そのに 「傷」

 開かれたままの地図が置き去りにされている。シダラとエルフ族の諍いの中、人知れず風に攫われて夜空を舞った。

 南東からの風は北西へ、ゆらりゆらりと崖下に落ちていく。地図が自ら示すように、そこにはエルフの村があった。

 百人弱のエルフが暮らしているこの村には、木造の住処が並んでいて、その中央には祭儀場がある。中心に立つ老エルフが身に着けているのは、木を削って作られた数珠や宝石の指輪。それから使い古されてくたびれた、ボロボロのマントである。錫杖の石突を地に打ち付ける事で遊環ゆかんを鳴らし、時に天に掲げながら喉を震わせている。燭台の灯が燃え、美しいエルフの踊り子が祈禱の舞を踊った。

 今日は月に一度の儀式の日。住民たちは跪き、目を閉じて神への祈りを捧げている。そこへ、遅れてやってきた母エルフが幼い子の手を引いて駆け付けて、仲間に混ざって祈りを捧げた。最初は大人しくしていた子供だったが、次第に退屈そうに周囲を見渡している。そんな彼の頭を何かが撫でた。

 近くに落ちたそれを興味深く眺める。それは外界の地理を示した地図だった。生まれてこの方、一度も村の外を見た事がない少年は、知的好奇心を強く刺激されて目を輝かせた。シダラ達の落とした地図が、子供にとって新たな希望となっている。

 ……しかし。シダラが落としたのは地図きぼうだけではない。

 村の南西地点、そこに瀕死の魔猪が横たわっている。勢いそのままの落下の衝撃に耐えるには、彼の体重はあまりにも重かった。顔はつぶれて骨が砕け、白目を剥いている。左半身は地面を引きずって血の跡を残し、落下地点にあった木をなぎ倒した。それでも即死を免れた生命力は尋常ではなく、未だぴくぴくと痙攣している。だが、命尽きるのも時間の問題であった。

 月光に晒される彼の右半身には、赤い模様の他に斬撃の跡がある。これは、何者かに斬りつけられた痕であり、彼にとって屈辱のであった。

 死の間際、薄れゆく意識の中に激しい怒りがこみ上げる。俺に傷をつけたあの剣士に復讐を。俺を殺した魔導士に復讐を。怨念は人間に対する殺意に変換されていく。

『試してみろ』

 語り掛けるがあった。聴覚さえ失った魔猪に届くのは、空気を震わせて音を発するのではなく、魂に直接語り掛けているから。人間の魔術である自然躁術マニュピレイトアーツに似た手法があるが、同列に語るのはである。

 魔猪に異変が起こる。どくん、と強い鼓動の音が響いて全身が脈打つ度、傷跡から血が滲む。すでに痙攣は収まっていて、鼻息を荒く、強くしていった。

 魔猪の内からあふれ出る生命力が、自らを蘇生させた。

『お前の怒りが、お前を進化させる』

 斬撃跡から滲んだ血はやがて右半身を赤く染めた。心臓が強く脈打つ度、少しずつ、少しずつ巨体を更に大きくしていく。生命力を取り戻して力を増す度、身体を貫く衝動が強くなる。怒りを示す鼻息は風圧と頻度を増し、遠く枝葉を揺らした。巨大化の際に邪魔になった周囲の木々など歯牙にもかけずなぎ倒していく。木の上に乗りあがった、横倒しの身体を起こす。高くなった視界が、森の向こうまで見渡せた。

 村の中で唯一目を開いていたエルフの子供は、村の外で起きていた異変に気が付いた。

はは、あれはなんですか?」

「今は祈りなさい。神への感謝を告げる大切な儀ですよ」

「でも、あれは神ではありません。猪です」

 不明瞭な言葉を繋げる子供に、母は眩暈を覚えた。物覚えが悪い子だとは思っていたが、神様を猪呼ばわりするとは。叱り付けるために目を開くが、彼が前では無く後ろを見て指さしている事に気が付いた。その先を見上げる。そして、彼女は悲鳴を上げた。

