第6話 普通
「汀くん、…行っちゃうの?」
「へ?」
僕は、いつもの様に、街へ出て、この家のことを調べようと、出かける準備をし、玄関で靴ひもを結んでいた。
「汀くんは…、何処にも…行かないよね?」
その
「どうした?馨ちゃん」
「…
「!?」
僕は、驚いた。ここに来て、4か月。初めて、彼女が新しい記憶を…記憶らしいことを口にしたのだ。
「タスクくんて!?誰のこと!?」
僕は、慌てて靴を履いたまま、玄関に上がった。そして、彼女の肩を揺らし、少し…大分強引にその答えを聞き出そうとした。
「…タスク…?誰のこと…?」
「え…?」
彼女の記憶が蘇ったのは、一瞬だった。…らしい。いや、朝早かったから、彼女は、夢でも見ていたのかも知れない。僕は、少し、落胆した。でも、これが、なんの手掛かりにもならない…とも言い切れない。
「馨ちゃん、今日は、僕、家にいるよ」
「本当?」
彼女が、何だか嬉しそうにした。
「何だか、怖い夢を見たの…」
「夢?」
やはり…。彼女がさっき言った、タスク、とは、夢の中で、偶然出て来た人物なのだろうか?
「どんな夢だったの?憶えてる?」
「ところどころ…」
「少しで良い。もしも、苦しくなかったら、話してもらえないかな?」
彼女は、そう言った、ソファの隣に座っている、僕の顔を覗き込み、呟いた。
「…きっと…役にたたない…」
「…そんなことないよ。もしかしたら、記憶が戻るかも…。いや、もしかして、それは、馨ちゃんの、前世の記憶なのかもしれない」
「…前世…」
「君が、書いた、あの手紙だよ。前世で、結ばれなかった、愛し合った人…。それが、タスクって人だったのかも知れない…」
僕は、普通にしているつもりだった。
顔も、態度も、口調も…。
だけど…。
「どうしたの?汀くん、怒ってるの?悲しんでるの?それとも…寂しいの?」
「…。どうして?」
「…なんとなく…」
「大丈夫。怒ってもないし、悲しんでもないし、勿論、寂しいわけでもないよ」
僕は、精一杯、微笑んだ。
実際は、何もかも、当たっていた。
怒っていたし、悲しんでいたし、とても、寂しかった…。
とうとう、思い出してしまう。時間がない。分かっている。こんな生活が、いつまでも続くはずがない。だって、彼女はもう死んでいるのだから…。それなのに、誰にも言わず、彼女の言葉だけを信じ、まるで忠実なしもべのように、僕はこの4か月、暮らしているのだから。
この生活に、僕は何の不満もなかった。と言うより、とても満足していた。許婚が、生まれた時から決まっていた彼女と、只、幼馴染と言うだけで側にいられたあの日々とは、まるで違う。
彼女は、僕しかいない。僕しか話す相手がいない。僕しか笑い合う相手がいない。僕しかご飯を一緒に食べる相手がいない。僕しか、僕しか、理解者がいないのだ。
優越感しか生まれない。
学校一の秀才。学校一の美少女。学校一の信頼を集める彼女が、今、頼りにしているのは、頼りに出来るのは、僕しかいないのだ。
彼女を救いたい…そう思う一方で、僕は、この出鱈目な生活を続けたかった。
『彼女は死んでいるんだ』
『彼女は記憶喪失なんだ』
『彼女は前世などを信じているんだ』
そんなことは“馬鹿げている”。
僕は、僕に、毎日、そう言い聞かせ、普通を、生きている人間を、保つことが、辛うじて出来ていた。そうしなければ、彼女を、普通にしてしまう恐れがある。それは、僕が、普通でなくなる時だ。
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