第32話 悪意と盲愛

 僕の意識は、二人の死闘を前に、段々と鮮明になっていった。だが、まだベッドから起き上がれるほどでは無く、機能を失ったであろう右目では見えないために体を横に倒す。


 姉さんの脳天を狙って振り下ろされた一撃は、姉さんが真横に転がることで空振りに終わり、室内に甲高い音を響かせる。その一撃には明確な殺意こそあったが、それを避けられても戸賀崎さんは笑みを浮かべたままだった。周囲に満ちるは、殺意。しかし、それすらも彼女はたのしんでいる。


「透くんにはいっぱい教えて貰ったんだぁ。指を折る時と腕を折る時の音じゃ、やっぱり違うんだよね。後は眼球の感触とか? あ、そうそう! やっぱり動脈血って真っ赤なんだね! あの時はさすがに死んじゃうかと思って焦ったけどさぁ! あっはは! 後ねー、爪を剥がす時って──」


 たのしそうな、語り口。

 その時、意識こそ浮上していなかったが、体は覚えている。頭が、目が、腕が、指が、全てが痛みを発し、その感覚を思い出した瞬間に血の気が引き、自然と体が震え始める。


「お前ぇぇぇぇ……!!」


 バットを空振りして出来た隙に、姉さんは立ち上がって再びナイフを構え、地面に亀裂が出来るほどに踏み込み、真っ直ぐに手を伸ばして戸賀崎さんへと迫る。


「狙いが雑。この距離で真っ直ぐ手を伸ばしちゃダメだよん」


 戸賀崎さんはその場からは動かず右半身だけ斜め後ろにずらしながら、バットを持ったまま姉さんの手首に対して、垂直方向になるよう拳を当てて弾くように軌道をずらす。姉さんのナイフは先程まで右半身があった場所に突っ込み、急に力のベクトルを変えられた故に体のバランスを崩した。その刹那に戸賀崎さんは右手をバットに添えて、背後から再び姉さんの頭部を狙って横に振る。だが、バランスを崩しながら背後に一瞥もくれず、直ぐに体勢を低くすることで、それを避ける。


「今のは勘? ふーん、センスはあるって感じ?」


 戸賀崎さんはスイング後の隙を消すためか、三歩バックステップで姉さんのナイフの攻撃圏内から逃げた。その声にはまだまだ余裕がある。姉さんも、左手で鳩尾部分を抑えつつも特に危なげな様子もなく立ち上がった。


 今度は、両者が同時に動く。確実性を取ったのだろう、姉さんは腰だめにナイフを構えて突っ込む。目で追えないスピードを戸賀崎さんは捉えているのか、斜めに構えたバットの曲面を利用して再びナイフの軌道をずらす。そして、再び両者は距離を取る。


「真っ当な護身術かは知らないけど、何が役立つか分かんないもんだね」


「これ、要らないわね」


 明らかに優勢で余裕を持った戸賀崎さんに対し、姉さんは冷静な表情で握っていたナイフをその場に落とした。同時に、再び目に追えない速さで地を蹴った。


「ヤバ、っ……!」


 咄嗟に戸賀崎さんは横へ跳ぶが、構えを解いていなかったバットが慣性でその場に残り、姉さんの拳はそれを捉えた。


「痛ったぁ……」


 バットが掻き消え、直後に壁へと何かがぶつかる音がする。視線を動かすとひび割れた壁に、まるで車と衝突したかのようにひしゃげたバットがめり込み、やがて高い金属音を立てて床に落ちた。戸賀崎さんは手首を痛めたのか、顔を顰めてだらりと下げた左手の手首を押さえている。

 これで、戸賀崎さんは両腕が共にある程度負傷している。どの程度なのかは分からない。ただ、それは姉さんも同じ。どちらかが優勢なのか、僕には分からない。ただ、ベッドの上で上半身を起こし、唯一見える左目を向けるだけ。足を動かそうとすると強く痛みが走る。潰されて回復しきってない喉からは、掠れた小さな声でしか出すことはできないのだから。


 姉さんは、ひしゃげたバットを一瞥すると細く長く息を吐く。拳を痛めた様子はない。その間に、戸賀崎さんはバックステップで姉さんから再び距離を取っていた。戸賀崎さんは武器を失い、姉さんは体そのものが武器。戸賀崎さんの護身術がどの程度のものなのか、それによって結末も変わってくる。


 ──結末?


