春にさよなら 中編




 ナツくん、隣に住んでた頃は小さかったのにねえ、何年振り? いつもならウチの旦那も居るんだけど、今日はたまたまシルバー人材センターの仕事で山に行ってて帰って来るのが遅いのよ。ニュースでナツくんのこと取り上げられてて、私も旦那もハルもびっくりしたけど嬉しかったわよ~、とハルのお母さんが喋りながら入れてくれた冷えた麦茶を勧められるままに飲む。


 喉が渇いていたから、冷えた麦茶が喉に沁みこみ美味しく感じられた。


 さっき外までかすかに聞こえてきた、TVの午後のワイドショーは音量をかなり絞っていたが、画面はまだそのままだ。この番組で過去に僕のことを取り上げていたのを、ハルのお母さんは見たのかも知れない。

 お昼は食べた? うちはさっき冷や麦を今年初めて茹でて食べたんだけど、残りものになっちゃうけどあるわよ、と言われたけれど、名古屋駅できしめんを食べたので大丈夫です、と流石に断った。


 ハルのお母さんに、ここを引っ越してからどうしていたのかを散々尋ねられたけれど、ハルのお母さんは僕の父親とたまにSNSで遣り取りをしていたようで、父親に伝えていた近況などは知っていたようだったのでそれ以上の詳しいことはゴニョゴニョとお茶を濁した。


「ふーん、詳しく言えないことも、やっぱりあるものね。でもハルだったらナツくんにもっと根掘り葉掘り聞いてると思うわよ」


 丁度ハルに触れてくれたので、僕はここぞとばかりにハルのことを聞く。


「ハルちゃん、どうしてるんですか」


「ハルはねえ、今は岐阜市。警察官になったのよ。結婚して子供もいるわ。ダンナは警察の同僚。でも何となくナツくんに似て大人しくて、でも真面目で芯のしっかりした人。ついこないだGW中にダンナと一緒に子供を連れて一度家に帰ってきてたわよ。

 どうする、ハルを呼ぶ? 夕方には来れると思うけど」


 いや、結構です、今日中にどうしても東京まで戻らないといけないんで、と断る。

 実際に明日のフライトでヒューストンまで戻らないといけない。わざわざ来てもらうのは心苦しい。


 そう、でもきっとハルもナツくんには会いたいって思ってるはずなんだけど残念ね、とハルのお母さんは言った。


「ハルはナツくんが引っ越したの随分悲しがってたわよ。ハル、昔から体が大きくて、ナツくんには言わなかったかも知れないけど、揶揄からかわれてたりしたの。でもナツくんはハルが大きいこと全然気にしてなかったでしょう」


