紫陽花
増田朋美
紫陽花
雨が降って、寒い日だった。まだ春といえども、寒い日が続くのだなと思われる。まあ、それでも桜の花は満開になっているし、一応季節は進んでいるのだと思われるけど、それでも寒い日が続いてしまうのは、ちょっと嫌だなというか、そんな気持ちにさせられてしまうものである。
その日、伊能蘭の家に一人の女性が訪ねてきた。蘭の家に訪ねてくる女性だから、だいたいの用事は決まっているのだろうけど、それでも蘭はいつものパターンかとか、そういう事はできる限り言わないようにしている。相手の女性たちは、皆理由があって、しかも相談できる人もいないで蘭のもとを訪れる女性がほとんどなのだ。だから、そんな女性たちに対して、いつものパターンなどと行ってはいけない。
「えーと、お名前は確か、小山さんと仰っておられましたね。小山久子さん。それで間違いありませんね。」
蘭がそう言うと女性は小さくなって、
「はい。小山久子です。よろしくおねがいします。」
と、蘭に言った。
「それで、今日は、どうして僕のもとに来られたんですか?」
蘭が聞くと、
「この左腕に、何か彫っていただきたくて。どうしても、リストカットをやめられないものですから、刺青でも彫っていただければ、そういう事はしないだろうなと思ったんです。」
と、彼女は言った。蘭は、
「それでは左腕を拝見させてもらえませんでしょうか?」
と聞くと彼女は、洋服の袖をめくった。そこにはまるで左腕の本当の皮膚が見えなくなってしまうのではないかと思ってしまうほど、リストカットの切り傷が散乱していた。
「これはひどいですね。」
蘭は思わず言った。
「やっぱり彫っていただけないでしょうか?」
女性がそう言うと、
「まあ、彫ることはできますけど、こんなに派手に傷だらけでは、少々、難易度の高い刺青になると思います。こういう傷だらけの腕では、色がつきにくいんですよ。希望する、色や柄とかなにかありますか?」
蘭はできるだけ優しく言った。
「それが全く決めてなくて。それより、こんなたくさんリストカットをしてしまいまして、それを消したいけど、美容外科に行ったら、もっと怪しまれるんじゃないかと思って、それでこちらにこさせてもらいました。」
小山久子さんは申し訳無さそうに言った。
「そうですか。それでは、今一度いいますが、刺青というものは、入れる前には戻れません。それをちゃんとわかっていただいてから、彫るものを決めていただかないと。確かに、リストカットとか、誰かに虐待されたあとを消したいということで、刺青を入れに来るお客さんはたくさん居るんですけど、それでも、刺青というものは、消すことはできないんですから、そこはちゃんとご理解してくださいね。その消せないところが、新しい自分への第一歩だと言って喜んでくださるお客さんも多いんですけどね。」
蘭がそう説明すると、
「先生は、お花を彫るのが得意なんですよね。先生の作品も拝見しました。インターネットのホームページで。だからそうだな、私のすきな花とか、そういうものを彫ってもらいたいです。」
小山久子さんはそういった。でも、何を彫るのかは、決めていない様子だった。
「そうですか。例えばお花を彫るにしても、なにか記念になる花とかそういうものを彫ることが多いですが、ご自身の誕生花とか、結婚記念日の花とか、そういうものを彫ったらいかがですか?」
蘭が提案するように言うと、
「結婚記念日のはな?」
と、彼女は言った。
「はいそうです。それを彫る方は多くいらっしゃいますよ。だって薬指に指輪がはまってらっしゃるから、結婚していらっしゃるでしょう?」
蘭がそう言うと、
「そうなんですけど、母からは、いい加減に取れと言われています。」
小山久子さんは言った。
「いい加減に取れ?」
蘭が言うと、
「はい。そう言われています。夫というか、もうそうじゃないかもしれないけど、5年前に癌で。」
彼女は言った。
「そうですか。それは大変でしたね。それで、今は、お母さんや他の家族と一緒に暮らしているのですか?」
蘭がそうきくと、
「ええ、三人で暮らしています。母と、息子が一人。」
久子さんは答える。
「そうですか。息子さんは何歳なんでしょうか?何回も質問してしまってすみません。刺青は一生消せませんからね、簡単に決定するものでは無いのです。家族構成とか、ある程度あなたの過去のこととか、聞いてから、彫るものを決めないとね。」
蘭がそう言うと、久子さんは、明らかに落胆の表情を見せた。
