エピローグ~




 僕はJR高山駅で18時48分発の特急ひだ20号にどうにか乗ることができた。

 あの町の駅であと1本電車を遅らせていたら、今日中に東京に戻るのは難しくなるところだった。

 特急ひだ20号は、下呂、美濃太田、岐阜に停車し、終着駅の名古屋に21時03分に到着する。

 21時台であれば名古屋駅発の新幹線は、のぞみがまだ何本もある。

 新幹線ホームの立ち食いきしめん屋もラストオーダーに間に合うから余裕で食べられる。


 僕はホッとしつつ車窓を眺める。


 日が落ちて暗くなった山の中を走っているため、車窓から外の景色は良く見えず、車窓に映った自分の顔しか見えない。

 車窓の中の僕の顔は、疲れが目元に滲んでいた。


 途中停車駅に入線すると外が明るくなり、僕の顔は見えなくなる。


 下呂、美濃太田では乗り込む乗客も下車する乗客も少ない。


 僕は半ばうとうとしながら、名古屋駅に着いた後の行動を考えていた。



 特急ひだ20号は岐阜駅に入線した。


 僕はボーっとひだ20号が速度を落として入線する岐阜駅のホームを見るともなく眺めていた。


 乗客はそこそこいるようで、各乗車口の位置に乗客が列を作っている様子が速度を落としたひだ20号の動きと共にゆっくり後方に流れて行く。

 そんなホームの様子に、少し違和感を感じる部分があった。


 列に並ばず、ひだ20号の中を覗き込むような仕草の男女と子供が居たように見えたのだ。


 僕は、車窓を開けてもう一度その親子連れを見ようとしたが、ひだ20号の車窓は乗客が開けられるタイプではなかった。


 僕は一番近くの乗車口まで行き、下車する乗客の最後尾について、乗車口から身を乗り出して親子連れの方を見た。


 その親子連れは、父親が子供の手を引きながらこっちに向かっており、母親は駅のホームだというのに全力でこちらに走って来る。


 あれは…ハル。

 ハルだ。

 大人になって綺麗になっているけど、面影はバッチリ残っている。


「ナツ、水臭いだろー!」


 ハルはそう叫びながら全力で僕に向かってきていた。

 僕は殴られる、あるいは体当たりされるのかと思って、乗車口の中に隠れたが、ハルはピタッと乗車口の前で止まり、僕の手をあの時のように掴んで僕をホームに引っ張り出した。


 その手は相変わらず力強い。

 そして、暖かかった。


「母さんが写真送ってくれて、夕方には東京に帰るってナツが言ってたっていうから、多分最終のひだ20号に乗ってるだろうって思ってさ、駆けつけてやったわよ。警官の勘を舐めんなよ」


 ハルは手を握ったまま、僕の目を見てそう言った。


「いや、警官の勘って……でも、よく僕の顔がわかったね」


「ナツ、あんた、日本人初の火星着陸者で火星地上生活モジュールで火星環境を変える実験を行う予定なんでしょ、ナツが思ってる以上にナツの顔はみんな知ってるの。

 それに母さんが最新のナツの顔を送ってくれてたし、それに……ハルの私がナツを見間違えることなんかないよ」


 ハルのその言葉は、意外でもなかった。

 けど、最後の一言は嬉しかった。


「ナツ……私の身長を抜かしたら宇宙飛行士になれるって言ったの、当たってたでしょ!

 それにもう私がナツのこと、応援しなくなったって思った? そんな訳ないって。見くびんなよな!」


 ハルも、昔僕と枝垂れ桜のところで話した他愛無い会話を覚えてくれていた。


 「ハルのこと、見くびったことなんか、僕は一度もないよ……

ハル……ありがとう」


 僕は鼻の奥がツンと熱くなり、涙が出そうになるのを必死に我慢して、どうにかそう返した。

 頭の中を色々な思いが巡る。

 何を話そうか僕は迷った。

 そうしているうちに、ハルと一緒にホームにいた男の人が、7,8歳くらいの男の子を連れてハルの横に来る。


 ハルは僕の手を離すと、男の子を抱え上げた。


「ナツ、私のダンナのリョウ。この子は息子のアキ」


 ハルはそう言って二人を紹介する。

 ハルの旦那さんのリョウさんは、がっしりした体格で背も今の僕と同じくらい高い。

 穏やかな笑みを浮かべたリョウさんは「涼しいって書いてリョウと読みます。ナツさん、どうも」と言ったきり、それ以上は喋らずにハルに任せている。

 ハルの尻に敷かれているというんじゃなく、ハルをしっかり受け止めたうえで信頼しているといった印象だ。

 ハル、男を見る目あるじゃないか。

 そう思ったら、僕の湿っぽい感傷はスッと消えて、ハルが今の幸せをこうしててらい無く披露してくれることを素直に祝福したくなった。


「アキは、ナツに憧れてるんだよ。ナツと私が幼なじみで、私の実家の隣に昔住んでいたって教えてあげたら、色々ナツのこと聞きたがってね、あること無いこと吹き込んじゃった」


