10
次の朝、わたしは早くに起きて、昨晩の夕食の片づけと、朝の散歩を楽しむことにした。普段は寄宿生が占領している談話室も人気がなくて、ものさみしい。だけど、その方が独特の雰囲気があって楽しかった。寄宿生も先生方も、嫌いなわけじゃない。だけど、わたしの境遇を思い出させてつらくなる。孤児だけでいるのもある意味同じだ。触れないけど、空気にはいつでも、その事実が浮かんでいる。息をすると孤独感を吸い込んでいるようだ。今のほうが誰もいないけど、わたしが何者であるかを気にする必要はない。わたしは疎まれる存在でも、共感される存在でも、同情される存在でもない。しっかりと自立しなければいけないわけでも、将来を考えた責任ある行動を周りにとって見せなければいけないわけでもない。完全に自由だ。なぜか、ジェームズ・ティルベラーはいるけれど、彼はそのどれも邪魔するわけではない。彼はわたしを何者か忘れ去れてくれる一番の存在だ。彼自身、別の悩みを作り出しているのだから。
植物に囲まれた庭園をあてもなく歩いていると、ジェームズの姿が見えた。早足に、明確な目的地を持って歩いている。声をかけようと思って近づいて行ったら、いきなり彼が立ち止まった。木々の合間から人が出てくる。なぜかはわからないが、そうしたいという衝動に駆られて、とっさにわたしは木陰に隠れた。
「いったい何をしに来たんだよ?」ジェームズが荒々しい口調で言った。イライラしているように見える。
「報告を」相手の男が答えた。
「なぜ、学園まで来た?連絡をくれれば街まで出たのに」
「それはあなたに迷惑がかかります。それに、学園に人はいないのでしょう?」男は若いが、傲慢ともいえる態度だ。ジェームズに雇われているようだが、彼と対等にも見える。
「どこでそれを……?まあいい。調べるのがおまえの仕事だからな」ジェームズはあきれたように肩をすくめている。声もしぐさもいつもの優雅な感じとは違う。だが、街で見た不良を演じているときとも別だ。無造作で素、偽りがない姿に見える。これが本物の彼なのだろうか?「それで?あいつは?」
「あなたは彼のもとを去ってはいけなかった。彼はますます自堕落になっています。あなたが元を断ちましたから、今は無事だが、別のところと接触したら今度こそ、大ごとになりますよ。彼にはあなたが必要なんです。見ていれば誰でもわかりますよ」男はため息をついた。つらそうなため息だ。
「なぜ、おれがこの学園に来るはめになったと?あいつのせいだ。あいつを守ろうとして、こうなった。また、隣にいて同じ間違いを繰り返すことはしないよ」ジェームズの声は失望と怒り、苦悩で荒くなっている。
「ですが、まだ、気にかけていらっしゃる。こんなことをするのも、その証拠です」
「おれが隣にいたら、同じことが起こるぞ。離れているべきだ。それに、そうだ、気にかけているよ。だが、彼がしたことは、してはいけなかったことだ。だから、また、全部の面倒を見てやるつもりはない。立ち直るのは自分の問題だ」
「そうですかね?一度、会ってやったらどうです?ご自分でそれを言われては?今の彼は傷ついているんです。話してみるべきですよ」男が説得する口調になる。
「考えるが、期待はするな。それで、今日は何を言いに来た?ただの報告じゃないんだろ?」ジェームズはイライラした声で言った。
「ええ、新しい人物が浮上しました。彼のよく行く場所にいる。まだ、気づいていませんが、時間の問題でしょう。どうしますか?」
「そいつを遠ざけろ。適当な額なら用意するし、条件を聞いてもいい。特別なものの手配のつてはある。活動場所を変えるようにさせればいい」ジェームズは適当に手を振った。
「いつか、みんなが怪しみだします。その前に彼に会ってください。こんな方法じゃなく、説得するんです」男が懇願する。
「いいか、今は無理だ。あいつのせいで、自分の恋愛もまともにできやしないからな。許しきれてないのさ」ジェームズは自嘲気味に言う。わたしはどきりとした。彼はわたしのことを言っている。
「どういう意味です?」男が聞く。わたしも聞きたかった。
「この学園に素晴らしい、非の打ちどころのない少女がいたとする」しばらくして、ジェームズが言った。言葉を絞り出すようにしゃべっている。それだけ真剣だってことだ。「幸運なことに、その少女もおれに好意を抱いてくれているとしたら?もっと幸運なことに、彼女と二人きりになる機会は多くて、キス寸前までいった。だが、そこであいつに言われたこととあの出来事がフラッシュバックしてきたんだ。とっさに、動けなくなった。どれだけイラつくことかわかるか?」
「あなたもつらいのはわかっています。お怒りになっているであろうことも。ですが、考えてみてください。では、また報告に伺います」
「今度はメモを先に出せ。不意打ちは嫌いだ」ジェームズが言うと、男が歩き始めた。