「それでは、リストカットの跡をすぐ消してくれるというわけでは無いのですか?」
「ええ。くどいようですが、一生消せるものではありません。後悔しないように、ちゃんと念入りに話し合ってから決めるんです。だから、すぐに刺青をして、リストカットの跡を消してということはできませんよ。」
蘭は、刺青師としてしっかりと言った。
「そうなんですか。それでは、しばらく、我慢しなければならないんですね。」
久子さんは、涙をこぼしていった。
「ええ。それくらい大事なものですから、簡単にリストカットを消そうという気持ちで来られては困ります。」
蘭がそう言うと、久子さんは涙が止まらないで泣き出してしまうのだった。
「ごめんなさい。私、軽い気持ちで来てしまいました。それではだめなんですね。もう逃げたいって思ったんですけど、それでは、いけないんですね。私、もう少し強くならなくちゃだめですよね。」
そういう久子さんに、蘭は彼女の話を聞いてやることにした。きっと、医者やカウンセラーにも言えないような重大な悩みをもってここに来たのだろうから。
「まあ、強くならなくちゃだめと言っても、その時は、気持ちを聞いてくれる人がいないと困るでしょうから、僕がお話を聞きましょう。一体なにか大変なことがあったんですか?」
蘭は、久子さんに聞いた。
「ええ、私の責任なんです。それで私はどうしてもリストカットがやめられなくて。息子のことを考えるたびに、何回も自分のせいだと言われているような気がして、切ってしまう。それでは行けないって思うけど、どうしても息子の姿を見るたびに、お前はだめだって言われているような気がしてしまうんです。」
久子さんは涙をこぼしながら答えた。
「私の責任とは、どういうことなんですか?隠さないで話してくださいよ。こういうことはね。黙っているより、口に出して言ってしまったほうが、よほど楽になるものですよ。それに話すことによって、踏ん切りが着いて、次のステップに行けるという可能性もありますし。」
蘭がそう言うと、久子さんは、
「男性である先生に言うのはとてもとてもいいにくいことではあるんですけど、、、。」
久子さんは泣き泣き言った。
「うちの妻が、出産にまつわる仕事をしているので、ある程度女性の体の相談にも乗ったことがあります。でも、まあ女性にしかできないことですから、話せないという気持ちもありますよね。それはわかりますよ。何なら、僕の妻に聞いてもらいましょうか?もうすぐ帰ってくるはずですから。」
と蘭が優しく言うと、
「先生は、本当に優しい人なんですね。先生のような人がうちにもいてくれたらいいのに。」
久子さんは泣きながら言った。
「ごめんなさい私、ちゃんといいます。実は、私には一人、息子が居るんですが、ちょうど今年で5歳になるんです。ですが、ちょっと体に異常があって。」
「ああ、つまり僕みたいに車椅子で生活しているのかな。小児麻痺とかそういうのですかね。」
蘭がそう言うと、
「そういう簡単な障害だったら、良かったんですけど、わたしの息子は、手も足も直接胴についている状態で生まれてきました。それは、私が服用した薬品のせいだと言われました。だから私の責任で、息子のことを本当に辛くてしょうがなくて、リストカットがやめられないんです。こんなだめな母親で、息子には申し訳ないんですけど、彼から逃げたくなってしまって、もう辛くてしょうがないんです。先生もきっと、すぐ帰れって言うと思いますが、どうしても私、自分の気持ちを整理できなくて、それで今日は先生のところに来てしまいました。ごめんなさい私、悪い母親で。」
久子さんはそういった。
「大丈夫ですよ。お母さん一人で、息子さんを育てているんだったら、疲れてしまうことも十分ありえます。大丈夫です。きっとそのうち、お母さんをやろうと言う気持ちが湧いてきますから、今はゆっくり休んでください。」
蘭は彼女を励ました。
「うちの妻が、障害のある子供さんを持っているお母さんの相談にもよく乗ってますから、それを通じて、保健所とか、そういうところに相談することも可能です。そういう重い障害を持っている子供さんがいるんだったら、お母さん一人ではやっていけませんよ。誰か頼りにすべき人物がいてくれるのは、お母さんの負担も随分減ると思うんですよね。そういう事は考えていないんですか?」
「ええ、母が、一生懸命それを勧めてくれるんです。確かに私一人で息子を育てていくことはできないとは思うんですけど、でも、母が勧めてくれる人は、どうしても一緒になる気になれなくて。」
