春にさよなら 後編





 あれは小学2年生の4月だった。


 転校して来てわずか数日、全く学校に馴染めなかった僕は、家からほど近いこの神社に夕方一人でやってきていた。

 何でかっていうと、神頼みだった。


 名古屋から越してきたばかりで、都会から来た男の子ということでクラスの皆は好奇の目で僕の一挙手一投足に注目していた。

 でも、その当時の僕は身長も低く、それに比例して自分の体を上手く操ることもできていなかった。平たく言うと運動音痴だった。

 体育の時間の体力測定で、全ての種目で最下位に近い僕。

 クラスメイトの好奇の目は一気に幻滅に変わった。

 勉強は出来たけれど、都会から来て自分たちの学校とは違った授業を受けていたからだとクラスのリーダー格に決めつけられてしまった。

 それ以来クラスメイト達は僕に話しかけようとせず、僕を見てもひそひそと僕に聞こえないように話すようになっていた。


 その日は、帰宅前の掃除の時間にクラスのお調子者の子に、僕の紅白帽を掃除用具入れのロッカーの上に投げ上げられてしまうイタズラをされた。

 椅子に昇って取ろうとしたら何人かの女の子に「せっかく拭いた椅子に足で上がるなんてダメだよ」と言われて取ることも出来ず、皆が教室からいなくなってからコソコソと紅白帽を取りに戻った。悲しい、情けない、悔しい、色々な感情が僕の中で渦巻いていた。


 そして一度家に戻ってランドセルなどを置いた後、小銭を握りしめてこの神社に僕は泣きながらやってきたのだ。


 父親には学校でのことは話していなかった。

 仕事の他に僕の食事やら何やらの世話をしてくれている父親には、それ以上心配はさせたくなかった。

 お賽銭はお小遣いの余り、2枚の1円玉と1枚の5円玉。

 それを握りしめてさほど大きくはないこの神社の社まで行き、賽銭箱に掌の中で温かくなった7円を入れて、お祈りをした。

 二礼二拍一拝なんて作法は知らなかったから、本坪鈴を鳴らしてただ一心不乱に祈ったんだ。


 僕を受け入れてくれない、揶揄からかいあげつらうこの学校の人たちを何とかして下さい。

 そんな単純で他力本願な願い事を、ずーっと祈っていた。


 祈り終わって、スギ林の間から夕日が差し込む境内を振り返ると、そこに大きな人影が立っていた。


 それがハルだった。


 3月下旬に引っ越してきた時に隣の家には挨拶に行っていて、その時にハルとは顔を合わせていたけれど、大きい女の子だなと思って気後れしてしまい、とくに会話らしい会話もしていなかった。

 だから、境内にハルが立っていたことに、僕は本当に驚いたんだ。

 僕とハルは同じ年齢で一緒の学年だったけど、クラスは違った。

 だから僕は何でハルがそこに居たのかわからなかったし、もしかして熱心に祈り過ぎて声に出ていて聞こえたかも知れない、それで僕を情けない奴ってバカにするかも知れない、そう思うと怖くなった。


「何か珍しく鈴の音がするなって思ったら、隣に越してきた子じゃない。どうしたの」


 ハルは僕にそう言った。

 確かにこの神社は、僕とハルの家のすぐ裏手になる。

 でも鈴を鳴らしたら聞こえる程近いとは思わなかった。


 僕はハルの問いかけに何て言ったらいいのか迷った。

 何て返答すればバカにされずに済むのか、そう考え出すともじもじしてしまい何も言葉を返せなかった。


 ハルは、そんな僕に近寄った。


 僕は、後ずさりしようとして、でもそれも変だと思うと動けなかった。


 ハルは僕の手を取り「こっち来て」と言って、体の大きさどおりに強い力で、固まっていた僕の手を引いてこの枝垂れ桜まで連れて来たんだ。


 新学期が始まって数日しか経っていなかった時期。

 枝垂れ桜は6分咲きくらいで、垂れ下がった無数の枝に開いた花弁と咲きかけの蕾が沢山ついていた。


 僕は枝垂れ桜を見たのはその時が初めてだった。

 ソメイヨシノとは違う、たおやかに垂れる枝にやや赤みの強い桜色の花弁が無数に咲き誇る風情の美しさに目を奪われた僕は、しばらく学校での嫌なことも忘れて枝垂れ桜に見入っていた。


