第2話 異世界風景
「ちょっと、待ってください」
彼女は俺の肩に手を添えた。立ち並ぶと目線が同じ高さになった。
「闇雲に探すには、樹海はいささか深すぎます。おまけに夜明け前ですし。それに禁則地の周辺には警備隊もいて、そう簡単に踏み込める所では……。第一あなた、まだふらふらじゃないですか」
「かまわない。俺は帰らなきゃならんのだ。まだあいつらとの約束が、残って……」
俺はふらつく足で彼女の横を通り抜けようとした。リリは小さく溜息をついて俺の脇に両腕を差し込んだ。
「!?」
抱きとめられたと思った。なかなか大胆な行動だ。世間ではこういう男女の機微を、「脈あり」とかなんとか言うらしいが……。
しかし、俺の通俗的な解釈は、すぐに打ち砕かれた。俺は足を払われ、あっという間に組み敷かれる。腕力というより技術のなせる業だ。締め技の精度も異常に高い。護身術でも鍛えてるのか……?
「少々手荒ですが、実力で止めさせてもらいます。医者として見過ごすわけにも、いきませんから……。悪く思わないでくださいねー」
俺はリリの腕を二回叩く。……彼女の手は緩まない。そうか、ここではギブアップのサインも通じないのか。それにしても、強引なドクター・ストップだ。むしろ怪我人が増えるんじゃないだろうか? このやり方…………。
目が覚めると俺は石造りの冷たい寝台の上にいた。あたりは真っ暗だが、蝋燭の頼りない灯りで、部屋の壁や床も同じ石で出来ていると分かる。窓はなく、頑丈そうな鉄の扉の取っ手には古びた鎖が巻き付いている。天井からは時折水滴が落ちていて、部屋全体がじめじめとしている。周囲にはどう見ても棺にしか見えない木の箱が並んでおり、俺もその一つに転がされていた。ここは病院と言っていたから、多分霊安室か、解剖室か、手術室だろう。あるいはそのすべてを兼ねているのかもしれなかった。
隣の棺桶の中で、恐らく永遠の眠りについている女を覗き込む。もちろんリリではない。首元を触ってみる。「脈無し」だ。
外の様子は分からないが、おそらく朝だろう。冷気がうっすら肌を包んでいる。俺は寒さと薄気味悪さで身震いした。
ふと、隅の棚に立てかけられた鏡が目に入った。それは金属を研磨して作った原始的な鏡で、所々歪んでいるものの、ちゃんと部屋の模様を反射させていた。傷の具合でも確かめるかと、鏡の前に立った。
俺は思わず悲鳴を上げた。
また例の、あいつだ。川の水面で見かけた、あの野猿。あいつが再び、鏡の中に写り込んでいたのだ。
慌てて部屋を見渡すも、当然猿の影はなかった。猿人類の霊にでも、憑りつかれているのか知らん。俺は深呼吸し、心の準備を整えて再び鏡に向き直った。
相も変わらず、そいつの顔は鏡に浮かんでいた。よく見ると、猿というよりは原始人に近い姿で、毛も思ったほど深くない。特に顔回りなど、光の加減によっては、目を細めて遠めに見れば、彫りの深いだけの人間に、見えなくもなかった。精悍な顔つきで、肉体などギリシア彫刻のように引き締まっている。霊にしては、いやに生命力に満ちているやつだ。苦笑いする。と、猿の方も口角を上げてみせた。
嫌な予感がした。俺は恐る恐る右手を顎に向かって伸ばしてみた。すると猿の方も同時に、向かって右の手を顎に添えた。
俺は呻いて目を閉じた。そして、見たくないと思いながらも両手を眼前に掲げ、瞼を開いた。
俺の手は猿の毛皮に覆われていた。
俺はがっくりと毛深い膝を床に付いた。なんとなく、勘づいてはいた。気づくのが遅すぎるくらいだ。随分と目まぐるしい状況の変化ではっきりとは意識していなかったが、どうもずっと身体に違和感があったのだ。
どうやら「悪い魔法使い」は、俺の魂の容れ物として、猿の肉体を選んだらしい。
鍵の回る音がした。
「おはようございますー」リリが和やかな調子で扉を開けてきた。「ふふ、遺体安置室にノックして入るのは初めてですよ。……おや、打ちひしがれてどうしたんですか。棺の寝心地、そんなに悪かったです?」
「いや、ね。ちょっと現実に打ちのめされていただけ……。まさか猿として生活する日が来るとは、思わなかったからな」
「というと?」
首を傾げるリリに、俺は説明する。「前世では人間だったんだ」
「それは興味深い……。あなたの世界にも、
「野風?」
「さっき、『猿』という言葉を使っていたでしょう。私達の世界では、今のあなたの種族のことを、猿とか、猿族とか、野風と呼ぶんです」
「へえ」
俺は改めて鏡をまじまじ見つめた。
「猿……は居たな。もう少し毛深かくて、獣らしいけどね。それにこんな風に、言葉を話したりもしない」
「知性を持つ種族は、人間だけ?」
「そうだね」
俺は答えて、肩を回す。
「しかし、随分上質な寝心地だな。死後硬直ほど凝ってるぞ、肩が」
「急拵えですから、
「慣れるほど長く、ここへ寝泊まりさせる気なのか……?」
リリはにっこりと笑って俺の質問を黙殺し、軽く肩に触れた。
「……少し冷えててますねー」
彼女は俺の腕に手を滑らせ、脈を測りながら言った。
「少し歩くと河原があるんです。身体をほぐしがてら、散策してみるのはいかが?」
