8
幸いなことに、わたしの仕事が終わったのは昨日よりもはるかに早い時間だった。一度部屋に戻ろうか?そうするだけの時間はあるし、それで宿題をしたり読書をしたり、リラックスするのもいい考えだ。まだ誰も帰ってきてないだろうから、一度帰ってきたことに気づかれる前に部屋を出ることができるかもしれない。
でも、誰かが帰ってきたら?それだと説明が面倒だし、何かあるのかと疑われてしまう。これ以上みんなをだますのは嫌だから、それは絶対に避けたい。ただでさえ隠し事をしているのだから。
結局、部屋に戻っていらないものをおいてから図書室で勉強することにした。宿題を持っていけばそれほどの量にはならないし、時間もつぶせる。
だいぶ遅くなってから、わたしは図書室を出て校舎の裏に向かった。彼はたぶん、校舎の裏の広場のことを言っているのだろう。お昼休みや放課後、休日に人が集まる場所。この時間ならだれもいないはずだ。
いつもにぎわっている広場も暗くて人気がなく、ひっそりとしていた。念のため設置してあるライトで周りや相手の顔は見えるだろうが、それでも不気味に思えてしまう。特にたった一人でベンチに座っているようじゃ。
「待たせたかな?」暗闇から彼の声がした。
「いいえ」その方向に向かって答える。
「それならよかった」彼が前へ進み、ライトの光で彼の姿が光って見えた。「今日は悪かった。あれでも周りから文句が出ないようにしたんだけど」
「あなたはいつも周りに無関心に見えるわ。それなのに孤児なんかに話しかけたら、何でもないことでも噂になる」わたしはベンチから少し身を乗り出した。彼はさっきとまった場所から動かずに立っている。
「教科書を拾っただけだよ。それの何がうわさになるんだ?」彼が眉をひそめた。
「あなたがなぜか、孤児の席の方にいたこと。そして、貴族は気取ってるはずなのに教科書を拾う優しさを持っていること」
「貴族が気取っているなんて、誰が言った?人を生まれだけでひとくくりにするなんて。そのくくりに当てはまらない人が必ずいるはずなのに」彼は表情を曇らせると、わたしにぎりぎり聞こえるだけの声でつぶやいた。
「この学校の子ならだれでも思ってるわ。でも、みんなが自分と違う人たちをひとくくりにするのは、そうしないと彼らをどう理解すればいいのか、わからなくなってしまうからよ。未知の相手っていうのはその人を不安にさせるの」わたしは彼にこっちに来るように手招きした。
「きみは?きみも自分には理解できない人がいるのが不安で、人を型に当てはめたいと思う?」彼はゆっくりとベンチのほうに来ると、わたしの隣に腰かけた。
「不安はあるわ。でも、それは誰だって同じよ。でも、人はそれぞれ違うでしょう?こういう人がいるって一概に決めつけたくはないわね」わたしはゆっくりと言葉を発すると、その意味を吟味して、ふっと笑ってしまった。
「どうしたの?」彼が眉をひそめる。そのしぐさも優雅で美しい。
「わたしもあなたのことを貴族の息子だから気取ってるって思ってたわ。実際に知り合ってからは違うってわかったけど」
「ぼくは気取ってなんかいないよ」彼はわたしのほうを見ると、困ったように言った。「ただ、普通にしているつもりさ」
「普通じゃないわ。それは確かよ」わたしは優しい声色で指摘した。「普通の子はもっと人と接するわ。あなたは誰とも話さない。それに、立ち振る舞いも、話し方も、洗練されている。生まれで人を判断すべきじゃないのはわかっているけれど、それでも育ちが現れているのは否定できないわ」
「育ちは知らないけど、ぼくだって人とは話すよ。仲がいいやつだって、いるんだから」
「でも、それを誰も知らないでしょう?あなたがこの学園に来た理由は誰も知らないわ。あなたの友人のことも」