 ハルは、僕の手を握ったまま一緒にしばらく枝垂れ桜を見ていたけど、手を離して倉庫の脇に行き、何かを拾い上げると枝垂れ桜の幹にもたれて、拾い上げたもので自分の背丈の高さに印をつけたようだった。


「ここ、隣に来て」


 ハルに呼ばれてハルに近寄ると、ハルは僕に枝垂れ桜の幹にもたれて立つように言ったので、僕はその通りにした。

 ハルは僕の背丈の位置に、拾った何か――よく見ると割れた植木鉢の欠片だった――で印をつけた。


「君、名前はナツ、で良かったよね」


「うん、そうだけど、一回しか会った事ないのに」


「私がハルで君はナツ。覚えやすいじゃない」


 そう言ってハルは笑った。


「ナツは小さいねえ。背も小さいし、声も小さいし」


 ハルは僕の身長を刻んだ印を見て、ズケズケとそう言う。


「私はナツと違って大きい。けど、大きいからって凄くも偉くもないよ。他のみんなは人の目立って違うところをあれこれ言う。私も大女とか言われてるよ」


 今度は自分の身長を刻んだ印に目をやって言った。


「でも、いいじゃんね、別に人と違ってたってさ。私は私だし、ナツはナツだし。この桜だってさ、他の桜とは枝とか違って垂れ下がってるけど、咲く花のきれいさは変わらないしさ。私、断然この桜の方が好き。ナツはどう思う?」


 僕とハルは、枝垂れ桜の幹の横にいた。僕らの周囲に枝垂れ桜が伸ばした枝が垂れ下がり、まるで桜の傘の中に僕らは居るかのようだった。

 ハルの言葉は僕を肯定してくれる内容だった。

 この町に来て自信が無くなっていた僕に、そんなことを言ってくれたのはハルが初めてだった。

 同い年なのにハルは大人びて美しく見えた。


 僕には、僕に問いかけたハルが、まるで桜の傘をまとった春の化身のように思えた。

 

「うん、僕もそう思うよ。ありがとう、ハルちゃん」


 僕は、心から素直にその言葉を言えた。


 ハルはへへっと笑うと、じゃあ明日から毎日一緒にこの桜を見に来ようね、と言ってくれた――



 ああ、けっこう鮮明に思い出せる。

 普段はどうしても訓練などで忙しいから、昔のことなんて思い出す余裕もなかった。

 こうしてその場所に足を運んだら、僕自身の記憶の中に仕舞われていた思い出も鮮やかに蘇ってくるものだ。



 僕とハルは、それから毎日一緒に登下校するようになり、桜が散った後も、放課後も休日も殆ど一緒に過ごす友達になった。

 ハルと一緒に過ごしていく中で、少しづつ他の子たちとも仲良くなっていき、人見知りで引っ込み思案だったところも、少しづつ良くなっていった。


 他の子も交えて一緒に遊ぶようになったけど、春先に枝垂れ桜が咲く時期に、幹に身長を刻むことは小学校を卒業して転校するまでは、ずっと僕とハルとの二人だけの秘密の儀式だった。

