第23話 嵐の前
──世界は、私の都合の良いようにできている。
あんなにも可愛い、愛おしい、透と出会えたのだから。その、姉になれたのだから。
まだ透は帰宅していない。日課の始まりだ。
部屋着のジャージ姿で、家のカーペットを調べる。一本、私とは違う髪の毛を見つけた。迷わず口に含んで咀嚼する。愛する人の一部を、体内に入れる。それは美麗なる儀式。
もう一本、見つけた。今度はライターで炙る。たんぱく質の焼ける匂い、でもそれは透の匂い。A10神経が刺激されていく。
堪らず、脱衣所へと向かう。わざと直ぐには洗濯していなかった、昨日、透が脱いだ服。制服のシャツを手に取り、襟元の香りを鼻腔一杯に吸い上げる。麻薬のような酩酊感。
涎を垂らしそうになりながら、今度は下着を手に取る。ネイビーのボクサーパンツ。前面の匂いを嗅ぐ。下腹部が湿り気を帯びる。裏返して、当たっているであろう場所にねっとりと舌を這わせる。濃厚な性の匂い、僅かに酸味を帯びた味わい。太ももにまで分泌された液体が流れる。
「ただいま」
不意に、扉の開く音と、愛しい声が聞こえた。私は平静を装ってシャツを洗濯機の中に入れる。
「おかえりなさい」
脱衣所から顔だけを出し、貞淑な笑みを浮かべる。一方で、下着を予め用意しておいたジップロックに入れてポケットへと突っ込んだ。日課は終わり。下着が減るのを怪しまれないように、十分に堪能したら洗濯へと回している。
靴を脱いで揃える透に近づき、軽く匂いを嗅ぐ。どうやら、今日はアイツに手を出されていないらしい。安堵の息を漏らす。
けれど、今日はそれだけではない。急に、先程までの情欲が鳴りを潜めていく。
「ねぇ、透?」
「な、なに?」
出来るだけ優しさを込めたつもりだったが、堪えきれぬ怜悧さが出てしまったのか、靴を脱ぎ終わって相対する透が言葉を淀ませた。
いけないいけない。私は優しい姉なのだ。
けれど、聞くべきことは聞かなければいけない。
「……戸賀崎、花音」
直球を投げる。分かりやすく、透の肩がびくりと跳ねた。自ずと私が透を壁際に追い詰める配置となる。
「噂、ホントなんだ? あの戸賀崎花音に彼氏が出来たって。私の学校でも、その話題で持ちきりだよ?」
「えっと、あの、それは……」
煮え切らない透の言葉に、私はにっこりと笑顔を浮かべ、その顔の真横に拳を叩きつけた。大した力を入れたつもりはない。しかし、鈍い音を立てて壁には拳の形がくっきりと刻まれていた。
「付き合ってるんでしょ?」
「そ、それは……うん。でも、違くて──」
「私の事、愛してるって。幸せにしてくれるって、言ったのに」
青ざめた表情の透の言葉を遮る。あれは、嘘だったのだろうか。悲しみと、僅かな怒り。
「本当に違うんだ! 戸賀崎さんに僕の事情がバレてて、それで、どうせなら利用してやろうと思って……」
鼻先がくっつきそうな程に顔を近づけ、透の瞳の中を探る。嘘の色は見えない。どうやら、あの女を利用しようとしているのは本当のようだ。
こくり、と生唾を飲み込み上下する喉仏が目に入った。
視線を、再び上げる。
「あの子には、気をつけなさい。透が利用しているつもりで、利用されているのかもしれないのだから」
「……うん」
透は、神妙な顔で頷いた。何か、思うところがあるのだろうか。
私は一歩下がって透から離れ、目を真っ直ぐに見つめながら、柔らかな笑みを浮かべながら、重要なことを問うた。
「……それで、シたの? 戸賀崎さんと」
「えっ? 何を?」
思わず、くすりと笑いが漏れる。決して惚けている訳ではない。透は純粋なのだ。そこもまた、愛おしい。
「男女ですることなんて決まってるじゃない」
「えっ、あっ……。いやいや! そんなこと! 戸賀崎さんは利用しているだけで恋愛感情は無いし!」
流石に意味は伝わったようだった。顔を真っ赤にして、顔の前で広げた両手を振り、同時に顔も左右に振っている。この様子であれば、嘘はついてないだろう。
「そう、それならいいわ」
安堵の息をつく。まだ透は穢されきってはいない。しかし、問題は残る。
「……今更、戸賀崎花音との交際関係の記憶を消すことは出来ない。世界は私に都合がいいように出来ているはずなのに。どうして? 透と私は結ばれる運命にあるというのに。それなのに邪魔者が二人もいる。一人は簡単に排除できる。でも、戸賀崎花音は厄介。愛に障害は付き物。そういうこと? これが試練? これを二人で乗り越えて、より愛を深めろということ? それなら、どうすれば……」
更に一歩下がり、顔を伏せてぶつぶつと思考を口に出すが、小声ゆえに透には聞こえないらしく小首を傾げて、きょとんとこちらを見ている。愛らしい。そういう所も、情欲をそそる。透の全てが、私には蠱惑的に映る。どうしてこんなにも、神は透を可愛らしく、時に格好よく、性を刺激させるように作ったのだろう。ああそうか、私のためか。
それならば。
いずれ実行することは決まっていたこと。そのタイミングが今であるということ。その覚悟が来たということ。私の我慢の限界が来ただけなのかもしれないが。
「あ……、あはっ」
──そして、私に天啓が訪れた。
戸賀崎花音には、先手を取られた。あの女医のことは、一先ず置いておく。どうにでも出来る。但し、あの女──戸賀崎花音には、一矢報いてやらなければ気が済まない。透に近づく穢らわしい女狐。ぽっと出の泥棒猫。
透に背を向け、口を三日月型に釣り上げる。こんな表情、透には見せられない。これから、もっと見せられない、透の見たことの無い表情を見せることになるのだけれど。
「さぁ、透。行きましょ?」
我ながらキラキラとした笑みを浮かべていたと思う。反対に、透はきょとんとした表情を浮かべていた。その右手首を取って、自室へと誘って、否、引きずっていく。決めたらもう、我慢など出来るはずも無い。
「えっ、えっ、なに? 姉さんどうしたの?」
「いいからいいから、うふふっ……」
戸惑う透の声も愛らしい。率直に、濡れた。きっとこれから何をされるのか、検討も付いてないだろう。
「透、ちゃんと
振り向いて、魔法の言葉を告げる。
状況に付いていけずに混乱している透を、まだ電気も点けていない真っ暗な自室へと引き込む。
さぁ、宣戦布告をしましょう。
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