其の三 夢中にて

その日の夜。ストーカーの正体と対策に夜遅くまで頭を悩ませていた私は、日が変わろうかという頃になってやっとベッドに入った。今日あったことを思い返しながら、うつらうつらと夢うつつの境を漂う。


そんなとき、私の耳がかすかな物音を拾った。カーテンが揺れるような、衣擦れの音。それ自体は気にするようなものでもないけれど、窓も締め切ったこの部屋で聞こえるのはおかしな話だ。


「……誰かいるの?」


音のした方向、部屋の中心に声をかける。扉を開けた音はしなかった。これで本当に誰かがいたら、という恐怖が心の内に溜まっていく。けれど、その緊張はそう長くは続かなかった。


「――ああ、いるさ」


はっと息をのんで、慌てて飛び起きる。落ち着いた男の声。けれど、父親のものではない。それに、どこか浮世離れした声だった。


電気を消しきった部屋の中にたたずむ、一人分の影。黒地に紅葉を朱く染め抜いた着物と神社の鳥居を思わせる赤髪が印象的だ。印象といえば、まるで火に照らし出されているかのように、灯りもなしで男の髪の一房まではっきりと見えるのも妙に頭に残った。


「誰。人間じゃないのは分かってるんだから」


せめて余裕を見せようと、虚勢をはって男に問いかける。とはいえ、そんなことは相手に見抜かれているだろう。声の震えは、自分でも分かるほどに酷かった。


「まあ、そう警戒してくれるな。俺は君に危害を加えるつもりはない。せっかく見つけた、なんだからな」


対象的なほどに、男は落ち着いている。それが余計に違和感を引き立てていて、知らず知らずの内に私は拳を握りしめていた。


「なら、何の用。まさか世間話ってわけでもないでしょ」


そうだったところで付き合うつもりはないが。そんな私の警戒も気にした様子はなく、男はひょうひょうとした態度のまま一つうなずいた。


「いや、こっちも余裕がない。用件だけすませてさっさと帰るさ」


そう言うと、彼は息を吸い込んだ。


次の瞬間、部屋の空気が一変する。空調は効いていないはずなのに、気温が一段下がったのが感じられた。体も押さえつけられたように重い。試してもいないが、今の私は指一本動かせないだろう。


その重圧の中心にたたずむ男は、静かに私を見つめている。一対の瞳が、にわかに光を増した気がした。


「告げる。お前の友人の、綾という娘。明日はあの娘から、片時も目を離すな」


言葉の一片一片が、重い。まるで鎖のように、心がその言葉で縛り付けられていくのが分かる。男はそんな私を感情のない目で見つめていたが、やがてその沈黙を自ら打ち破った。


「警告は成した。お前も己の成すべきを成せ。……俺は疲れた。帰る」


そう言って、彼はふいと目を背けた。その瞬間、すべての感覚の主導権が私に返ってくる。先程まで麻痺していた畏怖の感情が、鳥肌となって背筋を駆け抜けていった。けれど、そのまま背を向けて去ろうとする男を逃してはならない気がして、私は声を絞り出す。


「――待って!」


自分でも分かるくらい情けない声だった。無音の室内でなければ、すぐそこの男にも届かなかったかもしれない。けれど、それでも彼は私に振り向いてくれた。


「何だ。俺から君に言えることなんかほとんどないぞ」


先程まで振りまいていた威圧感は何だったのかと思わせるような、気だるげな仕草。それでも、これは軽視してはいけない相手だと本能が告げている。


「難しい話じゃない。あなたは、何なの」


誰、と聞くのは正しくないような気がした。これだけ人間の形をしているのに、不思議と人間には感じられないのだ。そんな私の質問を聞き届けた男だったが、一考だにしないで踵を返した。


「それを教える義理はないな。どうしても知りたかったら、事が落ち着いてから自分で調べろ」


突き放すような口調に私が呆然としている間に、彼は闇に消えていく。つい先程まであんなに鮮明に見えていた姿は、もう五割以上暗がりと混ざり合って原形をとどめていない。


その背中に手を伸ばす。彼は、きっと多くを知っている。綾のことも、私の悩みも、そして全ての根底にあるものも。その彼が行ってしまう。駄目だ。引き留めなくては。行かないで、お願いだから。ねえ。




「――えっ?」


そこで、私は目を覚ました。時計は六時を指していて、窓の外から朝日が差し込んでいる。あれほど感じていた焦燥も恐れも、胸の中には存在しない。


「夢、だったって、こと?」


そう言葉にした喉はからからに乾いていて、まるで悪夢の後のようだとどこか冷静に考える。とはいえ、ただの夢だとも思い難い。


「あるとしたら、何かに夢に干渉されたってことかな」


少しずつさえてきた頭が、経験から推測を導き出す。実のところ、この手の夢は初めてではない。霊のたぐいに夢に干渉された経験はそれなりにあるのだ。何かを伝えたがっていたり、霊の感情と同調していたり、あるいはただの嫌がらせだったり。ただ、あそこまで鮮烈な夢は流石に初めてだったけれど。


「ストーカーの話と、無関係ってことはないよね」


問題は、彼が味方かどうか。しばらく悩んだ末に私は携帯を取り出し、チャットツールを立ち上げた。綾に、外出はこちらの迎えを待つよう頼むために。

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