 そう言ってへへっ、と昔と変わらない笑い方でハルは笑った。


「ナツ、アキと握手してあげて」


 ハルに促されて僕はアキくんと握手をする。

 アキくんの手は小さく、でもハルのように暖かい。


「今、年はいくつ?」と僕が問いかけると、アキくんはちょっともじもじしながら「……8歳……です」と小さな声で返事をする。


 その様子は、昔の人見知りだった頃の僕のようだった。


「お母さんと一緒にアキくんが枝垂れ桜に刻んだ身長の傷、見たよ。8歳であの身長なら、僕が8歳の頃の身長より全然大きい」


「でしょ、私とリョウの子供だもん」


 アキくんに話しかけたのに、ハルが得意げに返事をする。

 もうすっかり母親の顔だ。

 リョウさんも大きいし、ハルも175㎝以上はある。二人の子供なら、きっと体格的には十分大きく成長するだろうな。


「アキくん、いい名前だね。アキって、実り多い季節で、一年の苦労が報われる時期なんだ。きっとお父さんお母さんが、アキくんを実り多い良い人生を送れるようにって願いを込めてつけてくれたんだろうね」


 僕がアキくんにそう言葉をかけると、やっぱりアキくんはもじもじしている。


「アキくん、僕に憧れてるって、アキくんも宇宙飛行士になりたいのかい?」


「……うん、なりたい」


 アキくんは、僕のその問いかけには、少し考えたものの、はっきりと答えた。


「本当になりたいんだったら、きっとなれる。僕もくじけそうになったことがあるけど、アキくんのお母さんのおかげでなりたいって気持ちを持ち続けることができたんだ。

 僕もアキくんを応援する。

 アキくんが宇宙飛行士になって、火星にいる僕のところまで必ず来てくれるって信じてるからね。

 アキくん、指切りしよう」


 僕はそう言って握っていた手を離し、改めて右手の小指を差し出す。


 アキくんもおずおず右手の小指を差し出して、僕の小指と絡める。


「アキくんが嘘ついたら針千本飲まなきゃいけないのは大変だからね、僕がアキくんに誓うことにするよ。

 僕は、アキくんが火星に来れる頃には、火星に春と秋が出来るような目途を必ず着けておく。もし僕が出来なくても、アキくんの代で出来るように、必ず」


 そういって僕はアキくんと指切りをした。


「アキ、ナツはアキと同じ年の頃は体も小さかったし引っ込み思案だったし、今のナツになるなんて誰も思ってないくらいだったんだよ」


「ハルちゃん――アキくんのお母さん以外はね。それくらい僕って情けない奴だったんだ。そんな僕がなれたんだから、アキくんもきっと、努力を続ければなれるよ。

 それに君の名前は実りのアキ。きっと、僕らの努力を形にしてくれるって、僕は信じてるからね」


 僕がそう言い終わると、岐阜駅のホームに列車の発車を知らせる発車ベルが鳴り響いた。


 僕が特急ひだ20号に乗り込もうとすると、ハルはアキ君を抱きかかえたまま旦那さんのリョウさんから紙袋に入った何かを受け取って僕に手渡してきた。


「飛騨一宮水無神社のお守り! 火星が水で覆われるくらいの御利益があるようにって、願かけしといたから! 

 あとはおにぎり! 急いで作ったから不格好だけど、お腹減ったら食べてね」


 乗車口が閉まる直前に、ハルは大声で僕にそう伝えた。


 僕は渡された紙袋を抱えて、乗車口の窓越しにホームのハルたちに手を振った。

 ハルはアキくんを抱えたまま、左手でぶんぶんと手を振っている。

 リョウさんは、控えめに右手を挙げている。

 アキくんは、こちらをじっと見つめて、ゆっくりと右手を振っていた。


 特急ひだ20号はゆっくりとホームを発車し、ハルたちの姿はすぐに見えなくなった。


 僕は自分の指定席に戻り、紙袋を開けた。

 水無神社のお守りの横に、銀紙で包まれたおにぎりが2個入っている。


 あの枝垂れ桜を見ながら食べた、懐かしいハルのおにぎり。

 銀紙を開けてかぶりついた。


 中の具は種を取り除いた梅干しで、ハルの優しい気遣いは変わっていなかった。


 おにぎりを頬張りながら、目からこぼれそうになる涙を指で拭いた後、車窓を見る。


 車窓に映った僕の顔は、岐阜駅に着く前に比べると何だかすっきりしていた。










 春にさよなら         おしまい

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