第28話 愉悦の時

 意識が戻る。


 窓のない部屋のために時間は分からない。今は朝なのか、昼なのか、夜なのか。電気は点けっぱなしだった。戸賀崎さんの姿はない。足の拘束具は、いつの間にかなくなっていた。

 座った状態だったからか身体が軋んでいた。一先ず立ち上がると、二、三歩よろけてしまう。ふらふらと鉄格子の入口へと手をかけて引いてみるが、当然それは固く閉ざされていた。


「痛っ……」


 強い痛みを感じて腕を見ると、そこには幅の広いテープで留められた大きなガーゼがあった。僅かに、黒く変色した血が滲んでいる。意識を失う寸前のことを思い出す。

 豹変した戸賀崎さんに切りつけられたそと。そして、 姉さんの名を、尋ねられたこと。


「僕は……」


 姉さんの名前を、思い出せなかった。いつも姉さんとしか呼ばないために考えたことがなかった。


 ──僕は、大切な姉の名前さえ忘れてしまったというのか。


 姉さん、姉さん、姉さん。幾度も心の中で呼ぶ。しかし、僕の頭に名前は降ってこない。


 僕は。

 僕は。

 僕は。


「あっ……、あぁぁぁぁ……!」


 絶望を抱え、がむしゃらに鉄格子を前後に揺する。ガタガタと重い金属音が、リノリウム製の室内に大きく反響した。


「ちょっとちょっとー、どしたの?」


 戸賀崎さんの声が聞こえた。扉の開く音とゆっくりと階段を降りてくる足音。やがて、にこにことした浮かべた彼女の姿が現れる。


「っっ……!」


 蘇る昨日の記憶に、僕は反射的に鉄格子から手を離して後ずさった。


「そんな怖がらないでよー。今日は、体を・・傷つけるつもりはないからさぁ。ほら、あの箱もないでしょ?」


 あからさまな僕の態度に戸賀崎さんは眉根を寄せて唇を尖らせる。可愛らしい表情。しかし、その奥底に潜む狂気を僕は知っている。そして、戸賀崎さんの言葉の通り、昨日置かれていた凶器の入った箱は片付けられていた。代わりに片手には、少し厚めの何かの紙を指に挟んでひらひらと揺らしている。


「で、さ、昨日は途中で終わっちゃったわけじゃん?」


 紙を挟んでいる方とは別の手に持たれていた鍵で、扉の鍵が開けられる。当然ではあるが、鉄格子に入った後にはしっかりと再び鍵は閉じられる。


「ま、とりあえず座りなよ」


 声色こそ優しげなものであるが、その瞳には鋭い眼光が漏れている。下手な抵抗をする気はない僕は、言われた通りにソファへと座る。


「で、どう? お姉さんの、お名前は?」


 とん、とん、と跳ねるように戸賀崎さんが背後に腕を回して近づき、上半身を屈めて僕の顔を覗き込む。小首を傾げた彼女の言葉が、僕の心に突き刺さった。


「それ、はっ……」


「思い出せないー? まぁ、分かってて聞いてるんだけどね?」


 くすくすと、悪意を持った笑いが零れる。戸賀崎さんは、僕が姉さんの名前を知らないことを確信していたようだった。


「じゃ、昨日の続きね」


 にたりと、口端が歪む。


「秘密そのいちー。お姉さん、高校行ってないよ。行ってるように見せかけてるだけ。普通さ、あの性格なら同じ学校に通うと思わない?」


「えっ……?」


 姉さんはいつも、僕よりも早く家を出て、僕よりも早く家に帰っている。そして、思い返してみれば、学校の話を聞いたことは無い。けれど、そんなこと。


「確実だよ。ウチにいる、おにーさん達が調査してくれたからさっ」


 キラキラと、瞳が輝く。

 戸賀崎さんの言っていることは本当なのだろうか。いや、嘘を言っている可能性は十分にある。


「まぁ、何をしてるかっていうと。透くん観察? 監視? だね。言うなればストーカーみたいなもの。いつも学校の外から様子を見てる。愛する弟を護る守護天使的な? あははっ!」


 その笑い声には明らかな嘲りの色が滲んでいた。あんなことをされたとしても、姉さんは愛する一人の家族。そんな風に言われては、苛立ちが募る。


「そんな怖い顔しないでよー。証拠写真はあるよ? 持ってきてないけどさ」


 なら、現物がないのであれば、証拠にはなり得ない。観測しない限り、それは現実ではない。


「あ、一旦お休みしよっか? 何か早速、目が虚ろになってるし。じゃあ、別の話を挟んであげる。花音ちゃん、優しー!」


 僕から少し離れて、自画自賛の拍手を自身に送る。片足を後ろに曲げて、ウインクをこちらに飛ばしながらの光景は、まるでアイドルのようだった。しかし、向けられる視線に浮かぶのは濁った愉悦。きっとまた、悪意の刃が突き付けられる。

