春にさよなら
桁くとん
春にさよなら 前編
四季のある国は意外と多くない、というと語弊があるかも知れない。
日本のようにはっきり季節の移ろいが感じられる国や地域は少ない、という方が正しいんだろう。
これまで僕は数年アメリカのヒューストンに居たけれど、過ごしやすい気候で快適ではあったものの、日本ほど季節のメリハリは感じられなかった。
僕は、これからヒューストンよりも、もっと四季のぼんやりした場所へ行くことになっている。
長い夏と長い冬の交互の繰り返し。季節ごとの大きな寒暖差はそれほどない。
そして雪も降らない。
ただし、一日のうちの寒暖差は極めて激しい。
僕がこれから行くところは、そんなところだ。
もう僕は一度出発したら、おそらく日本に戻ることは無いだろうと思う。
だから、日本を離れる前に、一度故郷の町に戻って景色を目に焼き付けておきたかった。
とは言っても、僕の幼少から少年期は父親が転勤のある仕事だったから引っ越しを繰り返しているので、正確には故郷と言えるのだろうか。
でも、僕が久々に帰って来た日本で、いま父親が住んでいる東京近郊の家以外でもう一度見ておきたい場所というのは、僕が小学生の頃住んでいたあの町だった。
そして、あの町で、小さかった僕の面倒を見てくれた隣の家に住んでいたあの女の子の思い出。
追憶? そうかも知れない。
岐阜県飛騨地方にあるその町の駅に降り立った5月中旬の午後、その町は、暑かった。
僕が小学2年生から小学校卒業までを過ごしたこの町は、標高の高い山間の町。
僕が住んでいた頃は、5月はもっと、何と言うか、過ごすのに丁度良くなる時期だったような覚えがある。
山間の町の4月はまだ肌寒い日も多く、降雪こそ無かったものの突然寒さがぶり返してきたりしたものだ。
5月になったらようやく出かける時に防寒の上着が要らなくなり、こたつなどの暖房を片付ける決心を休日の親がやっと出来るというような。
僕の記憶の中のこの町の5月はそんな感じだったのだけれど、今日はもう着ていた長袖のシャツが汗でベタベタになる程に暑かった。
僕は長袖のシャツを脱いでTシャツ姿になった。
東京近郊よりも涼しい風が僕の体を優しく撫で、暑さを和らげてくれる。
目的地は特に決めていなかったが、僕は僕の家があった場所を目指して歩き出した。
記憶を頼りに道を進む。
僕の記憶の中で交通量が多い広い道だと思っていた通りは、大人になった今こうして歩いてみると2車線の普通の道だ。平日の午後ということもあって、通行する車もまばらだ。
通学路になっていた、商店が軒を連ねていた路地に入る。
もう殆どの商店は店を閉めていて、シャッターが下りているか看板や装飾を外し普通の民家風に改装されていた。
揚げたてのコロッケの香りに鼻と空きっ腹をくすぐられた精肉店も、小中学生の社交場だった駄菓子を置いていた文具店も、もう既に閉店していた。
路地を抜けてなおも進むと、田園風景になる。
昔は田んぼで、5月の今頃は水が張られて田植えが終わった頃。でも今は殆ど畑に転換されていて、中には草ぼうぼうで放置され、使われていない土地になっているところも多かった。
夜になるとカエルの合唱がうるさくて家の辺りまで聞こえてきたものだったけれど、多分今はそんなにうるさくはないのだろう。
昔、あの子とよく遊んでいた神社の参道入口のあるスギ林の前を通り過ぎ、角を曲がると、10軒程家が集まった集落が見えてきた。
そこに僕たちが住んでいた借家があった、のだけれど、遠目に見ると家の数が減っているように思った。
僕が昔住んでいた借家は、もう取り壊されて空地になっていた。
父親の会社が用意してくれた一軒家だったが、さすがに僕たちが住んでいた頃から20年以上経っている。木造の2階建てで、当時でも少し古めかしく感じられた家だったから、当然と言えば当然だ。
ただ、住んでいた頃は随分と広いように思っていたのだけれど、こうして取り壊されて空き地になった場所を眺めると、けっこう狭かったんだな、と感じてしまう。
住んでいたところが無くなっているのを見るのは、自分の寄る辺が無くなったというような寂しさを僕の心の中に植え付けた。
僕の家のあった場所の右隣の家。
幼い頃よく一緒に遊んだ女の子、ハルの家はまだそこにあった。
でも20年の歳月の分だけ変化したところもある。
例えば、3台駐車できる立派な車庫は、僕が隣に住んでいた頃は無かった。
おそらく、成長したハルが車に乗るようになったので作ったのだろう。
まだハルはこの家に住んでいるのだろうか。
ハルの家からは、誰かが在宅しているようで、TVの音が漏れ聞こえてくる。
僕はハルの家の立派な車庫の脇を抜け、ハルの家の玄関前まで行く。
僕は少し迷ったけれど、インターフォンのボタンを押した。
ピンポーン、とチャイムの音がインターフォンから流れる。
しばらく待ったが、中からの反応は無い。
もう一度インターフォンのボタンを押したけれど、やはり無反応。
こんな田舎でも、怪しい訪問販売などが訪れていて警戒されているのかも知れない。
昔とは、色々と変わっているのだから仕方がない。
僕がそう思い、立ち去ろうと
僕はまた、ほんの一瞬迷ったけれど「昔、ハルちゃんが小さかった頃、隣にあった家に住んでいたナツって言う者です」と名乗った。
遠くへ行くことになったので、と来訪理由を続けようとしたところ、「ナツくん! 懐かしい! ちょっと待っててすぐ玄関開けるから」と女性の声がうって変わったように明るくなってプツッと通話は途切れた。
すぐににトタトタと廊下を走る音がして三和土をサンダルで移動するチャチャっという足音とともに玄関の鍵がカチャンと勢いよく開けられる。
玄関を開けてくれたのは、年を重ねて白髪や皺が増えていたが、紛れもないハルのお母さんだった。
「ナツくん! 立派になったね! 駅から歩いて来たの? 暑かったでしょう、この辺も昔と違って冬が終わると急に夏みたいになっちゃうようになったから。ささ、上がってお茶でも飲んでって」
ハルのお母さんは一気に捲し立てるように喋った。
そうだった。
ハルのお母さんは、よく喋る明るい人だったっけ。
ハルが明るく面倒見の良い子に育ったのも、このお母さんの影響なんだろう。
父子家庭だった僕の家のことを気にかけてくれて、父親が帰るまでの間、僕の面倒をハルと一緒に見てくれたりしたこともあったけど、本当によく喋る人だった。
僕がそんなことを思っているとハルのお母さんは僕を引っ張り込むかのような勢いで玄関に通し、立ち話のつもりだったのにリビングにまでいつの間にか通されてしまった。
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