 森の木々を余裕で越える大きさの、巨大な猪の魔物が其処に居た。黒い体毛は彼自身の血で赤く染まっている。見開かれた両目は潰れた眼球の代わりに、赤い光を湛えている。それは、彼の怒りを示す赤い星の光のようであった。


 ☆☆☆☆☆


 風がざあざあと木を揺らしている。何かを警告する風の音に気付かないまま、シダラはナギの説明に耳を傾けていた。

「五年位前かな。お父さんと薬草を摘みに来たんだけど、なかなか目当てのものが見当たらなくて。奥まで探すうちに崖から足を滑らせて、エルフの郷に迷い込んじゃって。それから縁があって、年二、三回くらいかな? 御贔屓にしていただいてます」

「よく殺されなかったな。オーライムと静寂ラ・フェイルの森のエルフは不可侵条約を結んでいるんだろう」

 シダラは胡坐を組んで不機嫌な態度を隠さずにいる。喋るたびに突き出した顎が上下に動いた。ハサキと目が合うと、二人はそっぽを向いた。

「いや、それは……」

「お前の見立ては正しい。実際に、我らはナギを殺そうとした」

 躊躇したナギに代わってファリオが横から口を出した。

「だが、あの日、村の中に高熱を出した者がいた。対処療法ではどうにもならなかったが、ナギが持っていた薬草を彼女の指示に従って投与することで、奇跡的に回復した。彼女は我等の恩人だ」

 ナギの事だ、打算込みでエルフを救ったのかもしれないが、結果的に人助けではある。それ以前に、5年前に真っ当な薬の知識を身に着けていた事実にシダラは感心した。

 そこへ、ハサキが声を上げて異を唱えた。

「嘘だ。僕はずっとこの村で暮らしているが、彼女の事は見たことが無い。街の外でオーライムの商人から買い物をしていることは聞いていたが、少なくとも5年前に村で見ていないのは不自然だ!」

「馬鹿、その高熱でうなされていたのはお前だ。のことをもう忘れたのか」

「……あっ」

 ファリオの言う通り、五年前に高熱に倒れたエルフとはハサキの事である。意識がもうろうとしている中、薬を投与されたので彼女の顔を見ていない。回復してから礼を言おうと村中を走り回ったが、その頃にはナギは父親と共にオーライムに帰っていたのだった。五年前と言えばそれなりに昔であるが、長い者で千年を生きる彼等にとってはつい先日に等しい時間間隔らしい。

 思い至り、ハサキは口に手を当てた。シダラはソレを鼻で笑う。

「恩知らずがよ」

「なんだとっ!?」

「ハサキ、よせ」

 侮辱するような呟きに、顔を上気させて怒る。ファリオはうんざりしながらそれを制止した。しかし、シダラの怒りの矛先はハサキだけに向けられているのではない。

「アンタもだ。攻撃前に気付かなかったのか?」

 ファリオはじっとシダラを見下ろす。ハサキと違い、感情の熱のこもっていない冷たい瞳だった。シダラは負けじと睨み返している。

「暗がりだったのでな。だが、お前たちも悪い。村の縄張りの直ぐ近く、それも崖上に潜んでいる者がいれば、我らとて警戒せざる負えない。ましてや、ヒトであるならば」

 淡々と述べる彼の言葉に悪意はない。そうであっても、取り繕うつもりのない言葉に本当に諍いを回避するつもりがあるのか、シダラは疑問だった。

「随分ヒトを目の敵にするんだな。そんなに学院の連中がしたことを気にしているのか?」

「「!」」

 その名を聞いたとたん、二人の殺気が膨れ上がる。予想外の反応に発言者のシダラは狼狽えた。

「ハサキ!!」

 怒声が響かなければ、ハサキは瞬時に構えた弓で矢を放っていたかもしれない。ハサキは歯を食いしばると、ぎぎっと屈辱をかみつぶす音がした。

 そして、制止した男もまた、血走った目でシダラを睨みつけている。先ほど感情の熱が無いと評した瞳には、確かに血に濡れた憎悪の炎が浮かび上がっていた。彼は何も感じていないのではない。ただ、隠しているだけだ。そして、彼の内に秘める憎悪は、若く情動的なハサキでさえ超えているようにも見えた。