 上げていた片足がゆっくりと地面に降りる。コツリと、小さな音が鳴る。

 そして、戸賀崎さんは人差し指を真っ直ぐに立てて、僕のことを指差した。


「ズバリ! 透くんは記憶障害など起こしていないのだー!」


 戸賀崎さんが何を言っているのか、僕には分からなかった。しかし、以前に先生に言われた言葉が蘇る。本当は自分の記憶が正しいのではないか、と。


「どういう、意味……?」


「私から透くんへのサプライズ的な? さ、ネタばらししちゃうぞー!」


 万歳をするように両手を上げた戸賀崎さんは、満面の笑みを浮かべた。


「まずねー、私たち、同じ中学なんかじゃないよー? 当然、昔みんなで遊んだことなんてありませーん! 昔、優しくされた? 会ったこともないのにそんなことあるわけ無いよねぇ! あっはは!!」


 口許に手を当てて、笑う

 以前にファミレスで聞いた話。僕が孤独に突き落とされた話。それを、真っ向から否定される


「えっ……?」


「だからさ、忘れてたかもしれない記憶、なんて最初から無いんだよ。一緒に遊んだ、とかさー。話したことないはずの子に急に話しかけられた、とかさー。約束バックれた、とかさー。そんなこと、そもそも起こってないの。一緒に遊んでないし、話したことないし、バックれてもないし。透くんの記憶が正しいの。もちろん、私も告白なんてしてないよ?  あ! 待って! 透くんに好意を持ってるのはホントだよ?」


 それは爛々とした目で、たのしそうに。最後の言葉は慌てた様子で、上目遣いで、媚びたように語られる。けれど、そんなことはどうでも良かった。脳内が、ぐるぐると混乱する。


「皆に協力してもらったの。透くんを精神的に追い詰めるために。最初は、小林くんとか個人に頼んで。後はほら、クラス皆いなかった時あるでしょ?昼休みに。面倒だからあの時一気に頼んだんだー。皆、快く引き受けてくれたよ?」


 小林くん。僕に親しくしてくれた存在。少し、心を許し始めていた。快活とした彼に、学校生活での光を微かに見出していた。それは、造られたものだったというのか。視線が、自然と地へと落ちていく。

 心が、堕ちていく。


「あ、大丈夫大丈夫! 透くんが嫌われてるとかじゃないから。簡単なコト。買収したの」


 戸賀崎さんが、僕の様子を勘違いしたらしい。慌てて付け加えられる言葉。しかし、それは一介の高校生からは出ることのない言葉。


「ばい、しゅう…?」


「そ、買収。みーんな、大好きだからねぇ! お・か・ね! 簡単だったよ、ホント。一応、隣のクラスも巻き込んだんだー。あんまり意味はなかったかな? ま、私と透くんの関係を広める一助にはなったかもだけど」


「なんで、そん、な……」


「えっ? たのしいから。好きな子に意地悪しちゃうやつ? あれ? そんなのなかったっけ?」


 頬に指先を当てて、戸賀崎さんは小首を傾げた。

 お金で買われて、彼らは彼女に協力した。存在しない記憶によって、僕を惑わせた。僕はそれに踊らされた。自分で自分が信じられなくなった。それはただ、楽しいから、だと。無邪気に振る舞う彼女からは、言葉の通り楽しげな様子しか感じられない。その言葉が本当だとして、何故。何が楽しいのか。


「いやぁ、良かったよね。自分の記憶、信じられなくなったでしょ? 傍目から見ても分かるくらいに消耗してたもん。辛かったよねぇ? 苦しかったよねぇ? それが良いの! 透くんのそういう表情が、堪らなく愛おしくて、それが透くんが持ってる魅力なんだよ! ねぇねぇ、今さぁ、今さぁ、どんな気持ち? どんな気持ち?」


 髪を掴まれ、無理矢理に顔を持ち上げられる。僕の表情全体を舐め回すような視線が這い回り、戸賀崎さんの口端から涎が垂れた。反対側の手の甲によって、それは拭われた。


「いいなぁ! いいなぁ! その表情! 昨日の痛みに苦しむ顔とはまた別の魅力? あはっ、目の焦点合ってないよぉ?」


 視界の中の戸賀崎さんが、揺らめいて見える。忘れたい。こんなこと聞きたくない。


 忘れたい。

 忘れたい。

 忘れたい。


 脳内にもやがかかり始める感覚を覚え──


「だから、忘れちゃダメ・・・・・・だってば」


 髪を更に上に引っ張りあげられ、耳元で囁かれたその言葉で、広がり始めていた靄が霧散した。

 不意に、気付く。今回も、姉さんの時も、『忘れては駄目だと』、そう言われたことを。いつもならば忘れているであろう事は、連続性を持った時間の中で保たれている。

 そういうことなのかと、覚えていろと言われれば、僕の記憶は消えないのかと。


「記憶を意識の底に沈殿させて逃げるのはダメだよー? もっと消耗している姿を私に見せて? じゃ、それじゃ改めてメインデッシュ」


 ──お姉さんの、秘密の続きを。

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