第26話 こんにちは、絶望
白いセダンから、軽くウェーブのかかった亜麻色をショートヘアにした女が降りた。羽織ったままの白衣からくしゃくしゃのセブンスターのパックを取り出し、車に寄りかかって紫煙を燻らせる。
「あーあ、迎えに行こうと思ったのに。先を越されちゃったねえ。さぁて、どうしたものか」
言葉とは裏腹に、女には焦った様子はなく、へらへらと軽薄な笑みを浮かべていた。
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僕は、血塗れの部屋の中に立っていた。周囲に散らばるのは両親だったモノ。ただ地面にひれ伏してびくびくと、痙攣している。その目は、もう何も映していない。僕は、その光景を見て、ただただ立ち尽くしている。
目の前には、僕を庇うように目の前に立つ一人の少女。殺人鬼のいるであろう部屋で、気丈に振る舞う少女。その視線は──
▼
頭から冷水を思い切りかけられたような感覚に、意識を取り戻す。
「おっはよー!」
軽快な声が室内に響く。視界を上げる。仄暗い室内と、戸賀崎さんの姿。目の前に垂れる雫、彼女の手に持たれたバケツを見る限り、比喩ではなく本当に冷水をかけられたようだった。
「本当に冷水ぶっかけると起きるんだねー!」
彼女は心底、
僕は覚醒したばかりのぼんやりとした意識で周囲を見回す。部屋は八畳ほどの広さだろうか。リノリウム製と思わしき床。僕は柔らかく座り心地のいいソファに座られている。腕は前側で、手首を麻縄で縛られていた。かなりしっかりと縛られている。一方で、足は何もされておらず自由。後は何より、周囲を囲う鉄格子。
戸賀崎さんは、とても魅力的な笑顔を浮かべていたが、僕は覚醒していく意識の中で疑問符しか生まれなかった。
「戸賀崎さん? これはどういう……」
「えっ? あぁ、此処が今日から透くんのお部屋ね。突貫工事だったけど、よくできてるでしょ? あ、もしかして鉄格子が気になる? ごめんねー、ちょっとでも対策しないといけなくて。ええと、後ろに衝立で囲まれた所があるんだけど、水洗式のトイレだから。ちょっと腕が大変かもだけど、足は自由だから大丈夫でしょ? ただ、ご飯に関しては──」
「ちょ、ちょっと待って……!」
「なに?」
説明を遮られたのが不満だったのか、戸賀崎さんの眉間に皺が寄る。ほとんど見たことがない表情だ。
「そういうことじゃなくて、今の状況が……」
「えぇ? 見て分からない? 監禁だよ、監禁。私が、透くんを、監禁したの」
「えっ……」
「んー、お姉さんに煽られたから? まぁ、いずれにしても、いつかやる予定だったけど」
「なんで……?」
「あはっ、いい表情。そういう表情がいいんだよね、透くんは。そういうとこ好き。だから監禁しちゃった! なんてね!」
何処までも
「……あ、そうだ!」
何かを思い出したのか、広げた手の平を握った拳で軽く叩く。
「ご飯はねー、基本最低限しかあげないよ。そこをクリアする条件はたった一つ、『一生、私の
「…………」
僕は、無言のまま首を横に振った。今の状況でそんなことを言われて、承諾できるはずがない。そもそもこの状況に、戸賀崎さんの姿に、困惑をしたままなのだから。
「そう? 気が変わったら教えてね。でも、変わらなくてもいいよ。その方が、私も
戸賀崎さんは、僕の顔を覗き込む。歪んだ笑顔で。妖しく光る眼差しで。ぞくりと、寒気を覚えた。何に対してかは、よく分からない。いや、分かりたくないのかもしれない。
「んー、どうしよっかなー。どっちからにしよっかなー」
戸賀崎さんは顎に人差し指を当て、何かを思案しながら僕の座る椅子の周りをコツコツと音を立てて歩く。僕の前に再び戻ると、急に僕の肩を掴んで鼻がくっつきそうな程に顔を近づけた。柑橘系の香りが漂う。
「ねぇねぇ! 精神的なのと肉体的なのと、どっちがいい?」
「……えっ?」