 結末とは、なんだろうか。

 僕には、分からない。


 姉さんが右手を振り上げ、地を蹴る。対する戸賀崎さんは、再び横に跳びながらも、両腕を胸の前で交差させて防御態勢を取る。しかし、姉さんの拳はしっかりと戸賀崎さんの胸元を捉えた。鈍くて嫌な音。僕にとっては最近聞きなれている音。


「ぐ、うっ……!」


 衝撃で飛ばされた戸賀崎さんが地面を転がり、鉄格子へとその背中が強く打ち付けられ呻き声が漏れた。


「透の痛み、少しは分かった?」


 姉さんが近づき、戸賀崎さんの髪を掴んで無理やり立ち上がらせ、首を傾げる。その声は何処までも冷たく、鋭い。戸賀崎さんからの返答はなく、ただ荒い息を吐くだけ。見た目でこそ分からないが、室内に響いた先程の音。確実に、腕の骨は折れているだろう。力なく下げられた左腕はもう使い物にはならないはずだ。額にもびっしりと脂汗が浮いている。


「ナイ、フ……なんて、要らないじゃん……。この化けも──……っぁ、ぁぁぁ……!!」


 息も絶え絶えに、それでも無理矢理に笑みを浮かべる戸賀崎さんを、姉さんは髪を掴んだまま放り投げる。狙ったのかどうかは分からないが、左腕から地面に投げ出された戸賀崎さんは叫び声に似た声を上げる。

 勝敗は、決している。いくら戸賀崎さんが護身術を身につけていても、単純に姉さんの身体能力の前には意味を為さなかった。


 戸賀崎さんは僕のベッドの対角線上で、よろめきながらも何とか立ち上がろうとしていた。姉さんがゆっくりと近づいてくる。


 ──不意に、戸賀崎さんの、狂気に満ちた笑みと視線を、感じた。


 動く右手で素早く制服のスカートを捲り上げると、太ももに固定されたベルトから何かを取り出し、僕へと向ける。


「透っ……!!」


 姉さんの叫び声と、大きく響く破裂音は同時。両手を大きく広げて僕と戸賀崎さんの間に入った姉さんは、左肩を抑えた。続けて、もう一発の破裂音。


「っ、あっ……!」


 苦悶の声と共に、姉さんはその場に膝を付く。シャツの左肩部分に赤黒い染みが広がっていく。


「肩と足、かー…。透くんの頭、狙ったのに、さすがに、この距離じゃ、ブレるね……。しかも、装弾数二発、だし……」


 立ち上がった戸賀崎さんの手に握られていたのは、通常よりもずっと小型の拳銃。まだ硝煙を上げるそれを、戸賀崎さんは傍らに投げ捨てる。姉さんもまた一拍置いて立ち上がると、僕のベッドへと足を引きずって、よろよろと近づいてくる。自分が怪我を負っているというのに、その瞳に浮かぶのは僕への純粋な心配だけ。


「とお、る……怪我は──」


 ──僕には見えた。


 よろめきながらも立ち上がった戸賀崎さんが右手に何かを持ち、目を見開き口が裂けんばかりの笑顔を浮かべて向かってくるのが。


「ねえ、さ──」


「化け物ぉ、退治ぃぃぃぃ!!」


 戸賀崎さんの狂気じみた叫び声が響いた。何処からか取り出した金槌を振り上げ、容赦なく姉さんの頭上へと振り下ろす。銃弾を受けた直後、そして僕の心配で頭が一杯だったからか。

 姉さんは、避けられなかった。


「ぁ、がっ……」


 真上から頭の中心へと叩き込まれ、ゴキリとはっきりと音が聞こえた。驚愕か、目を見開いた姉さんが、力無くその場に倒れる。


「あはっ、あはは、はははっ……!! 花音ちゃんを甘く、見るから、だよー!! おらー!!」


「や、め……」


 僕の声は届かない。再び、姉さんの頭に凶器が、狂気が、愉悦と共に叩きつけられる。姉さんは、ぴくりと動かない。ゆっくりと、血溜まりが広がっていく。


「あはっ、あはははははははは……!! 逆転っ、勝利ー!! 正義は、勝つのだー!! ぶいっ!」


 室内に歪んだ笑い声を響かせながら、戸賀崎さんは満面の笑みで僕にピースサインを向けた。

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