「この学園で友人を作ろうとか、そういうつもりはないよ。前ので懲りたんだ」彼はそこまでつぶやいて、思い出したように付け加えた。「もちろん、きみは別さ。きみは何か特別なんだ。話したいと思わせるような何かがある」
「わたしは普通の子よ。おとなしくて、目立たないような。寄宿生には裕福で、快活できれいな子がいるわ。孤児にも明るくて強い子が。でも、わたしにはそんなとりえもない」
「ぼくは裕福な相手に取り入る必要はないんだよ。自分の立場は心得ているし、人に取り入るのはいやだ。それに、きみはきれいだ。話もおもしろいし、とても賢い。ほかの子たちより落ち着いていて、洗練されている。それなのに何のとりえもないなんて、謙遜しすぎだよ」
わたしは返事ができずにうつむいた。そんなことを言われても困る。わたしはきれいじゃない。せいぜい人並みだ。それに、それほど賢くもおもしろくもない。読書は好きだし、成績も悪くはないけど、ずば抜けているわけではない。洗練されているなんて。そんなはずない。でも、言われて嫌な気分はしなかった。
「きみ、読書は好きだろ?何の本がお気に入り?」話が行き詰ったのがわかったのか、彼は巧みに話題を変えた。
「わからないわ。いろんな本を読むの。でも、デュマは好きよ。それに、ジェーン・オースティンも」わたしはちょっと迷ってから言った。何がお気に入りかなんて、考えていなかった。好きな話はいくつもあるけど、どれも同じくらい好きだから。
「デュマはいいね。《三銃士》は特に。オースティンも読んだことはあるけど」彼はそこまで言うと、言葉を濁した。オースティンは好きではないらしい。
「あなたは?どの本が好きなの?」わたしは言外の意味を酌んで、でも気にしていないという風に言った。
「どれかな?シェイクスピアは好きだよ。機知に富んでいて、ロマンティックで、質がいい」
「わたしも好きよ。《冬物語》は大好きなの。なんでかしら?そのことを忘れてたわ」わたしはふと思い出して言った。
「ぼくは《ハムレット》が好きなんだ。でも、それもすてきな話だよね。どうして《冬物語》がきみのお気に入りなの?」
彼の目は純粋な好奇心できらきらと輝いている。暗闇の中でもそれがわかった。だから、余計につらい。嘘はつけないから。単に話を続けるだけなら、なんとでも言える。でも、こんな風に真剣に会話をしているのだから、ごまかすことはできない。
「ごめん。聞いちゃいけなかった?」彼ははっと気がついて言った。「いいんだ。そんなに大切なことでもない」
「いいえ、いいのよ」わたしは大きく息を吸うと言った。「《冬物語》はパーディタって女の子が最後には自分の家族を見つけて、愛する人とも結ばれるでしょう?彼女は羊飼いの娘として育ったのよ。だけど、本当の両親に会うことができたの。あこがれるわ。わたしは孤児だけれど、もしかしたら、両親に会うことができるかもしれないって希望を持てるの」
「つらいなら、話してくれなくてもよかったんだよ。でも、ありがとう。そんなに正直に話してくれてうれしいよ」彼はそっと、わたしの手に自分の手を重ねた。そのぬくもりが心地よい。
「へんね。あなたに話したのが初めてよ。今まで、友だちにも言えなかったの」わたしは彼の瞳をのぞきこんだ。深緑の瞳に思いやりとやさしさがあふれているのを見てほっとする。こういう風に自分も落ち着いた気持ちになれる相手は初めてだ。
「ぼくが《ハムレット》を好きだと言ったのが、ひどく考えのないことに思えるよ」彼はしばらくして視線を逸らすと、ふっと笑って言った。
「どうして?わたしみたいなことじゃなくていいのよ。あなたはなんでそれが好きなの?」
「《ハムレット》は人間関係が複雑に絡み合っている。欲望と復讐、愛、すべてが美しく調和しているように思えるんだ。悲劇だけど、だからこそ、物語が映える」