質問の意図が分からずに、首を傾げる。対して、戸賀崎さんは僕の答えを求めてか、目をキラキラと輝かせている。僕が怪訝そうな表情を浮かべているのを見てか、顔を再び離して立てた人差し指を今度は唇に当て、視線を斜め上に向けた。
「じゃあ、両方いこっかな! まずはー……ちょっと待っててね?」
そう言って、戸賀崎さんは鉄格子の出口から外へ出ていき、部屋の隅に置かれた、それなりの大きさのある白いプラスチック製の箱をごそごそと探っている。屈んでいることで制服のスカートが揺れて中身が見えそうになり、こんな状況なのにも関わらず顔を横に逸らす。
やがて、足音が戻ってきた。前を向く。戸賀崎さんの手には、銀色の煌めきを放つナイフが握られている。ただ、其れは奇妙な形をしていた。
「ふふーん、特注で作ってもらったんだー。ほら、珍しいでしょ? 一つの柄に刃が二本短い感覚で並んでるの。昔、漫画で読んだんだけど、傷口が近いと縫合が上手くいかなくて膿んじゃうんだってー」
頭の中が空白になった。戸賀崎さんは何を言っているのか。何をしようとしているのか。戸賀崎さんが妖艶に舌なめずりをして僕に近づいてくる。漸く思考が追いついて逃げようとするも──
「はーい、駄目でーす」
ガチャリ、と音が鳴り、足が動かなくなる。慌てて足元を見ると、金属製の拘束具のようなものがソファの中から現れて足の自由を奪っていた。いつの間にか、戸賀崎さんのもう片手にはスイッチのようなものが握られており、それで操作をしたらしい。
逃げ場は失われた。凶器を持った同級生が、あの彼女の可愛らしい笑みは、今は黒く歪んだものに変わっている。
「ひっ……」
思わず情けない声が漏れる。少しでも離れようと、脱出しようと体を揺らすが、体と腕は動かせても足はビクともしない。
戸賀崎さんが左手を伸ばして両手を縛る麻縄の中央を掴むと力任せに引き寄せる。抵抗が無意味なほど、強い力だった。
そして、躊躇無く僕の前腕部にその凶刃を走らせた。初めて使うのだろう、切れ味の良いそれは、容易に僕の肌を切り裂いた。
「がぁ、っ……!」
鋭い痛みに声を漏らす。傷口はそれなりに深く、流れ出た血が肌をつたって床へと垂れる。
「あぁ、やっぱり透くんの使い道はこうだよねぇ……! 初雪を穢す、この感覚ぅ……! ねぇねぇ、舐めていい? 血、舐めていい?」
戸賀崎さんが恍惚の声を漏らし、息を荒らげる。そして、僕の傷口をしげしげと眺めてから、爛々とした瞳を僕に向けた。
「……ふーん、でもやっぱりナイフだから傷口はそんな深くないね。殺すつもりはないからいいんだけどー。ま、でも使えそうか」
激痛に顔を顰めて呻く僕に、戸賀崎さんの声は聞こえない。彼女は血の付いたナイフを床に置いた。カラン、と乾いた音が室内に妙に大きく響く。
「リノリウムにしといて良かった。血が拭きやすいもんね」
「……っ、ぅっ……」
戸賀崎さんは呟きを漏らしつつも、にやにやと笑いながら、傷口と僕の苦悶の表情を見てに愉悦に浸っている。
「はぁっ……はぁっ……」
痒みに慣れはないが、痛みには慣れがあると聞いたことがあった。幸い僕には適性があったのか、脂汗こそ浮かべていても、思考がある程度戻ってくるほどにはなった。
「あら、意外と痛みには強いんだ。あ、後で治療はしとくから安心してね。縫う程じゃないだろうから、二本刃にしたのもあんまり関係ないだろうし。んー……それなら……」
治療は、してくれるらしい。その言葉を聞いて少しは安堵する。このまま放置されたらどうしようかという心配が浮かんでいた所だった。
僕が痛みに耐える中、戸賀崎さんは次のものを考えているようだった。僕はそれを、痛みにぼやけた視界で眺める。
「やられたから、やり返そっか」
彼女は、立てた人差し指を顔の横でくるくると回し、なんでもないことの様に言った。
「アレのこと。あなたが、
そう言って、戸賀崎さんは歪んだ笑みと共に小首を傾げた。
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