「不用意にその名を出すことは感心しない」

 もともと低いファリオの声に重さが増している。場を支配する緊張感は、あと一歩のところで限界を超え、血を見るところまで迫っていた。

「……悪かった」

 無礼が過ぎたことを自覚し、素直に謝罪を告げた。シダラの真摯な対応に緊張の糸は僅かに綻びる。だが、若いエルフはまだ憤りを消火できていない様で、挑発的に見下している。

「フン、お前も学院の一味じゃないのか? 魔法使い」

 先ほどの小競り合いで、シダラは背中から棘を生やす魔法を使って迎撃している。ヒトの魔法使い、即ちオーライムの者では? ハサキが敵意を剥き出しにしている理由の一つが、この疑念だった。

「ついこの間までな。だが、今はもう関係ねえ」

「それはどうだか。背中の紋様はなんだ? 魔導の行きつく先が、そのような汚らわしい紋様に辿り着いているとしたらなおのこと許せないぞ」

 ハサキの怒りは収まらず、次々に罵倒の言葉を浴びせかける。シダラは俯いて罵声をその背で受けた。

 この背を見られることは、本当は避けたかった。消えない紋様は魔法を使う度に光り、浮かび上がる。魔導士には避けようのない症状だ。素晴らしい魔導の研究の成果であるが、シダラにとってこれは誇りではない。

「……そうだ。道徳を無視して人間の命を弄び、全ての罪をにしてより進化を急ぐ。それがあの魔法学院のやり方だ」

「貴様ッ」

「俺の背中に刻まれたのは奴らの魔導の結晶だ。俺はそれを背負わされてる」

「何……?」

 シダラの声が小さく沈んでいく。そこに過去を誇り、正当化する気概はこれっぽっちも見られず、ハサキは狼狽えた。

「奴等にとっての誇りでも、俺にとってはただのだ。俺は奴らの仲間じゃない」

 ついにハサキは言葉を失った。シダラの言葉の節に潜む、怒りや悲しみの感情が、自分がヒトに向けていた感情に似ていると思った。憎むべきだと思っていた相手が、同じ感情を持っていることに戸惑ってしまった。

「シダラ……」

 ナギは彼を案じて名前を呼んだ。彼はバツが悪そうに首を振って、触れて欲しくないことを示している。背中の傷は、誰よりもナギに見られたくなかった。

「それでも戦いたいなら相手になってやる。見逃してくれるなら、俺たちは消えるよ。元々ここに来たのも本意じゃなかったんだ」

 シダラは立ち上がってその場を後にしようとする。ハサキはその背に矢を放つことは無く、代わりに憎まれ口を叩いた。

「ふ、ふん。精々森に嫌われないよう、怪しい行動は――」

「待て。何か変だ」

 ところが、その言葉は意図せず中断させられることになる。ファリオがハサキの肩を掴んで後ろを指さしていた。シダラ達も異変に気が付いて振り返る。崖下から飛び出した鳥たちが、一斉に空へと羽ばたいていく。必死に翼を扇がせ、地上にある脅威から逃れていた。

 エルフ二人は一斉に駆け出し、崖上に立って崖下を見下ろす。見慣れた森林地帯が広がっているが、明らかな遺物が存在感を放っている。

「な、何だあれは!?」

 ハサキが驚きのあまり悲鳴を上げた。そこには、森の木々を優に超える大きさの猪が聳え立っていた。血のように赤い毛並みは月光を受けて怪しく光っている。こちらに背を向けているその巨体は、歩いた軌跡が一目で分かった。何故なら、眼前の木をなぎ倒しながら進んでいて、その木を踏み潰すことで道を切り開いていたからだ。

