トラウマの正体⑧
「そうですか……、分かりました」
「あぁ。そう言うことだから、今日のところは自宅待機で頼む。すまんな」
「いえ、こちらこそこんな時にすみません」
「バカ! お前が悪いわけじゃないだろ! こっちはこっちで何とかするから心配すんなって!」
「はい、では失礼します」
「おぉ! じゃあお大事にな!」
彼女に真実を伝えぬまま、その日は訪れる。
その日は朝から体調が優れず、半休をもらい病院へ出かけようとした矢先、課長から電話が掛かってきた。
電話口の課長は、心配を掛けまいといつもの軽快な口調を崩さずにいたが、言葉の節々で動揺を隠しきれていなかった。
さて、これからどうするか。
再就職? そんなの今は考えられん!
しばらくニートでいいか……。だとしたら保険切り替えなきゃな。
いや、待てよ。任意継続の方が安いんだっけ? それは家族がいる場合か。
ハァ、何か楽に大金稼げる仕事はねぇかな……。秒速で億的な。
モラル? 知るかそんなの。
世の中騙したもん勝ちだって、人生の大先輩たちに教えてもらったしな。
それにしても、良く何年も隠し通せたもんだ。
俺が探偵だったら、数日で暴いてやるけどな! 何の根拠もないが。
大体何だよ、探偵って。推理小説の読み過ぎじゃねーのか。
経理部長はもうこの世にはいない。前社長は当然逮捕か。
新株の割当先も株価操作に関わった仕手筋も御用だろう。
あんな奴らにも弁護士が付くなんて、日本の司法制度は実に優しいもんだ。
…………違うだろ。
今考えるべきはこんなことじゃない。
頭では分かっていても気持ちは無意識にそれを拒む。
上場廃止により株主が打撃を負う。
100名弱の仲間が路頭に迷う。投資先の会社の信用が揺らぐ。
まぁ、ザっとこんなものか。
俺はこれから起こり得る可能性を、まるで他人事のように頭の中であげていった。
客観的に物事を見るためには、ある程度呑気に構えていないとダメなのだろう。
……何だか疲れたな。
病院へ行く前に、ひと眠りしよう。
そう決意し、ベッドに横になろうとした時、再びスマホが鳴る。
享保、か。
「もしもし、どした?」
「近江さんっ! 飛鳥のヤツ知りませんかっ!?」
「今日は投資先に直行だったはずだが……。つーかお前、今日アイツの同行じゃなかったか?」
「はい、そうなんすけど……。待ち合わせに1時間過ぎても来ないんです! 電話にも出ないし……。何かあったんじゃ」
「分かった。俺からも電話してみる」
「マジ、スンマセン! こんな大変な時に……」
「気にすんな。お前だけでも間に合いそうか?」
「はい。元々、事前に打ち合わせするために、早めの集合時間にしたんで」
「了解。じゃあ悪いが、そっちは何とかやってくれ」
「分かりました。じゃあお願いします!」
享保も、かなり動揺しているようだった。
無理もない。
社会人一年目で、これほどの厄介ごとに巻き込まれたのだから。
などと、厄介ごとの元凶たる俺は、どこか他人事のように考えていた。
まともに考えると、罪悪感で頭がおかしくなってしまう……。
とにかく今は電話だ。
思考から逃げるように、俺はスマホに手を伸ばした。
…………出ない。もう一度かけてみるか。
………………ダメだ。
その後も数回掛けてみるが、なしのつぶてだ。
少し時間を置いてみようとスマホをベッドに放ると、それを待っていたかのように通知が鳴る。
飛鳥、だ。
何故だろう。自分から掛けたのに、妙に身構えてしまう。我ながら勝手な男だ。
俺は、恐る恐る『応答』にタッチする。
「……飛鳥、か?」
「はい、近江さん。お疲れ様です」
今にも消え入りそうな声で彼女は応える。
電話の奥から聞こえてくる、『カンカン』という踏切警報機の無機質な音と、そこを通り過ぎていく電車の騒音が、彼女の声をより弱々しくする。
「朝からバックレた割りに随分と呑気だな。クビになりてぇのか?」
「……クビにはなりませんよ」
やはり彼女は既に全てを知っている。
俺の行動が、今の結果を招いたことすらも。
「近江さん、ごめんなさい」
「……謝る相手が違うだろ」
「享保君にはさっきメールで謝りました。でも、近江さんには直接謝りたくて」
「まるで、心当たりがないな」
「では私の独り言を聞いて下さい。私の罪は三つ。一つは、経理部長を死なせてしまったこと。二つ目は、会社の仲間たちを巻き込んでしまったこと」
「何、言ってんだよ……」
「そして三つ目。近江さんに、罪悪感を植え付けてしまったこと」
ここまで聞いて、俺は黙ってはいられなかった。
「うるせぇ! お前の言っていること全部間違ってんだよ! 経理部長が死んだのも、会社の奴らが路頭に迷うのも、全部俺のタレコミが原因だ! だから、お前は立派な被害者なんだよ!」
「近江さんなら、そう言うと思いました。でも、それは違いますよ」
「……違わねぇよ」
「私、言いましたよね。近江さんが私たちのことで悩んでいるなら、皆で乗り越えるべきだって」
「自意識過剰だな。何で俺がお前らのために悩む必要があるんだ? 俺は100%自分のために動く。言ったろ? 全部、俺の性分だって。単に、俺が潔癖症を拗らせた結果だ」
「分かってない……。近江さんは分かってない」
飛鳥はそう言って、またしばらくまた黙り込む。
「近江さん、私って頼りないですか?」
違う。そうじゃない。
第一、相談したところで俺たちでは何も……。
「私、まだ近江さんの足引っ張ってますか?」
そんな訳あるか。お前は優秀な後輩だ。
「ごめんなさい……」
彼女がそう言うと同時に、再び電車の音が近づく。
ボリュームは次第に大きくなり、先ほどのものとは比べ物にならないほどの轟音が鼓膜を震わせる。
「おいっ! 何の真似だっ!?」
「近江さん、出来の悪い後輩ですみません……」
電話越しから、甲高いブレーキ音が聞こえた。
そこから先は良く覚えていない。
◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇
検察の捜査により、会社の不正は暴かれた。
不正発覚後、監理銘柄に指定され、間もなく上場廃止となる。
会社は、信用の失墜と債務超過により、資金繰りが滞り清算手続きに入っていった。
俺はと言うと、そこからしばらくの間塞ぎ込む。
当初こそ、『もう社会人なんざやってられるか』などと自暴自棄になっていたが、それでも食っていくためには働かなければならない。
会社が潰れて1ヶ月後には、アルバイトや司法試験の勉強を始め、着実に新しい生活に順応していった。やはりこれが人間だ。
俺も例に漏れず薄情者ということだろう。
だが、それでもこの一連の出来事を忘れたことは、今日まで一日たりともなかった。
ただ、一つ。彼女の顔と声だけはどうしても思い出せない。
心療内科では、心因性健忘症だと診断された。
これではまるで逃避だ。
飛鳥は、俺が殺したようなものなのに。
どうやら、俺はどこまでも卑怯で弱い人間のようだ。
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