7
次の朝、わたしは目が覚めた時から今までにない気分だった。会えるのがうれしいけど会うのが怖いといった気持ち。みんなに知ってほしいという気持ちと隠しておきたいという気持ち。そして、恐れと興奮が入り混じったような不思議な高揚した気持ちだ。
彼は昨日言った通り、わたしに話しかけてくれるのだろうか?それとも、昨日の話は思い直していつもの冷たい態度をわたしに対しても貫き通す?わたしは起きてからずっと、話しかけてくれると確信を持った直後に、やっぱり孤児に目を向けるはずがないと沈んだ気持ちになるということを繰り返していた。
クラスに行くのはいつも通りだった。孤児は早めに教室に入り、もっと部屋が教室の近くにある寄宿生たちが華やかにおしゃべりをしながら入ってくるまでの短い間、教室の前も後ろも使っておしゃべりをする。それから寄宿生が来ると後ろに行く。教室を広々と使う寄宿生の子たちが楽しそうに話すわたしたちとは格の違う話を聞くか、自分たちのおしゃべりを寄宿生に迷惑にならないように小さな声でするのだ。
わたしは寄宿生が入ってくる前も来てからも机に座って本を読んでいた。今日はおしゃべりをする気分じゃない。それに、彼が入ってくるのか、わたしに話すのかを考えたくはなかった。
授業が始まる少し前、わたしは本に集中をしていて机から教科書を落としてしまった。それに気づいて本を置き、教科書を拾おうとしたが、ぱっと顔を上げた時には教科書は目の前に差し出されていた。教科書を持つすらりとした手、長身に寄宿生の男子の制服、インクのように真っ黒な髪。そして深緑の瞳。ジェームズがそこに立っていた。
「これ、落としたよ」彼があくまでクラスにいるただの女子に話すようにそっけなく言った。
周りが波を打ったように静かになった。あのジェームズ・ティルベラーが話しているのだ。クラスに入ってきたときの自己紹介以来だろう。しかも孤児に話しかけている。なぜ孤児の席しかない後ろに彼がいたのか疑問に思う者も多かったかもしれない。
わたしは彼が話しかけてくれたという安堵と親しみを見せない態度に舌を巻くばかりだった。寄宿生の女子のわたしへの風当たりなども考慮してそうしてくれているのだろう。ただ話しかけるという約束を守るだけでなく、巧みな会話に持っていく。彼はどれだけ賢いのだろう。
「ありがとう」わたしは小さな声で言うと教科書を受け取った。思い切って彼を見上げると深緑の瞳がいたずらっぽく輝いていた。自分たちだけしかわからないこの状況を楽しみ、わたしにメッセージを伝えようとしている。わたしは彼がわたしから時折目を移す手元を見た。彼の細く長い指が教科書のあるページを指さしている。わたしが理解したというように見つめ返すと彼はそのまま何も言わずに去っていった。
彼が自分の席に戻り、いつもと変わらないように本を出して黙って読み始めると、寄宿生も孤児も呪縛が解けたようにおしゃべりを再開した。きっとさっきまでしていた会話を忘れ、ジェームズのことを話すのだろう。もしかするとわたしのことも。でも、わたしはどうでもよかった。そんな噂は気にならない。きっと、的外れなことばかり言われるのだろうから。
それよりも気になるのは彼がなにをしたのかだ。教科書になにをはさんだのか。わたしになにを伝えたかったのか。でも、それがわかる前にソフィに話しかけられた。
「今のは何だったのよ、エマ?」驚きと好奇心を隠しきれていない。それに、わたしのことをからかっているようでもある。
「なんだったってどういう意味?」わたしはとぼけることにした。昨日の夜、彼と話したなんて言う気はない。彼が言わないようにと頼んでいたし、わたしだって話したいとは思わなかった。今までそんなことはなかったのに。
「はぐらかさないで。どうしてジェームズ・ティルベラーがあなたに話しかけたの?」ソフィは怒ったように軽くにらんできた。「わたしは寄宿生じゃないのよ。何も隠さないでいいの」
「そんなこと言われても、わたしだってわけがわからないわ。きっとそこを通りかかってたまたまわたしが教科書を落としたから拾ってくれたんじゃない?」わたしは罪悪感からくる胃を締め付けるような感覚と戦いながら、平静を装った。たとえソフィであっても本当のことを話す気にはなれない。もしベスがここにいても同じことをしただろう。
「そうなら不思議ね」ソフィはあきらめたようにため息をついた。まだ少しは疑ってる気持ちも残っているだろうが、これ以上何も言ったりしない。それなら彼のことを噂する方がいいと思ったのだろう。「どうして彼は知らん顔をしないで教科書を拾ったのかしら?だって寄宿生よ。彼らはみんな意地悪なのに。しかも侯爵の息子でしょ?」
「わたしも不思議に思ってたわ。でも、それくらい身分があって余裕だから親切もできるのかも」わたしは無邪気を装って話に乗った。
すべてがうそというわけではない。彼がわたしに関心を示したのも貴族で生活も身分も余裕があって、ただの遊び感覚なのかと考えていたから。でも、昨日話しかけられたのは日曜のことのせいで、彼がかかわっていそうなことからすると余裕があるからだけではなさそうだけど。
「ずいぶん冷めた見方なのね。あんなハンサムで身分のある子から話しかけられたっていうのに。わたしたちには夢のよう出来事じゃないの」彼女が夢見る乙女のようにため息をついた。いつものソフィらしくない。でも、ジェームズが誰のことだってそうさせるくらい魅力的だということはわたしも分かっていた。
「たいしたことないわよ」わたしは軽く微笑んだ。大げさにとりすぎ、というように。「ただの気まぐれだと思うわ」
ソフィはまだ何か言いたそうだった。でも、そこで先生が登場。仕方なく自分の机に戻っていった。