 遅れてきたシダラとナギもそれを見る。二人はその怪物に見覚えがあった。

「あれは……!」

 先ほど突進してきた魔猪にそっくりな、しかし決定的にサイズが違う魔物だった。体色も黒から赤に変わっている。

「森が……村が!」

 呆然とその光景を見つめながら、ハサキの唇は震えている。猪の進路には彼等の暮らす村がある。

「行くぞ、ハサキ」

 声をかけるファリオは、こんな時でも落ち着いている。ハサキは動揺を隠せないまま、それでも首を縦に振った。ファリオは走り出す直前、こちらを向いてナギとシダラを順に見た。

「ナギ。それに、シダラ。今のうちにこの場を離れるのだ。この騒ぎだ、今なら何も咎められん。そして、二度とこの森に近寄るなよ」

 その瞳には憔悴と憎悪が込められていた。状況と立場が彼に冷静な判断を促しているが、その本心は憎きヒトに恨みを晴らしてやりたい。そう語っているような気がした。

 ハサキも二度こちらを振り返ったが、走りながらファリオに話しかけていて、そのまま視界から消えて行く。

 二人は崖の上に残される。シダラは憮然として眼下を眺めていた。ファリオの言う通り、ここから離れなくてはならない。諍いを起こしたエルフとのやり取りも切り上げる事が出来て、先に急げる。だが、その足は縫い付けられたかのように動かず、開いた瞳も村に近づく魔猪から目を逸らす事ができない。

「逃げないの?」

 背中からナギの声がした。荷物を背負い、いつでも歩けるように備えている。

「逃げた方がいいよな」

 頭ではわかっているから口にも出せる。なのに、身体が言う事を聞かない。心が何か違うと主張している。

「助けに行きたいの?」

 試すような口調だった。疑問の形をとっていながらも、彼女にはシダラの心が何をしたいのかもうわかっていた。

「あの魔猪は俺が飛ばした。俺のせいだ。だから……」

「なら、早く行こう」

 近づいてきた足音はそのままシダラを追い越した。迷うシダラは、彼女の背に訴えかける。

「……けど、逃げないといけない。俺は追われてるから」

「そんなことできないんでしょ、だったら迷うだけ時間の無駄だよ」

 くるりと振り返ったナギは、ウインクして見せる。シダラは呆気にとられた。

「シダラ、これはキミの人生だよ。キミが自分でしたいことを決めなきゃ。んでしょ?」

 彼女が言うのは、モレーと戦った時の自身の言葉だった。俺は俺になるために戦う、彼はそう宣言していた。

 効率を考えるのならば、逃げる事が正解のはずだ。だが、は逃げる事ができない。最初から道は一つしかない。

 シダラの迷いが晴れた。問いかけに一つ頷いて、崖下を真っすぐに見据える。今度は決断を躊躇うのではなく、状況を正しく把握するためにその光景を目に焼き付けていた。

 魔物がエルフの村に侵入し、牙を振り上げている。儀式用の松明が倒れ、木製の住処に火がついて燃え上がっていた。

「ナギ、捕まれ」

「えっ」

 戸惑いを無視してシダラは詠唱を開始する。彼のどこに捕まれというのか、迷った挙句シダラの腕を抱いた。

「!?」

 手を握る事を想定していたシダラは、右腕を包む柔らかい感触に思いがけず怯み、しかし統一された精神を維持して魔法を唱える。

「“風よ、我が身を預けたまえ”。スライウィング!」

 詠唱を終えると、二人の周囲を風が舞う。最初は身体を撫でる程度の強さだったが、それは少しずつ渦を巻くようにエネルギーを溜めていた。ナギは表情を強張らせてシダラの腕にしがみつく。

「な、なんか危ない予感」

「跳ぶぞっ!」

 動揺するナギを引っ張って、シダラは崖を蹴って飛び出した!

「え、わわっ、きゃー!」

 すると、背中から吹き付けた風が二人の身体をさらい、すさまじい勢いで魔猪の元へ向かって行った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る