第25話 さようなら、日常

「ほら、透。ご飯冷めちゃうわよ、早く食べなさい」


「……あ、うん」


 朝。気怠い、朝。

 朧げな土日が過ぎて、月曜日の朝。

 僕の朝食を食べる手は中々動いてはくれない。対面に座る姉さんを見る。いつも通りの食事風景がそこにはあった。

 夢、だったのだろうか。悪い、夢。そうだ。そうに決まっている。あんなこと、姉さんがするわけが無い。


「……この間は、気持ちよかったでしょ?」


 上目遣いで姉さんが言葉を発し、僕は言葉を失う。箸を持つ手が震えて、カタカタと小さく音を立てた。

 姉さんの視線が、その箸へと向き、そして僕の方へと動く。


「もしかして、怯えてる? ごめんね、急にあんなことしちゃって。私、もう我慢が出来なくなって……」


 にっこりと、姉さんが笑う。邪気がないようで、しかし明確な欲望を滲ませた笑顔で。夢ではなかった。都合良く忘れられていれば、まだ良かったのに。


「う、ううん、大丈夫、だよ。突然で、びっくりしただけで……」


「透は私を愛しているものね?」


「……うん」


「私を幸せにしてくれるのだもんね?」


「……うん」


 小首を傾げて問いかけられる言葉に、僕はただ首肯しゅこうを返す他無かった。


 愛している。

 幸せにする。


 姉さんの言う言葉と、僕の考える意味は大きく違っていた。僕は姉弟として。そして、姉さんは男女として。

 愛おしげに僕を眺める姉さんは食事を再開させる。僕もまた、味のしないそれを胃の中へと無理やりに詰め込んだ。



 気づけば、いつも通りの時間に教室に着いていた。朝食からの記憶は朧げだ。しかし、記憶が抜けている訳では無い。ただ習慣で動いただけだった。

 外から、運動部の朝練の声が聞こえる。誰もいない教室で、それを聞きながら本を読むか、外を眺めているのが好きだった。

 外を見る。野球部か何かが、ランニングをしている姿。今日はその声が酷く遠く感じた。まるで、テレビの画面越しに現実を見ているような感覚だった。


「おはよ、透くん」


 不意にかけられた声に振り向くと、そこには戸賀崎さんが立っていた。普段、彼女は教室に半分ほどの生徒が登校してきた頃に来る。今日は、まだ他に誰もいない。時計を見る。まだ、僕が来てから五分程度しか経っていない。意図的に早く来たのだ。


「ん? どしたの?」


「いや、今日は早いなって……」


「そういう日もあるよ」


 知っている。姉さんから聞かされた。昨日の事は全てビデオで撮影して、戸賀崎さんに送られているのだということを。だから、今日は早くに登校してきたのだろう。


「ねぇ、透くん」


 体が、びくりと跳ねた。


「私、透くんのこと好きだよ。何があったとしても」


 その言葉で、動画は既に見られたのだと分かった。恥辱と罪悪感と、様々な感情で頭の中が溢れ返る。どう返事をしていいかすらわからない。


「だからね、誰にも渡すつもりはないよ。例え、相手がお姉さんであったとしても」


 僕の隣に立ち、両手を背後で組んだ戸賀崎さんは、目を細めて不敵な笑みを浮かべる。何故か、その表情に僅かな寒気を覚えた。


「とりあえず言いたいのはそれだけ。透くんは私の物だから。それを忘れないで?」


 片手を振って、戸賀崎さんは教室を去っていった。僕への配慮だろうか。普通、あんな物を観せられれば、恋心など冷める。変態だと罵られ、周囲に噂を広められてもおかしくない程に。それだけ、戸賀崎さんは僕のことを好いていてくれているということなのだろうか。

 僕は、その想いを、ただ自分の我儘を叶えるために利用していようとしているのか。


 目的のためには、自分で考え、判断する。先生の言葉が脳裏を過ぎる。目的を果たしたいのであれば、時には非情にならざるを得ないのか。やがて、考えることに疲れて、僕は机に突っ伏した。


「──い、もうホームルーム始まるぞ」


 体を揺さぶられて意識が戻る。いつの間にか、寝てしまっていたらしい。顔を上げると同時に、起こしてくれたらしい小林くんは黒板の方へと顔を戻した。結局、小林くんの名前はなんというのだろう。


 その日は、授業に集中など出来るはずもなかった。無為な時間が過ぎていく。そんな様子を見てか、昼休みも小林くんは僕に声を掛ける事はせずに仲の良いグループと共に教室を去っていった。