「それも悪くないな。どうせすぐには帰れそうもないんだ。少しは外の世界に慣れておいた方が良い……」
外には薄呆けた2つの太陽が、煌々と黄金の暈を広げていた。朝霧がようやっと晴れてきたところのようで、冷たく心地よい微風が流れていた。遠くに水晶宮のような光の山並みが見える。あれが昨晩迷い込んだ硝子の樹海だろう。間近で見ても壮麗な景色だったが、俯瞰で眺めると、表面にオーロラを塗り込めた氷塊のようだった。何にせよ非現実的な景色である。
「ああ、やっぱりここは、遠い世界なんだな」
俺はしみじみと呟く。
「やはり違いますか」
「ウン、一目でわかる。あの樹海もそうだが……」俺の目の前を翅の生えた青いザリガニがすぅっと飛んでいく。
俺はリリの後ろに着いて、澄み切った川のほとりを歩いた。川の水は現世と特に変わらないように見える。水辺の生き物はさして相違ないのかと思った矢先、黒い鶏のような鳥が、ペンギンのようなフォームで泳いで来た。それに追い立てられるように、鱗でなく毛皮の生えた小魚たちが、目にも止まらぬ速さで遡上していく。
「すごい勢いだな。河の流れに逆らって、あんな速さで泳げるのか」
「あれはケイソウという魚ですね。世界でも珍しい、托卵する魚なんですよ」
興味深そうな俺の表情を見てか、リリが解説する。
「ケイソウは、外的から身を守るために物凄い速さで泳ぐのですが、それ故に生まれたばかりの稚魚が付いていくことができないんです。それを補うための托卵、と、言われています」
「面白いな、俺のいた世界だと、托卵するのは鳥だった。カッコウとかいうやつがいてね」
俺は空を見上げた。「そういえば、あまり鳥を見かけない気がするが……」
と、灰色の影が目の前に急降下してきた。蝙蝠のような顔つきの、小型の翼竜めいた生き物だった。俺は思わず大声を出して飛びのいた。「あら」リリも少し驚いたように目を見張る。
俺の叫び声に翼竜擬きは慌てた素振で飛び退った。近くの毬のような木の上に降り立ち、先程のザリガニ風の飛翔生物を咥えてバリバリと啄む。俺はバクバクと動悸する心臓を抑えながら、浅く息を付いた。
「大丈夫ですか? びっくりしましたねー」
「ああ、これまでかと思った……」
木の枝に青い甲殻の破片が散らばる。こちらの樹木は幾らか現世の木に近い配色だったが、幹が存在せず、根を起点に放射状に延びたいくつもの枝が弧状にしなり、メレンゲのように大きな球体を形作っているのが特徴的だった。
「ましら君、と言いましたね。あなたの世界では、鳥が空を飛んでいましたか」
「えっ、ここはそうじゃないのか」
「ええ。この世界でも、かつてはほとんどの鳥は空を飛んでいたそうですが……。しかしあの翼竜の先祖との生存競争に敗れ、多くの鳥は捕食される恐れの無い水中で生きるように、進化したのだとか。今では空を飛ぶ鳥は、翼竜の生息していない地域でしか見られない、それなりの希少種ですよ」
「まあ、見るからに凶暴そうだものな。……とって食われたりしないか?」
俺は、いつでも木の毬に逃げ込めるように腰を浮かせて、尋ねる。
「警戒心が強いので、人間や
リリは静かに歩み寄って行って、突然ぱんと柏手を打った。翼竜擬きはびくっと体を震わせて飛んでいった。
「ね、怖くないでしょう?」
「おお、意外と大人しい生き物なんだな」
俺は胸を撫でおろす。
「ええ。この辺で気を付ける必要があるとすれば……、あ」
リリが俺の横の斜面に目を向けた。小さな地響きがする。振り向くと、木々の間を縫って、ヒトの背丈を上回る大きさのイガ栗のような無数の球体が、赤い枯葉を巻き上げて勢いよく転がってきたところだった。俺の頭は真っ白になった。
「うわっ! うわぁ……!」
俺は我武者羅に手を鳴らした。「それ万能じゃないですよ!」リリが慌てて俺を抱いて藪に飛び込む。俺たちのいた場所を球体が転がり去っていく。うち一つが突き出た岩に激突して、停止した。球体はむくむくと起き上がった。それはアルマジロのように体を丸めた熊だった。ハリネズミのように毛皮が尖っており、黄色と灰色の縞模様が入っていた。
「しまった……、こっちに来るだろうか?」
俺はリリの白衣に埋められたまま尋ねる。リリは俺の頭についた葉っぱを軽く払って答えた。
「草食動物ですから、危険はないんですが……。時々、今みたくローリングに巻き込まれる事故が起こるので、気を付けてくださいね。この時期は冬眠前の大移動で、数も多いんですよ」
俺は肝に銘じた。轢かれたらまたしても転生しかねない。
「何はともあれ、この世界の危険をきちんと認識していただけたようですね」
転がり去って行く熊を見ながらリリが言った。
「ああ……、うん。どうも簡単に飛び込める場所では、なさそうだな。何しろ全く知らない世界だ。知識と経験と、道連れがいる」
「そうでしょう」リリは満足げに肯いた。「もう、独りで樹海に行こうなんて、言いませんよね?」
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