 秘密の儀式とは言っても、殆どお花見感覚で、ハルが家で握ってきた銀紙で包まれたおにぎりを頬張りながらだったりしたが。

 結局小学校の頃は、僕の身長がハルに届くことは一度もなかった。


 ハルとは色々と話をした。

 その中で僕がハルを元気づけることを言っていたこともあっただろう。

 でも、僕がハルに勇気づけられることの方が僕にとっては断然多かった。


 特にハルが僕の夢――宇宙飛行士になること――をバカにしないで応援してくれたのは、僕にとっては本当に大きかった。


 僕が宇宙飛行士になりたいって夢を初めてハルに打ち明けた時、運動も出来ない背の小さい僕が宇宙飛行士だなんて、と否定されても仕方がないと覚悟していた。

 でも僕の夢を聞いたハルは、いいじゃない、私の身長を抜かせたら大丈夫だよ、と楽天的に肯定してくれた。

 なんでそんなに僕のことを肯定してくれるのか、僕はハルに聞いた。

「だって、私はハル。ナツのことを応援しない訳ないでしょ」

 それこそ、ナツの身長が私を追い抜かない限りはね、ずっと応援するよとハルは言った後、へへっと照れ隠しに笑っていた。


 ハルは、僕にとって本当に春だった。

 寒くて色の無い景色が、ハルに出会ったことで暖かさと彩りを帯びたのだから。



 僕がふと枝垂れ桜の幹にもう一度目をやると、5本のはずのハルの身長を刻んだ印が、更に4本刻まれていた。

 一番上の印は、よく見ると1本だけではなく、同じような位置に二重三重で線が刻まれている。

 おそらく、ハルは僕が引っ越した後もここで身長を刻んでいたのだけれど、高校生になった頃あたりで身長の伸びが鈍ったってことなのだろう。


 もう、今の僕は、ハルが刻んだ身長の印を少し見下ろすくらいの身長になった。

 ハルは、自分の身長を超えた今の僕を応援はしてくれないかな?

 心の中で自分にそんな冗談を言いながら、僕は倉庫の脇から植木鉢の欠片を拾って小学校の頃の僕が付けた身長の印の遥か上に、今の僕の身長を刻んだ。


 植木鉢の欠片を元の位置に戻して、ふと枝垂れ桜の幹に目をやると、夕日に照らされて結構新しい印が幹に付いているのを見つけた。


 それはハルの身長の印の、僕の身長の印とは反対側。

 ハルの身長の最高点と同じような位置にいくつか印が二重、三重についていて、その横に僕の小学校2年生の頃の身長と同じような高さから3本程印が付いていて、少しづつ印の位置が高くなっていっている。


 近寄ってその印を見ると、まだ真新しいようだった。

 つい最近付けられたようだ。

 不意にハルのお母さんの言葉を思い出した。

『ハルは、ついこないだGW中にダンナと一緒に子供を連れて一度家に帰ってきてたわよ』


 ああ、そうか、これはハルの子供の、身長の印なんだ。

 毎年子供と一緒に帰省した時に、ここで身長を測ってるんだ。


 よかった、ハル。

 旦那さんとお子さんと一緒に、幸せに暮らしているんだ。

 もう僕だけのハルじゃない、家族にとってのハルなんだ。


 喪失感とかじゃない。

 けれど、僕は、小さい頃の思い出に本当に区切りがついた、そんな気がした。


 ハル、さよなら。


 僕は僕の心の中の、小学生のハルに、別れを告げた。



 気が付くとハルに最初にこの場所に連れて来てもらった時のように、夕日がスギ林の間から差し込んでくる。

 もう夕方だ。

 5月の半ばだというのに、もうヒグラシの鳴き声が聞こえる。


 僕は来た道を戻り、駅へ向かう。

 電車の時間にはまだ十分に間に合う。


 歩きながら、僕は思う。


 少しづつ温暖化する地球環境。

 5月の半ばでもう既に夏が始まっている。


 すぐに地球がどうこうなってしまうという訳じゃない。

 でも、将来人類が地球以外の星にも住める環境を作る計画は動き出している。

 NASAが中心となって進めている火星に人類が移住する環境を作る計画プロジェクト

 それにJAXAから唯一参加するのが僕だ。


 僕の仕事は、冬と夏しか季節の無い火星に、春を作ること。

 何年、いや何十年先になるのかわからない。

 僕が生きている間にできるかもわからない。


 でも、僕は、火星に春を必ず作る。

 ハルに育んでもらった僕、ナツが。





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