彼女は、小さな声で言った。
「お母さんが再婚を勧めてくるんですか?」
蘭が聞くと、
「はい。母の話では、容姿も学歴も申し分ないから大丈夫っていうんですけど、私はとても息子に理解ある人には見えないんです。」
久子さんはそう答えた。
「そうですか。確かに、学歴やそういうもので人を判断してはいけませんよね。学歴がなくても偉い人はいっぱいいます。それは僕もいろんなカップルさんを見ているので、よく知っています。」
「ええ。母は、一生懸命紹介してくれるけど、母にはどうしても勝ちたい気持ちがあるんです。子供の頃、母が優秀すぎるくらい優秀で、友達もできなくて、それで寂しい思いをしたこともありましたから。私が、なくなった主人と結婚したのも、母みたいな優秀すぎる人と、一緒になりたくないと思ったんですよ。自分の人生だけは母の言うとおりにしたくないと思ったんですけど、息子がああいう体になってしまったから、そのとおりにしなくちゃ行けないとも思うのです。だからそうしたくない気持ちとしたい気持ちがぶつかってしまって私はどうしようもなくなってしまってどうしたらいいか、、、。」
「そうですか。お母さんは、何をしていたんですか?」
蘭がそう言うと、
「はい。茶道の教授をしています。皆、母のことをすごい人だと言って、母に従っていれば問題は無いと言うんですけど、私は人にばかり良くて、私には厳しい母が、どうしても正しいとは思えなかったんです。だから子供だけは、母の言うとおりに育てたくないと思っていたんですが、私が飲んだ薬のせいで、息子がああいう体になってしまってもう本当に、手も足も出ないというか、、、。」
久子さんはしまいには声をあげて泣き出してしまった。蘭は、そうですねとしか言いようがなくて、しばらく黙ってしまった。
その頃製鉄所では。
「だからあ、別に誘拐とか、そういう事はしてないよ。ただ、駅の中で、あの少年が寂しそうにしてるし、お母さんの姿も見えないし、だったら、ここへ連れてきてあげるって言ったんだ。」
と、杉ちゃんがでかい声で言った。四畳半では、水穂さんが、ブルグミュラーの素直な心を弾いているのが聞こえてきた。それをジョチさんは、心配そうな目で眺めていた。
「それにそいつの話によれば、昼寝をしていて、目が覚めたら、お母さんの姿が見えないっていうんだからさあ。言ってみれば置き去りだよ。それに、歩けない少年だから、連れてきちゃったの。」
「しかしですね。杉ちゃん。そういう子供に会ったんなら、まずはじめに警察に通報するべきじゃないんですかね。もし彼の言うことが本当であるのなら、立派な犯罪になりますよ。」
ジョチさんが、そう言うと、素直な心の演奏は終わった。でも、拍手が帰ってこなかった。それが、その少年が手足がついていないことを示していた。
「そうだけどさあ。お母さんが、逮捕されてしまったら、あの少年は一人ぼっちになってしまうぞ。そうしたらどうするんだよ。彼はご覧の通り、アザラシ症じゃないかよ。それでは、生活のいろんなところで介助を必要とするだろう。それなら、お母さんと一緒にいさせたほうがいいでしょう。それなら、お母さんを、待っていたほうがいいのではないかなあ。それに、連絡先ならあの子が持っている名札でわかるんじゃないかな。」
杉ちゃんの言う通り、彼は名札を首にかけていた。その名札には、しっかり、小山清太郎と書いてあった。多分誰かが迷子になっても困らないように、つけているのだろう。犬の迷子札と同じようなものだけど、それをちゃんとしてくれてあるので、名前の判別には困らなかった。四畳半から、可愛らしい少年の声で、おじさんもう一回やってというのが聞こえてきた。清太郎くんは、水穂さんのピアノを楽しんでくれているのだろう。
「僕、おじさんみたいな人が、一緒にいてくれたらいいな。家にいるのは、ママとおばあちゃんだけだから。」
清太郎くんはそういうことを言った。杉ちゃんとジョチさんは顔を見合わせた。
「あの服装から見て、あの少年はおそらく、三原学園に通っていると思います。ちょっとその職員に頼んで見ましょうか?」
ジョチさんは、スマートフォンを取った。
「いやあ、そんな事しなくてもいいんじゃないの?きっと、そのうち母親も気がついて、取りに来るさ。」
杉ちゃんはのんびりと言った。
「そうですが、彼の言うとおり、昼寝をしていて気がついたら母親がいなくなっていたというのであれば、母親が彼を駅に捨てたということも考えられますし、、、。それに杉ちゃん、彼はものでは無いのですから取りに来るという言い方はやめたほうがいいですよ。」