 机の横に下げていた弁当箱を机の上に載せる。普段と何も変わらない見た目。開けてみても、何も変わらない中身。

 しかし、昨日の光景が次々と脳内に浮かび、どうしようもない吐き気を感じて僕は両手で口を抑えた。


「……ねぇ、透くん。一緒に食べよ?」


 戸賀崎さんが、隣に立っていた。その両手には一つずつお弁当と思わしき包みを持っている。今まで、こんなことはなかった。僕がこうなることを予期していたのだろうか。

 僕の返事を待たず、戸賀崎さんは姉さんの弁当を机の端に避けて二つの包みをそれぞれの前へと置いた。


「食べよ?」


 今一度、声を掛けられる。僕は素直に頷いた。

 意外にも、戸賀崎さんのお弁当は普通な、庶民的なものだった。何処にでもある、日常の象徴。姉さんのそれは、非日常へと変貌してしまった。ほとんど会話という会話もなく、黙々と食事を進める。朝食と違って、しっかりと味を感じられた。素直に美味しいと感じられた。


「大丈夫だよ、透くん」


 不意に頭を撫でられる。そこで初めて、自分が涙を流していることに気づいた。戸賀崎さんは、そんな僕をみて穏やかな笑顔を浮かべていた。


「じゃあ、また帰りね」


 昼休みも終わりが近づき、戸賀崎さんは包みを二つ持って自分の席へと帰っていった。僕はぽつんと机上に残された、手のつけていない弁当箱をそっと閉じ、帰る前に中身は捨てていかないといけないだろうと思い、小さくため息を吐いた。姉さんとの関係は、姉さんへの家族としての思いは、まだ残っている。


 午後の授業は、午前よりも多少なりとも集中して受けることが出来た。とはいえ、午前と比べたらではあるが。


 そして、放課後になった。


「じゃ、一緒に帰ろっか」


 先週から、正確には付き合ってから、毎日戸賀崎さんは声を掛けてくれる。いつも、方向が違うのに僕の家のすぐ手前まで一緒に帰ってくれる。それほどまで、一緒に帰ることに喜びを感じてくれているのだろうか。

 ちくり、と胸が痛む。

 けれど、それには気付かないふりをして学校を後にした。


「ふんふんふーん」


 今日の戸賀崎さんは妙に上機嫌だ。足取りはスキップのように軽やかで、小さく鼻歌を奏でている。


「えへへ」


 少し前を歩いている彼女は、時折振り向いて照れ混じりの笑みを浮かべる。正直、その可愛らしさにどきりとしてしまう。しかし、あんな動画を見た後だというのに、こんな風に振る舞えるものなのだろうか。正直なところ、困惑しかない。しかし、それを表情に出さないように努める。


「ねぇ」


 不意に、戸賀崎さんが足を止め、こちらを振り向いた。その両手は後ろ手に組まれている。そして、右手が手の平を上にして差し出された。


「手、繋ごうよ」


 思わず、立ち止まって目を開く。

 今まで僕らは一緒に歩いているだけで、手を繋ぐなどの行為はしてこなかった。このタイミングで、距離を詰めてくる。彼女の言葉の通り、あの動画を見て冷めるよりも対抗意識が出たとでもいうのだろうか。


 戸賀崎さんと恋人としての距離を詰めるのは、僕が打算を持っている以上、するべきことではないと分かっていた。けれど、彼女が望むのであれば、これくらいはいいのではないか。勿論、初めての行為に戸惑いや恥ずかしさもある。


「ね?」


 戸賀崎さんは、可愛らしく小首を傾げる。僕は小さく息を吐くと、右手を重ねようと恐る恐る手を伸ばしていき──


「──えへ」


 戸賀崎さんの背中側に隠されていた左手。そこに握られていた黒い何かが、俊敏に僕の伸ばした手に押し付けられる。


 その瞬間、強烈な痛みを伴い、全身が痙攣し、頭の中が真っ白になる。


「……っ、ぁ……」


 何をされたか、全く分からなかった。分かるのは、右手に感じる痛みと、意識が遠のき失われていく感覚──。






「おっとっと」


 万一、彼が頭を打たないように気を失って倒れる体を慌てて受け止める。そこまで力が強くないために衝撃を押し殺すくらいしか出来ず、転びそうになるのを何とか堪えて、ゆっくりと体を地面に横たえた。

 不要となったスタンガンは、道端に放り捨てる。


 タイミングを見計らったかのように、スモークガラスのハイエースが現れ、中から出てきた黒いスーツ姿の男たちが手慣れた手つきで少年を車の中へ運び込んでいく。


 自身もまた乗り込もうとした時、少し遠くに白いセダンが止まっているのが見えた。


「ばいばーい」


 それに向かって満面の笑みを浮かべて手を振ってからドアを閉めると同時、車は法定速度を大きく超過した速度で走り去る。


 そうして、火蓋は切られた。

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