
アテネは俺の横を素通りして壁の窪みを掴むと、器用に中程まで上り、片手を振ってみせた。
「ヒト族とは思えぬ身体能力ですな」
「あいつ何者なんだ?」
俺はボアソナードを背負いあげ、アテネの後を追う。
「有刺鉄線があるわ」
一足先に上まで辿り着いたアテネが声を降らした。
「衣で手を包んで払いのけてください。ヒト一人通るだけの隙間は作れます」
「分かったわ」
ボアソナードの指示をアテネが受け取る。——耳鳴りがした。ノイズが脳内に広がる。『火花の弾けるような鋭い音、アテネが息を呑み、それから、鈍い落下音が聴こえた』。
「待て! アテネ!」
鉄線すれすれのところで、アテネの手が硬直する。ぎりぎりで「未来」の確定を阻止した。俺は慌てて彼女の横まで上り詰める。
「『お告げ』が来た……。その鉄線をよく見せてくれ」
有刺鉄線を覗き込むと、青白い光の線が走っている。「お告げ?」「ましら殿には聴覚予知技能があるのです」
俺は慎重に顔を近づけ、鉄線を観察した。
「高圧電流だ……。情報には無かった。カミラタの置き土産だな」
「最後まで良い仕事をしますな」
顔は見えないが、ボアソナードが顔をしかめているのが察せられた。
「どうするの?」
アテネが焦ったように訊く。
「慌てるな……。ボア、あれがあったよな」
ボアソナードが背中の後ろでごそごそと蠢く。「これですな」背後から俺に太い木の棒を手渡す。
「警棒?」
「看守長と揉めた時に、彼が忘れていったものだ」
「雨樋の中に隠していたのです。護身具になるかと思って持ってきましたが、思わぬ役に立ちましたね」
警棒は重量のある木製だった。電流は、通さないはずだった。
「これで鉄柵を押し広げて隙間を作る。慎重に通り抜けろよ」
俺たちは鉄線に触れぬよう細心の注意を払って塀を乗り越え、上りと同じ要領で下まで降りていった。
……ついに俺たちは、塀の外へ到達したのだった。
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