其の四 可能性

「なるほどね。夢に人が……。前からそういうことってあったの?」


私が行くまで絶対に家から出ないでほしい。そんな無茶な頼みにも快く応えてくれた綾は、朝の公園を散歩している。道すがら昨夜の出来事を話すが、彼女に赤髪の男に心当たりはないらしい。


「うん。何度か。ただ、昨日のあれは何か違う感じがするな。確かに怖かったけど、不気味さとか気持ち悪さとかより神々しさの方が強かったから」


「へえ、神々しい。神様みたいな感じだったってこと?」


「多分ね。神様かは分からないけど、神社の本殿に入れてもらったときと近い感じだった」


そっか、と綾は相槌を打つ。けれど、納得したわけではないらしい。口元に手をやるのは、考え込んでいる時の彼女の癖だ。


「ねえ、亜紀。神様でもストーカーになるのかな」


いたって真剣な顔で放たれたとんでもない発言に、私は慌ててあたりを見回した。神社のたぐいが近くにないことに安堵しつつ、続く言葉が出る前に先回りして質問に答える。


「え、流石にないと思うよ。それに、万が一夢の人が犯人だったとして、「綾と一日一緒にいろ」なんて指示する理由がないし」


「だよね。じゃあ、守護神みたいな?」


「それもどうだろう。それならそうと名乗ってもいい気がするけど……」


単に名乗るのが面倒だったのか、名乗ると不都合があるのか、あるいは名乗れない理由があるのか。いずれにしろ、彼が綾の守護神だとすると無理がある仮定だ。


「亜紀の方が神霊なれしてそうだし、悪い人じゃないって言うなら悪い人じゃないんだろうけど……」


そう考え込んだ彼女は、しばらく黙って道を歩いていた。



「亜紀、私お手洗いに行ってくるね」


散歩も半ばで、そう言って綾は脇道にそれた。公園のトイレは少し奥に入ったところにあって、基本的に一本道だ。


「どうする、ついていこうか?」


そうたずねれば、眉を下げて彼女は答える。


「いや、流石にいいよ。入り口だけ見てて、もし人が来るようなら亜紀も来てくれれば」


公衆トイレの入り口は一箇所。出る人も入る人も、そこを監視していれば全てを把握できる。


「そっか。なら、私はここで待ってるね」


近くにちょうどいいベンチもあることだ。腰掛けて一息ついた私は、手を振って彼女を見送ったのだった。



「うーん、遅いなあ」


しかし、それから五分以上経っても綾が出てくる気配はない。踏み込むにはまだ早いけれど、体調を崩していないかと心配でそわそわとベンチから立ったり座ったりだ。


けれど、そんなことをしているひまはなかったのだ。それを、私はまたあの声に教えられることになる。


「何をしてるんだ!」


どこからともなく聞こえてきた声。それは、確かに私の知っているものだ。


「昨日の!」


やはりただの夢ではなかったのか、と周囲を見渡すが、あの特徴的な朱は見当たらない。その代わり、頭の中に二度目の声が響いた。


「君の見える範囲にはいない。それより、あの娘から目を離したな。まずいぞ、奴につけいられた。今すぐ助けにいけ!」


「え、でも入り口からは――」


誰も入ってないのに。


そう言いかけた言葉は最後まで続くことはなく、私は視界に飛び込んできた光景に息をのんだ。公衆トイレから出てきた綾は一人だが、明らかに様子がおかしい。足取りはおぼつかず、こちらに背を向けて雑木林の奥を目指している。


「綾!」


慌てて駆け出し、その背中を追いかける。幸いなことに、のろのろとした歩みの綾に追いつくのは難しくなかった。けれど、声をかけても彼女は振り向きもしない。ただ、一心不乱に公園の奥を目指すだけだ。


「ねえ、正気に戻って。ねえ!」


そう言いながら肩を揺さぶる。ぐらぐらと揺れる頭は糸の切れた操り人形のようで、虚ろな瞳は何も映していない。


取り憑かれている。その可能性を予想していなかったわけではない。ただ、いつしかストーカーは人間だと思いこんでいた。夢の男のこともあるのだから、人間ばかり警戒していてもだめだったのに。


「綾。……ごめん」


きっと聞こえていないだろうけれど、一言謝って右手を振り上げる。ばしん、と乾いた音がして綾の背中がはねた。一瞬間をおいて、右手に痺れが伝わってくる。


ごほり、と綾が何かを吐き出した。淀みのような、気持ちの悪い色の物体が彼女の口からこぼれ出る。勘が、こいつが犯人だと告げていた。


「綾から離れろ!」


空いた左手で掴み、力の限り地面に叩きつける。明らかに霊体の相手にどれほど効果があったかは分からないが、かたまりは震えて動きを止めた。


「さ、逃げるよ綾!」


意識のない綾を連れてその場を離れる。まさか、自分と同じくらいの体重の相手を背負って歩けたとは知らなかった。


「火事場の馬鹿力、か」


そんなことを呟いて足を速める。背中で綾がうめき声を上げた。

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