授業が始まってからやっと、彼がなにを言いたかったのかがわかった。教科書の中に一枚の紙が挟まっていたのだ。優雅な筆跡で短く、メッセージが書いてある。
〈今日の午後、昨日会ったのと同じ時間に校舎の裏に来て。また話そう〉
わたしは誰にも気づかれていないか気をつけながらメモをポケットにしまった。彼は約束を守った。しかも、今夜、また会おうと言ってくれている。たいしたことじゃないのかもしれない。でも、彼はわたしと話したいと思ってくれた。それだけで十分だ。昨日と同じ時間ならもう仕事は終わっている。昨日は一番遅くまでしなければいけない仕事をやっていたのだから。
ランチ前の授業までわたしはずっとそのことを考えていた。もちろん、授業はまじめに聞く。おもしろいし、大切なことだから。でも、あたまにスキができるたび、ジェームズのことが忍び込んできた。
興奮や期待と共に不安や罪悪感もある。ベスやメロディ、ソフィにはどう話す?話さないというのが一番可能性の高い選択肢だが、彼女たちに隠し事らしい隠し事はしたことがない。どうすればいいのかわからなかった。
ランチ前最後の授業が終わり、わたしたちはカフェテリアに移動していた。この学園では孤児も寄宿生も同じカフェテリアで食事をする。食事の時だけは孤児だからと言って仕事をさせられたり、場所を分けられたりしない。もちろん、孤児の方が座れる席は限られているし、優先順位は寄宿生の方が上だけど。
「エマ、ジェームズ・ティルベラーがあんたに話しかけたんだって?」わたしが向かいに座るなり、先にテーブルについていたベスが話しかけてきた。
「どうしてもう知ってるの?いくら情報通のあなたでも早すぎない?」わたしはため息をついてフォークを手に取った。ベスの目を見ないようにしてサラダをつつく。目を見てしまえばそこに映っているのは純粋な好奇心だけだろうから。また胃を締め付けられるような感覚が襲ってくるに違いない。
「寄宿生も孤児もみんな噂してるよ。大騒ぎだったんだから」ベスは肩をすくめた。それなのに知らなかったの?そう言っている。
「たいしたことじゃないわ。彼の気まぐれでしょ」
「彼が転校してくるって言った時に一番興奮したのはどこの誰よ?あんただったんじゃないの?」ベスがわたしの目をのぞきこんだ。
やっぱり。目には純粋な好奇心しか映っていない。思った通り、胃が締め付けられるような感覚を覚えた。
「エマってあなたのこと?」わたしが返事をする前に、威張った声がとんできた。目の前には寄宿生の女の子が四人ほど立っている。
「そうですけど」わたしは小さな声で言った。自信に満ちあふれて傲慢そうなお嬢さまが何の用?それに彼女たちの中には一つ上の学年の子も二人ほどいる。あとはクラスの女の子だけど。
「ずいぶん生意気なようね。孤児のくせに」年上のブロンドの少女が吐き捨てるように言った。怒りと憎しみと蔑みが混ざったような目つきだ。感じが悪いし、見ていて気持ちのいいものではなかった。
「どういうことですか?」わたしはとまどって彼女を見つめた。わたしは何も悪いことをしていない。寄宿生に生意気だと思われることは何も。彼女たちが来た理由にはうすうす気づいていたが。
「わかってないとは言わせないわよ」彼女が腰をかがめて顔を近づけてきた。
クラスや友人の中でも中心的な存在なのだろう。自分が一番、ほかの者を脅すのも慣れていると言ったところだ。でも、それに屈する気はない。自分が悪いことをしているわけではないのだから。誰も悪いことはしていない。
わたしは彼女をじっと見つめたまま目をそらさなかった。「どういうことかわかりません」
「生意気な孤児ね。今日、ジェームズ・ティルベラーに色目を使ったっていうのにとぼける気なの?」
「色目なんて使っていません。彼は落とした教科書を拾ってくれただけです。それに、わたしが何かしたところであなたに何か迷惑がかかるのですか?」最後の一言は余計だった。相手の怒りをあおるだけだ。
「あなたに何か迷惑がかかるのですか?」彼女がわたしの口調をまねて繰り返した。バカにしているのがありありとわかる。「孤児のくせに貴族に構ってもらおうなんてバカなことは考えないで。彼はどうせ、あなたのことを気持ち悪いと思うだけよ」
これだけ言うと彼女は背を向けて気取ったように自分の仲間がとった席に歩いて戻っていった。わたしを脅すためにここまで来たのだ。しかも意味のないことで。
「感じわるっ。彼女知ってるよ。レイチェルっていうやつ。学年で一番威張ってて一番いやなやつ」彼女たちが言ってしまうとベスがささやいた。「きっとあんたに嫉妬してるんだよ。さんざんジェームズ・ティルベラーの気を引こうとしたのに失敗してるから」
「わたしはべつに彼の気を引こうとしてるわけじゃ……」ほんとに?心の中の声が聞こえてわたしは黙ってしまった。ほんとは彼のことが気になって気になって仕方がないじゃないの。色目を使ったわけではないがレイチェルの言ってることがすべてはずれなわけでもなかった。
「気にする必要ないよ。エマが何かしたわけじゃないもん。彼女たちが大げさにとりすぎてるだけ」みんなはわたしが途中で言葉を切った理由を別のことだと思ったらしい。優しい、慰めるような声でメロディが言った。
「そうだよ。あんな奴らほっときな」ベスも同調する。隣ではソフィが賛成だというようにうなずいている。
「そうね。気にしないわ」今日はもうおなじみとなった胃の締め付けられる感覚を気にしないようにしながら、わたしはできるだけ明るい声で言った。
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