ジョチさんはまだ心配そうだ。
「とりあえず、彼の保護者は他に誰かいないものでしょうかね。母親と、息子さんだけの家庭なんでしょうか?ちょっとそこは聞いたほうがいいですね。」
そう言ってジョチさんと杉ちゃんは、四畳半に行った。そして、水穂さんのピアノを聞いていた小山清太郎くんという、手も足も無い少年に、
「ちょっとすみません。あなたのご家族の名前を教えていただけないでしょうか?ご家族はお母様と二人だけですか?」
とジョチさんが聞くと、少年は小さな声で、
「おばあちゃんと三人暮らしです。」
と答えた。ジョチさんが、お祖母様のお名前はと聞くと、
「小山美紀子です。」
と答えた。
「小山美紀子。あ、あああの、茶道の大師範で有名な女性ですか?」
ジョチさんがそうきくと、少年は黙ってうなずいた。
「なるほど。それほど上流階級の子供さんだったのか。それなら結構良い教育もできるんじゃないの?それなら、おばあちゃんにわがままを言ってさ、お母さんだけでは嫌だってちゃんと言いな。」
杉ちゃんがそう言うと、小山清太郎くんは小さな声で、
「いつもママとおばあちゃんは、喧嘩ばかりしてるから。」
と言った。
「つまり、仲が悪いのですか?」
ジョチさんがそうきくと、
「女同士じゃ、進展しないことだってあるわな。まあ、茶道の世界では有名な女性だろうが、そういうことを別の方向へ利用してしまえばいいのさ。そういう階級だよ。お前さんは。」
と、杉ちゃんがカラカラと笑った。
「そうですが、杉ちゃんの言うことは、子供さんましてや、ここまで重い障害を持っている子供さんでは、難しいのではないでしょうか?」
と、ピアノの前に座っていた水穂さんが言った。
「そうかも知れないけどね。ちゃんと、親御さんとかおばあちゃんに、自分の気持ちを言うことは大事だよ。本当は、パパがほしいんでしょ?皆と同じように、パパがいて、ママがいてっていう幸せをほしいんでしょ?それなら、お前さんがちゃんと言わなくちゃだめだよ。」
杉ちゃんが清太郎くんを励ますと、
「でも、おばあちゃんが紹介してくれる人を、ママはいつもいらないっていうんだ。」
と彼は言った。
「うーんそうかも知れないけどさあ。でも、お前さんみたいなひとは、パパが必要だと思うぞ。だから、ちゃんとママに新しいパパがほしいって言うんだよ。」
杉ちゃんは彼にそう言ったが、清太郎くんは、それができたら苦労はしないという顔をした。そこが、彼が持っている複雑な気持ちなんだろうなと杉ちゃんもジョチさんも思った。代わりに水穂さんが、
「とても感性がいい子供さんですね。お母さんが悩んでいらっしゃるのは、きっと、自分のせいだと思っているんでしょう。そう思ってしまっても仕方ないのでしょうけど、でも、乗り越えなくては行けないんだと思います。」
と言ってくれた。
「とりあえずは、お祖母様かだれかに迎えに来てもらいましょうか。清太郎さんとおっしゃいましたね。連絡先はどちらですか?」
とジョチさんが聞くと、清太郎くんは、おばあちゃんの電話番号を言った。ジョチさんはもしもしと、電話をかけ始めた。
「まあ確かに、悲しいことなのかもしれませんが、あなたが悪いわけではなくて、誰が悪いわけではなくても、悲しいことが起きてしまうことはありますよ。人間にできることは、ごく僅かなことです。ときには辛いことにずっと耐えているしかできないということはいくらでもあります。そうだ、もし、可能であれば。」
蘭は、泣いている久子さんにそういった。
「もしよろしければ、紫陽花なんていかがですか?紫陽花は、雨の中で花を咲かせますから、耐えて花を咲かせるという意味で、母性愛を表す吉祥文様なんです。」
「本当ですか?先生。」
久子さんがやっと泣くのをやめてくれた。
「ええ、着物の柄にも用いられていますし、縁起のいい植物ですよ。」
と蘭が言うと、
「ありがとうございます!先生!じゃあそれをお願いします!」
と久子さんはとてもうれしそうに言った。蘭はやっと笑顔になってくれた久子さんに、自分の願いを込めてこういった。
「ただ、一つ、条件がございます。それは、刺青は彫る前の自分には戻れないのです。それをよく考えて、これ以上嘆くのを辞めること。それが今の貴方に課せられている、一番の課題なのではないでしょうか。」
紫陽花 増田朋美 @masubuchi4996
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