「わかるわ。でも、わたしは悲劇よりも喜劇が好きね。物語は自分の気持ちを明るくしたいときに読むことが多いから」
「そんなにつらいことばかりなのかい?」彼はわたしのほうを見た。理解できないという表情をしている。「きみは賢いし、悲しみに打ちひしがれたり、ボロボロになっているようには見えない。孤児のみんなも。でも、時折、きみに影が差すんだ」
「あなただって、それは同じよ。恵まれているのに、話していると心に傷を負っているように思えるわ」わたしは答えをはぐらかすつもりで言った。そんなにすぐに話したらつまらない。返事のしにくい内容でもあるし。でも、彼がどんな反応をするか、興味もあった。
「ぼくにだって、いろいろなことはあったからね。もう、うやむやにしないで答えてくれる?」彼はいたずらっぽく笑った。
「ひどいわ。あなたは自分について何も言ってくれないのに。わたしだって、答える必要はないわよ」わたしは笑い声を上げて言った。
「ぼくのことも、そのうち話せるかもしれないよ。でも、今日のところはきみのことだよ。孤児がこの学園で暮らすのはそんなにつらいことなのかい?」
「ああ、ジェームズ」わたしは努めて明るく、言葉を重く感じさせないように言った。「暮らしはそんなにつらいわけじゃないわ。ただ、両親もわからない、身寄りもない人たちの不安は、あなたにはわからないでしょうね。わたしはそういうことを考えずにはいられない人なのよ」
「きみは何か、ほかの子が知らないことを知ってるんじゃないの?どうしても、そういう風に見えるよ。それとも、ぼくがよく見てる子なんて、きみだけだからかな?」彼はわたしが赤くなるようなことをさらっと言ってみせた。どうしてこんな風にわたしのことを言うの?特別な人みたいに。わたしみたいな孤児、彼にとってはたいしたことのない存在のはずなのに。
「どっちもよ。わたしは友だちよりは知っていることや気に病むことが多いかもしれない。でも、みんな、心の奥底には同じ悲しみを抱えてるわ。わたしが隠すのが下手なのね」わたしは苦笑いをして言った。
「エマ」彼が低く呼ぶ自分の名前の響きに顔を上げる。どうしたらたったの一言にたくさんの気持ちを込められるのだろう?「きみはほかの人よりも詳しく知りすぎているんだよ、きっと。それに、隠すのが下手なんじゃない。ぼくがきみのことを気にしてたからわかったことさ」
「おかしいわよ。わたしなんて、気にかけてもらうのにあたいしない人だもの。それに、あなたが話しかけたのは、日曜、あんなところで遭遇したからなんじゃないの?」わたしは挑むように眉を吊り上げた。
「それは理由の一つさ。きみのことだけは、ずっと気になっていたんだ。口実に過ぎなかったのかもしれないね」彼は軽く肩をすくめると、暗い空気を振り払うようににっこりとした。「時間って大丈夫?きみの友だちが心配するんじゃないかな?」
「そろそろ戻るわ」わたしは彼の手をそっと振りほどくと、ベンチから立ち上がった。「今度はいつ、話せるのかしら?」
「今週末は用事があるんだ。でも、来週のどこかで話そう。今度はもっとうまくやるよ」彼はわたしに続いて立ち上がると、わたしの目の前に立った。
「気を使ってくれてありがとう」わたしは視線を下に落として言った。「先に戻るわね。あなたは数分したら、一人で散歩をしていたってふりをして戻ってちょうだい。万一、誰かに見られても、何をしてたのか気づかれないように」
「わかった」彼は小さく答えて、わたしに道を開けると、目を合わせた。「それじゃ、エマ、また今度」
「ええ」わたしはそう答えると、闇の中に自分の部屋へと戻って行った。
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