第22話 布石
「おやおや、たったの一週間ぶりだというのに、随分憔悴しているね」
一週間。
そう、この前の診察がちょうど一週間前。
その日に義理の姉弟であることを告げられ、その直後に前兆のない記憶障害が乱発し、そして何故か戸賀崎さんと付き合うことになった。
一週間でそれほどのことがあった。とはいえ、目に見えて憔悴しているほどまでいっているのか。
自分の頬に手を当てる。いつもより、ひんやりと冷たい気がした。
「……顔色も随分悪い。この一週間の間に何かあったんだろう? ほら、おねーさんに話してみなさい」
そう言って、先生は包容力を示すかのように両手を大きく広げてから、頬杖を付いて小首を傾げ、優しげな音色で言った。相変わらずやや芝居がかった言動ではあるが、今のような精神的に追い詰められている状況では不思議とありがたみを覚えた。
自分自身でもきちんと認識していないために言葉を詰まらせつつも、話しやすい雰囲気作りをしてくれたために、今の自分に起きている状況を説明した。無論、関係の無い姉とのことや、戸賀崎さんとのことは省いたが、忘れている中学校よりも前の記憶の話をされると、強い孤独感に駆られることは伝える。
僕のたどたどしい説明を、先生は要所要所でペンを手元の紙に走らせつつも、基本的には常に僕の方を向いて、神妙な顔つきで相槌を打ってくれる。
そうして、何が起きたのかをひとしきり話し終え、僕は深い溜息をついた。
「いつものように靄がかかる感覚がなく、時間が突然飛んだ感覚もなく、自分では連続した時間を生きているつもりなのに、忘れている、抜けている、そういった記憶がある」
目を瞑った先生は、僕の話を簡潔にまとめると、ペンのキャップ側でこめかみをリズミカルに数度叩く。そして、ゆっくりと目を開けた。そこに、いつもの親しげな笑みはない。
「これは例えばの話なんだけどさぁ、本当は君の感じているものが全てなのではないかい? つまり、この一週間も含め、靄が起きていない時は記憶障害は発生していない」
「どういうことですか?」
「そのままの意味だよ。君の記憶が、正しいってことさ」
では、周りが嘘をついているというのか。否、その理由が、無い。
「少年、周りを信じてはいけない。他人を信じてはいけない。この世界は、悪意に満ちている。この言葉を聞いて少年が想像するよりも、ずっと、ね」
「それは先生も、ですか?」
何故、こんな問いかけをしたのか分からない。無意識に口をついた。
「私だけは信頼してくれ、なんて言うつもりは無いねえ。この国の人間はさあ、性善説なんて小綺麗なものを信じすぎなんだよ。人は、悪性を持って産まれ出るのに。そして、社会に出て矯正されていくわけだよ。それで、マトモになる訳さ」
先生は、こめかみに当てていたペンを器用にくるくると手元で回しつつ意味深な笑みを浮かべる。
「さて、少年。閑話休題だ。質問しよう。
「その質問に、なんの意味があるんですか?」
それは純粋な問い掛けだった。哲学的問いかけだろうか。何が正しいか、何が間違っているのか、そして、何を信じるのか。確かに、今の僕の状況には当てはまっている。
しかし、それぞれの具体的な状況や人物は思い浮かんでも、それを概念的に言葉にするのは難しい。
「今後の少年に関わってくることだから、かな」
先生は、珍しく屈託のない笑みを浮かべた。しかし、それもまた、言い方は悪いが意地汚いものへと変わる。
「まず、君の
「……平穏な学校生活。今の状態から脱却して、
そう、それが僕が求めるもの。果てしなく、遠いもの。
「
くるりと、ペンが回る
「
口端が、歪む
「
「それは……あんまりな言い草じゃないですか」
相手を信じる、それは尊い行為だ。相手を尊重する行為。そして、他人を信じることなしに、社会は成り立たないのだから。
「君の思う通りだねえ。その本心は『分からない』としても、『一定以上は良心的である』と思わなければ、社会は成り立たない」
にやつきながらも鋭い眼光が、僕を捉えた。僕の考えなどお見通しらしい。しかし、この話の着地点は何処にいくのだろうか。
「しかしだねえ、私はさっき言ったろう? 人の本質は
「……何を言っているのか、何が言いたいのか、よく分かりません」
「小さなものならいい。だが、自身の人生に関わる
不意に、先生の表情から笑みが消えた。細められた目からは
「何も、信じてはいけない。最大限、把握して、理解して、その上で
先生は、組んだ両手を立てたペンを支えに中空で止め、小首を傾げる。
「さて、君の大いなる
声が、出なかった。自己判断。それは僕が放棄していたもの。僕は、他人の中にある自分を見ている。
口を金魚のように開閉する僕の様子を見て、先生はくすりと笑みを零した。
「……ちょっと意地悪をしちゃったかな? ごめんねえ? ──でもね、今の話は覚えておくといいよ。無論、少年には少年の考えがあるだろうけどさあ」
よく分からない問答の後、結局、僕には頓服として新しく安定剤が処方されることになった。
「ふぅん、リーぜから始めるにはちょっとなぁ……。一先ずワイパックス辺りが適正かねえ」
ぶつぶつと呟きを漏らしながらデスク横のパソコンのキーボードを叩いていたが、僕には何の意味も分からない。別に興味も無かった為に口を挟むこともしなかった。
「さぁて、今日はマッサージはどうするぅ?」
若干の甘ったるさの滲ませて先生は立ち上がると、白衣を肘まで捲り、薄ら笑いと共に小首を傾げる。
「……すみません、今日は時間が無いので遠慮しておきます」
「あらら、残念。もし良かったらマッサージ目的だけで来てもいいんだからねえ?」
くすくすと笑う先生はあどけないように見えて、しかし僕は何処か薄ら寒さと気味の悪さを覚えた。きっともう、マッサージをお願いすることは無いだろう。
そうして、僕は診療室を後にした。先程の先生の言葉が、いつまでも脳裏にこびり付いて離れないまま。
少年が診察室を後にして間もなく、女はデスクの椅子をくるりと回して奥にあるソレへと視線を向け、喜悦の色を浮かべる。
「言うまでもなく、君たちは
ゴシックロリータ姿のソレは、腹を抱えて笑う女に何の反応も見せず、安楽椅子の上でただただ中空を見つめる。その瞳に光は無い。
笑い声が咳へと変わり、浮かんだ涙を人差し指で拭うと、小さく疲労の息を吐いて椅子の背に体重を掛ける。
「さぁて、私もかるーく布石は打たせてもらったよん? 花音ちゃぁん?」
女は、くすりと
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