わたしが出て行く潮時だ。何気ない顔をしていけば、昨日のことを聞ける。あの男の正体も。
「おはよう、ジェームズ」わたしは横に行くと、話しかけた。彼が驚いたように目を見開く。
「おはよう」彼は小さくつぶやいた。
「あの男の人は?」わたしは人影だけになった男を頭で示した。
「何を聞いてたんだい?」彼は警戒もあらわになった声で聞いた。けれど、恐ろしいわけではない。わたしへの気遣いも見られる。
「最後のところだけ。何があったの?昨日、何を思い出してやめちゃったの?わたしがどう思ったと思う?」わたしはちょっと、嘘をついた。罪悪感はあまりない。今はまだ、これ以上のことを追求すべきではない。したいのは山々だが、警戒させるだけで何も引き出せないのは目に見えている。でも、わたしのことだけなら?少しは素直になるかも。
「きみには申し訳ないことをしたね。昨日は取り乱してしまったんだ。彼に言ったことは本心だよ」ジェームズは見るからにほっとしている。裏取引だか、なんだかわからないことについて知られていないと思い、警戒心を緩めたらしい。
「その人は何をしたの?なんで、トラウマみたいになってるの?」わたしは言った。そっとしておくべき?わからないけど、聞くのをやめれなかった。
「ごめん、でも、話せないんだ」彼が答えた。「まだ、自分の心の整理もついていない。これはきみに関係ないし、関わらない方がいい。ぼくと彼らとの問題だし、ぼくが心の整理をつけるまで、待ってほしい。もし、待っていてくれるなら」最後の言葉は自信なさげに、でも期待の入り混じった懇願だ。
「いいわ。あなたがあの男の人に言ったことを、わたしにちゃんと言ってくれるなら」わたしは彼の手を取った。
「エマ」彼がわたしの名前をささやく。「きみのことはとても好きだ。だけど、ある出来事のせいで、関係を進められない。ぼくが大丈夫になるまで、待っていてくれるかい?」
「わたしもあなたのことが好きよ。だから、待ってるわ。でも、わたしたちは親しい友だちのままよね?」
「もちろんだよ」ジェームズが答えた。残念だと思ってる気持ちと自己嫌悪が感じられる。自分の感情のコントロールができないことと、こんな状況にたいして罪悪感を抱いているのだろう。
「なら、わたしはいつでも隣にいるのよ。だから、もしできるなら、相談には乗るわ。なんでも受け止められるはずだから」
「そう言ってくれるとありがたいよ」ジェームズはわたしの目にかかった髪に触れた。そっと、耳の後ろにかけてくれる。だけど、そのすぐ後に目に暗い光が宿った。まただ。その何かを思い出している。
わたしは何も言わずに歩きだした。彼も隣をついてくる。彼は何を考えているのだろう?気持ちは通じ合っているはずなのに、何もできない。できるのは、彼に気を使って、そばにいることだけだ。せめて、原因が何かわかればいいのに。だけど、そんなの無理な話だ。彼が一つの山を克服したら、言ってくれるかもしれない。けれど、それまでは何もできないのだから。
結局、ほかの生徒たちが戻ってくるまでの間、わたしたちは遊んで、出かけたけど、それ以上の中には進展しなかった。残念だけど、不安はない。なぜなら、気持ちはわかってるから。それに、これならベスたちに何も打ち明けるが必要ない。友だちなら大丈夫だ。ただ、恋人となると、それを報告しないのは信頼していないということになるし、さすがに隠しておく気もなかった。
この旅行が終わると、最終学年の生徒たちは卒業に向けて本格的に動き始める。寄宿生はもっと上で専門的な学問を学ぶために、進学の準備を始めるか、華々しく社交界にデビューして、教育を終えたものとして退廃的な世界で暮らしていくか、親のビジネスに参加するか。孤児は高等教育を終えたものとして、しっかりした就職先を探す。メロディは出版系に、ベスは秘書の仕事を探していた。
「聞いて!」うれしそうな叫び声と共に、ベスが部屋の中に飛び込んできた。
「どうしたの?」部屋に残っていたソフィとわたしが言う。メロディは就職が決まりそうな出版社のところに二日かけて面接に行っていた。出版社があるのは都市で、学園のあるあたりから数時間かかる。
「仕事が決まった」ベスが紙を見せてくれた。
「すごいじゃない!どこの仕事なの?」わたしが聞く。
「不動産会社の社長の秘書。社長も女性で、教育を受けた若い人を募集してたんだ。そこでビジネスについて学べるし、運が良ければ不動産業界に知り合いがたくさんできる。成功するには一番の業界だよ」
「よかったわね!」ソフィが言った。
「メロディと同じ街で働けそうだよ。そうしたら二人でルームシェアをしようかな?」ベスが言う。
「そうしたら夏休みに二人で訪ねるわ」わたしはソフィを見た。ソフィも同意のうなずきをする。
「絶対来て」ベスが言った。
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