 僕はむしろ、ハルが大きいことを頼りにしていた。

 僕は転校生だったし勉強はできたけれど背が小さく、その頃は運動もあまり得意ではなかったので、転校してきたばかりの頃は同級生の何人かからイジリの対象になっていた。

 学校が終わってからも執拗にイジッてこようとする同級生たちから僕をかばってくれたのがハルだった。


「僕は、ハルちゃんには小さい頃、助けてもらってばかりでしたから」


「そうだったかしら? 私はナツくんのおかげでハルが自信を持てたって思ってたけれど。ハルが警察官になったのも、ナツくんのおかげ」


「いや、そんなことはないですよ。ハルちゃん、昔から面倒見が良かったからじゃないですか」


「ううん、ナツくんに言われたんだって。体が大きいのも才能だから、絶対それは人のためになるからって。

 だからハルは、中学生になってから柔道始めてね。柔道もきっかけになって警察に入ったのよ」


「そうだったんですね。覚えてないなあ。僕の方こそハルちゃんには、いつも庇ってもらったり慰めてもらったりで。今の僕があるのも、ハルちゃんのおかげなんです」


 そう、小さい頃からの僕の夢を諦めずに済んだのも、ハルが肯定して応援してくれたからだ。

 応援してくれる人が居なかったら、多分その頃の僕は夢を諦めていただろう。

 今の僕も居なかったはずだ。


 ハルのお母さんは麦茶を空になった僕のグラスに注ぐと、

「ナツくんにそんなこと言われたら、ハルも凄く喜ぶと思うわ。

 ナツくん、写真撮らせてちょうだい、ハルに送るから」


 そう言って僕の横に来て、スマホを取り出す。

 ハルのお母さんの横で、僕は上手く作れたかわからない、微妙な笑顔で写真に収まった。



 僕の立ち去り際にハルのお母さんは、散々引き留めてくれた。


「ナツくん、ナツくんが行くところって、どれくらいかかるの」


「……だいたい1年くらいです」


「遠いのね。それに絶対に安全ってこともないんでしょう?」


「それは、そういうものですから」


「ハルに、会って行ってよ。せっかくここまで来たんだから、ナツくんだって本当は会いたかったんでしょう?」


「ええ、もしこの家にハルちゃんがまだ居たら、会いたいなとは思ってました。けど、わざわざ来てもらうのはハルちゃんと今の家族の時間をだいぶ貰っちゃうと思うので。それに僕もそんなに時間に余裕がある訳でもないものですから」


 結婚して子供がいて家庭を持っているのであれば、やることは山積みだろう。

 幸せに暮らしているハルの手を煩わせたくはなかった。


 またいつか、戻ったら必ず伺います、とハルのお母さんに伝え、僕はハルの実家を後にした。


 ハルの家の外に出ると、午後の日差しはまだだいぶ強かったが、少し太陽が地面に近づいてきている。

 平野部に比べると、山間部のこの町の日照時間は多少短い。

 日没まではあと2時間程度はあるだろうが、辺りの空気は何となく夕方の様子を漂わせている。


 帰りの電車の出発時刻を確認する。

 列車本数が少ないので1本逃したら大事だが、ちょうど先程列車が発車した後で、あと1時間程度待つ必要があった。


 僕の足は、昔ハルと一緒によく遊んだ、神社の脇の広場へと向かう。

 スギの林に囲まれた神社は、少し小高い丘の中腹に開けている。


 神社はちょうど僕の家やハルの家がある集落の裏手に当たるが、神社への参道入口は集落の手前のスギ林からになっている。

 スギ林の中の石段を登り、境内の鳥居をくぐる手前に、脇に行く踏み固められた道が付いていて、その先に広場がある。

 広場と言っても遊具が設置されていたりはせず、おそらく神社の常例祭で使われる灯篭などが仕舞われている倉庫が一つあるだけだ。

 その倉庫の横に、何故か一本だけ立派な枝垂れ桜の樹が立っていた。

 僕とハルは神社の境内でも遊んだが、二人にとっての特別な場所は枝垂れ桜のある広場の方だった。

 今でも広場にその桜の樹はあるのだろうか。


 僕は記憶を頼りに石段を登り、脇道に入り少し進むと、思い出のとおりに倉庫と枝垂れ桜が、今も変わらずにそのままそこにあった。

 当然5月も半ばのため枝垂れ桜の花は全て散っており、地面に落ちた花びらも土に還っている。


 色々とこの20年で変わっていたけれど、そこだけは20年前と変わっていない。


 僕は自分の思い出を確かめるようにその枝垂れ桜に近寄り、幹に手を触れた。

 僕が手を触れたところに、ちょうど横に5㎝程度の長さで幹に傷がつけられている。


 この傷は、ハルがつけたものだ。


 ハルは小学校6年生で既に身長165㎝くらいはあった。幹の傷に土埃が溜まっていて枝垂れ桜に触れるくらい近寄らないと一見分からないが、ちょうど今の僕の胸よりも少し低い位置にその傷はあった。


 その横に、僕が刻んだ自分の身長に合わせた傷もついている。


 小学2年生から6年生の時まで、5本刻まれたその傷は、横に刻まれたハルの身長の傷よりもだいぶ低い位置にある。


 本当に僕は小さかったのだ。


 僕は最初にこの傷を刻んだ時のことを思い出した。



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